2009年10月19日月曜日

イチローを見る

ふとつけたテレビでイチローがしゃべっていた。
いつもながらふむふむとうなづく。
語っている言葉に感心するのではない、なるほどそのように生きていくものかという生きる姿に感心するのだ。

何もやることがなくなったなら死んでいくのは道理だ。
イチローはそれを拒否する。
拒否というよりは、自分の生きているを虚構を強化する。

彼にとっての虚構は野球であるのだが、その野球は興味のないものにとって何の意味も成さない。
これは対象が何であってもそれに興味を持たないものにとっては同じことで、何の意味も成さないのだ。
そのことが意味を成すには夢を見る力が要る。
何事にも興味をもてない人間は初めから枯渇している人間なのだ。
(オレもそうかもしれない)

とはいっても、夢見ている人間にどのようにすればそのようになれるのかとたずねられるわけではない。
そこがちょいと難しい。

そのように生きているのが当事者で、どうして野球なんぞに人生をかけてやっているのかと思うのが傍観者だからなのだが、ここらあたりの呼吸はわかってくれるだろうか。

傍観者は当事者に対して踏み込んではいけない境界線があるので、それがわからなければしっちゃかめっちゃかになる。
傍観者と当事者は決定的に違い、そこに一個の人間対人間の会話は成り立たない。
成り立たせたいなら、あなたも当事者としてすっくと立ち上がることだ。

で、イチローのことだが、なんとも見事に野球の中にリアリティを築き上げていく。
形容矛盾になるのだろうが、虚構としての野球のリアリティだ。

彼にとって、そういう野球だからこそいつまでも追い求めていける存在として野球はある。
そしてその野球に対する彼の態度は求道者のようでいつしか自分自身に対する問と答で満たされる。

井上雄彦もそうだ。
この二人とてもよく似た顔をしている。
これは偶然ではない。
同じような顔に至る生き方を二人がしているからだ。

さて、そんなことを思っているとあの亡くなった加藤和彦、もしかして大向こうを意識していたのではないかと思い当たる。
そうでなくとも、自分の中で閉じる虚構の系を作れなかったのではないか。

だとしたら、致し方あるまい。
この人生で戯れるには虚構を持つ必要があり、その虚構は枯渇してはならない。
やることがなくなったなどと枯渇してはならない。

なかなか出来ることではないけどさ、愉快に生きていくためには必要だね。
オレに出来るかどうかは別にしてだけど。

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