2009年10月15日木曜日

棋士という世界に垣間見るもの

里美香奈、芳紀まさに十八歳

女流将棋界の新星であった里美香奈もすでにタイトルホルダーだが、いまでも上記のような表現の似合う娘である。
そして、思ってみるにこのような表現に似合うとなると勝負の世界の女性が一番ではなかろうか。

それは、実際の意味とはかけ離れたことになるのだろうが「芳紀」自体の字面が、ある種、気高さを感じさせるところによるのかもしれない。
もちろん、個人的な見解だ。

里美香奈に限らず、というよりは一部の若い青年棋士たち、特にかつての時代の青年棋士には特にそのような気高さがあった。
そしてその気高さは同時に残酷さを併せ持っていた。

己を辞して将棋にかける一途さにはそのような酷薄さが宿ってしまうのだろうと想像するしかあるまい。

早世した山田道美と若い日の天才加藤一二三の会話が山田の文章で残っている。
銀座の人並みの中での山田の問に対しての加藤の応答だ。

 この中に、真に生き、生きることに値する人は何人いるのかしらねーー

 いや、みんなムダ手だと思うナ

それだけの会話だが、この会話が彼らの心の底からの思いであることを考えれば恐ろしい。
このとき、加藤一二三は二十歳で、名人挑戦者になっていた。
一方、山田も打倒大山(大山康晴)に燃えていた。

ともに将棋に賭けていたのだ。
賭けていたからこそ銀座の群集の甘っちょろさが鼻についたのだろう。

けれども、人は甘っちょろさの中で生きていくのであって、彼らのような真剣の刃渡りのように生きはしない。
多くの人はそのように彼らと一線を画した世界に生きるのだ。

決して二つの世界が交わることはない。
交わることはないのだから、紹介した五十年も前になる若き二人の棋士の会話はじつは成り立ってはいない。

そこには心意気が転がっているだけだが、そのようにして生きた人がいることを知ってもいいだろうと思って紹介した。

それぞれの人がそれぞれの思いで生きている。
そこに生きようの差はあるが、それをとやかく言わずにそれぞれがそれぞれ思うように生きられたらいいと思う。

いまは外野がうるさすぎるようだ。
だれだって胸を張って生きているわけではないのだ、阿呆でなければの話だが…
静かに見守ってやればいいだけのことではないか。

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