湊かなえ「告白」
三人称多視点の作品は、あまり多くはないが、質の高いものに出来上がることが多い。
それは、安易な登場人物と読者の同化を避けているところから来るのだろうと思うが、それだけではないかもしれない。
むしろこの世の中がそのような多くの解釈の目にさらされて出来上がっていることを如実に描きだすことにある種の感動を覚えやすいせいかもしれない。
眼前に存在するだろうと思っている事象は、わたしがそのように解釈しているだけのことで、じつは手前勝手なものなのだなあという感慨をおびき寄せるようになっていることをわたしは言おうとしている。
それはさておき、「告白」はそれぞれの視点がそれぞれの告白という形式になっているところが興味深く、さらにそれぞれの告白が他の視点が産み出す物語に対して決定的な謎解きではなくいくばくかの齟齬を産み出していくだけというところに小説の進行を頼っている。
その寡黙さにこの小説の品のよさが感じられる。
要は、劇的な要素が小出しになっているわけだ。
ところで、暇つぶしに手に取るならば東野圭吾の「悪意」も歪ながら三人称多視点になっているが、こちらは劇的なラストを向かえる。
その単純な構成が、読者に安心をもたらす読後感を与える。
大きな感動や芸術的手腕はいらない。
お暇ならどうぞというところがこの男(東野圭吾)にはある。
それが東野氏の優れた点である。
小説なんぞ、たかが暇つぶしではないか。
そういう作者がいてもいいではないか。
もちろんそうでない作者がいてもいいのは無論のことである。
ラベル: 小説
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