2009年10月6日火曜日

枝雀がなくなって10年が立つ


「YOU TUBE」などで桂枝雀をみていると、あの人が自死したわけが少し胸に響くときがある。


彼を見ていると、死と生がそれほど遠い距離を隔てて対峙していないことがわかる。

むしろ、そばに寄り添っているようにも見える。

あるいは内包しているようにも見える。


その内包は、生が死をか、死が生をか、入れ替わり立ち代り場を変える。

そういう姿にはっきり見えるのは、そういう風に生の周りを死が飛び交う人生の演出者であった枝雀がとりわけ一生懸命の人であったということだ。


一生懸命には死の薫りがまとわりつく。

何事もないがしろにしないからだろう。


そのないがしろにしなかったことが枝雀の話の中心部に宿る。

それが笑いにつながっていく。


笑いもまた死の一変形だろう。

どうして枝雀の映像にはあのように死がまとわりつくのだろうか。

それは彼が自死してしまったという事実がそうさせている部分もあるのだろうが、それだけではあるまい。


一生懸命さが隠しているように見えるが、それだけでは十分に彼に寄り添う死は隠れないのだ。

彼もまた、どこかに生きるに値しない自分を見ていたのだろう。


幸か不幸かといっておこう。

必ずしも不幸ではないと、わたしは思うからであ。

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