2009年10月6日火曜日

この世に認められているならば…

この世に認められているならば…というのは喰っていけるようになっているのならというほどの意味であるが、そうなれば話は変わってくる。

それは、イチローがそうであるように井上 雄彦がそうであるようにだ。
この二人の表情が酷似していることはよく言われている。
どちらも求道者の顔をしているというわけだ。

野球にしてもマンガにしても浸るべき対象に大きな差はない。
そこに自分の場所を見出し、挙句の果てに逃げ出せなくなってしまったものが何かを見る目をしている。

彼らの幸せは、すでに世に認められ喰うことにあくせくしなくなっているということだ。
喰うことに困っているのなら求道者も何もあったものではない。
(いやいや、正確には喰っていけない中で求道者であった、そういう人たちもいたのだ。それはそれとして大きな話だし、立派な話だ)

野球を生きる「バガボンド」を生きると言いなおしてみようか。
先の二人はともにこのような生き方をしている。
そして、その生き方に自分を見据えている。
そこに他者の視線を多く期待しない。

もっと言ってしまえば、すでに彼ら自身の中に他者の視線が存在するのだ。
そのときかれらはどのように生きているのか。

それが、わたしが持つ一つの問題意識だ。

ラベル:

0 件のコメント:

コメントを投稿

登録 コメントの投稿 [Atom]

<< ホーム