2009年10月9日金曜日

映画にしたって演芸にしたって

評論家と呼ばれる人種は基本的に多くのものを見ているところに存在価値は生じる。
映画評論家がそうだし、演芸評論家がそうだ。
もっと言えば、小説評論家(書評家?)がそうだし、食の評論家がそうだ。

けれどもそこでは終わらない。
その先に本物はいる。
本物はいるが、それにしてみてもやはり多くのものを経験しているに越したことはなかろう。

小林信彦という目利きがいるが、彼は驚くほどの映画や小説や演芸を見聞きしてきており、実にそれを丹念にメモしている。
そして、それを元に彼の文章を起こすのだが、この文章の秀逸さは彼の情報量を凌駕する。
だからといって、情報量が必要ないかといえばそういう話には決してならない。

情報あっての小林信彦の技量だ。

色川武大の情報との付き合い方はちょっと違う。
乱雑に映画を見、演芸に接し、ジャズを聞きながら自分の世界を構築していく。
細やかに整理はされてはいないが、やはり情報は彼の周りにある。

では、正岡子規はどうかとなると、これは難しい。
「病状六尺」で象徴されるように現実生活での彼の情報収集能力は少ない。
その分、多くの歌に接したのだろう。
ここでも接した歌の量という情報量が横たわっていると考えるべきであろう。

もっと単純に書いてしまえば、何かを論じるときにその対象を知りたくなるのが常であり、その知りたくなる心が情報量を呼ぶ。
呼んでしまった情報をどう扱うかはその人の品によるもので、ここにその人と作品との密接なかかわりが生じる。

人の品はどうやっても作り出すことは出来ないが、だからといってここに創作の秘密があるばかりではない。
むしろ、軽視されがちなその人独特の情報処理のされ方の中に創作の秘密はあるかもしれない。

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