2009年10月11日日曜日

小三治のまくら

知人から見知らぬある人と飲んだ話を聞いた。
その人が落語ファンで、一過言ある人だったという。

一過言とは今の落語家では小三治が一番だろうが、小三治のまくらは問題だといったようなことらしい。

小三治のまくらはじつに個性的で、場合によってはまくらだけで終わるときもある。
そうでなくてもやたら長い。

小三治師匠はそういう雑談が好きなのだ。(その雑談が見事に芸になっている。でなきゃ、本にならないわね「ま・く・ら」「もひとつま・く・ら」…おもしろいよ)
それを好む客は多くいるが、なるほど嫌いな人もいるのかと知人の話に感心した。

けれどもそれは個人の好みで客観的な評価にはつながらない。
落語を愛する人に好みはあるが、それを他人に押し付けてはいけません。
もちろん逆もそうで、小三治の噺よりまくらのほうがすばらしいもいけません。

小三治を話すのであれば、わたしは小三治のまくらが好きだな、とか高座でせんじ薬をすするしぐさが好きだな、という風にあくまでも自分の好みの世界に引き寄せておしまいにしたいものです。

じつは、わたしもまたいまは小三治の時代だと思っているですが、鼻につく談志も最高級のセンスを持っているのも知っている。
知っているから談志を否定はしない。
今年はもう談志は落語をしないと宣言しているが、はてさて来年はどうか。

どちらに転んでも談志は長くはないから一度くらいは頑張って聞いてみるのもいい。
もちろん聞かなくても大勢に影響はない。

今は落語も多くCDやDVD化されている。
気が向けば聞いたり見たり出来るし、寄席に足を運ぶのもいいだろう。

けれども、落語を聴かない人生がつまらないかといえばそうとも言えはしまい。
落語がそうであるようにクラシックなしでもロックなしでも山登りなしでも絵を描くことなしでも人は生きていける。

問題はそれでは少し寂しいではないかというところであって、もし少し寂しいのなら何かと付き合うというのは一つの手ではあると思う。
もちろんそれが落語であってなんら問題はない。
どんな聞き方であってもね。

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