2009年3月31日火曜日

サクラを見る



日曜日にはサクラを見ました。(上が上野、下が谷中の写真です) 

谷中霊園から上野公園へとそぞろ歩きしたのですが、あんなにも近距離でサクラの花の状態がまるで違っているのは驚きでした。

日照の問題や風の通り道やらいろいろあるのでしょうが、まず生き物のこの反応の細やかさに素直に驚いておくことにしましょう。

花の下ではたいていの人々が、何が楽しいのやら騒いでいるのですが、いっこうにわたしには実感できないでいました。
わたしは知らぬうちに遠いところまで来てしまっているのかもしれません。

なかに幼い子ども五人と夫婦のグループが小さな敷物の上で肩寄せ合う姿を見ました。
もちろんサクラを見に来ていたのでしょうが、やや暗い影の落ちた夫婦と一番上が小学生からなる五人の子どもが異様に寡黙であったのに少しぎょっとしました。
その七人はスナック菓子をほおばるだけで特に話もせず、サクラの下に、それも日陰となる場所にしばらくいて去っていったのでした。

飲み物はといえば、父親が片手に持った小さな缶コーヒーだけで、空騒ぎの喧騒はともかくそこにだけ良くも悪くも人生の時間が流れ、まだ三分咲きほどの谷中霊園サクラによく似合っておりました。

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2009年3月27日金曜日

酒を飲まなければ

酒を大量に呑まなければわたしに鬱状態が襲いかかることはない。
酒なしの日々がこのごろは長く続くが平穏そのものだ。

これが長く経験した自分の自分に対する理解だ。
そのため多少酒を疎ましく思うことがある。

それでは長年付き合ってきた女に対する仕打ちと同じではないか。

酒には随分助けられてきた。(ある女性たちにも)
彼らにまったく見向きもしないというのはいかがなものだろう。

そのためというのではないが、今宵は神保町で人と飲む。
愉快な時間が過ごせればそれに比する幸せもあるまいが、追いかける鬱を思うとしかめっ面をせざるをえない。

ま、そのとき任せの人生だもの、思い悩まず痛飲することにしよう。

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2009年3月26日木曜日

春の嵐に


毎年楽しみにしていたあの白木蓮が春の嵐に無残な姿を呈してしまった。(写真は借り物)
ほんの少しの気のゆるみが命取り。
鮮やかなあの白木蓮には会えずにしまった。

こんなことばかりして人を裏切ってきたのだなあ、と思わず感傷的になる。

待ち人来たらずも、もしかしたらわたしのせいなのかもしれない。

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仰臥漫録


悟りというものがあるならば、平生からの死への覚悟だと思っていたがそうではなかったようだ。

いかなる状況でも生きていける

これをもって悟りというのだろう。

子規のこの本はすさまじい。
まさに病状六尺の中からの咆哮だ。
咆哮するくらいだから悟りも何でもないかと思うと、急にせつない思いが吐露される。
あるときは自殺せんとする自分の姿を描く。
そして、その横にはそのとき使おうと思った千枚通しと小刀がスケッチしてある。

日々の食事に対する執念、他者に対する痛烈な批判(特に中江兆民に対するものか)、そしてやさしい思いやり。
子規の布団の上にはあらゆるものが行きかう。

これをもって悟りとすれば、のたうちまわるなかにも悟りは存在するわけで、静かな涅槃を思い描いてもらっては困るわけだ。

ただしこの書を含読するには読者の質にもよるだろう。
若いあなたが読んだところで何が何だかわかるまい。

初老のわたしが読むから圧倒されるのだろう。

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信頼と習慣

人の生活を形作るものとして「信頼と習慣」をあげてみた。
習慣はそこに何の反省もなされぬものなのできわめて重要なその人作りをする。

経絡というコトバをご存知か?
調べれば、

「古代中国の医学において、人体の中の気血榮衛(気や血などといった生きるために必要なもの、現代で言う代謝物質)の通り道として考え出された」

となる。
これを内経絡と定義すれば、外経絡が見えてくる。

外経絡もまた通り道。
通り道ではあるが、人体の中ではなく外の通り道。
どの道を通り、電車に乗り会社に行くか。
どの店に寄って自宅に戻るか。
どの人と定期的に会うか。
   ………

すべて外経絡といってよい。
人は知らず知らずそれらのことを決めてしまっている。
たとえば、自宅での過ごし方も外経絡に入ると考えていい。
その外経絡が自分の意識に大きな影響を与えている。
内経絡が人体に大きな影響を及ぼすがごとく。

自分の生活に不満があるとき、努力は必要ない。
まずもって外経絡を変えるべし。

なに、たいしたことではない。

普段通らぬ道で会社に向かうとか、普段寄っていた店を変えてみるとか、家に帰れば必ずつけるテレビをつけずにいるとか…
ごく些細な変化をもたせることで大きく生活は変わり、新たな出会いも生まれる。(この場合の出会いは人であったりものであったりする)

このようなことが習慣のもつ信じられないような効果だ。
そしてその可変な習慣の中からあえて選び取った習慣と変わることない何ものかとの信頼があれば、ひとは地について生きていける。

テレビや新聞が教える人生観が忍び込む隙はそこにはない。(たまたま新聞やテレビの主張する在りようと自分の在りようがいしょならばそれはそれとしてだが)

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2009年3月25日水曜日

百年に一度の不況とはいうけれど

今回の不況と大恐慌を同じと考えていたとすれば大きな間違いだろう。

異なる大きなポイントは今回の解決策として第二次世界大戦はないだろうし、よしんばあったとしても核のあるこの世界では経済効果が前と同じように期待できるとは思われない。

さらに金本位制を取っていたということ、金融資本主義のレベルが違いすぎるということも大きい。

私見によれば今回の不況は金融資本主義の崩壊である。
金融資本主義はこの人口爆発する世界をまがりなりにも保ってきた。
まがりなりにもとは世界中がくまなく順調だったわけではないからだ。

金融資本主義の無秩序な暴れぶりは経済成長しなければならない世界の宿命であったように思う。
経済成長が至上命令なのは人口成長と密接につながっている。

資本主義下では金を稼ぐしか人に生きる道はない。
その金は物を売って得るのだが、その目をはっきりあけて見つめてみれば、じつはわれわれに売るものなどほとんどないのだ。

衣食住とは言うが、本当に必要なものは食であり、衣も住もそこそこでよかった。
さらにそれに付随するものにいたっては必要なものではない。
奢侈品と呼ばれるゆえんだ。

にもかかわらず売らねばならないのは人口爆発が生み出した多くの人々が食っていかねばならなかったからだ。
(もちろん食う手立てのない人々はいて、彼らは死に続けている。アフリカや中南米のいくつかの国を見てみればいい)

さて、貧困に苦しむ国はさておき(これが主要国の立場だ)、食べていくためには大量の金を流通させなければならない。(たとえその流通に歪な流れが生じようとも)
この歪な富の再分配過程には多くの不必要な商品が必要となった。
その代表格が、ローンを含む金融商品である。

もちろん過剰な広告でわれわれを踊らせ買わせ続けた家電商品やクルマも大きいが象徴的には金融商品が槍玉に上げられるだろう。

問題は、金融資本主義の崩壊とともに売れる商品がなくなりつつあるということだ。
購買される商品はなくなり、富の再分配は滞る。
富をすでに持っている者たちはそのままその場所に居座り、富の蓄積のないものはひたすらに堕ちていく。
街は犯罪に染まり、一方でぬくぬくと生きる連中はこの世を謳歌する。
あの連中にとって不幸な人間を見ながらの謳歌は特別なものらしい。

金融資本主義が崩壊したとすれば、過剰な広告による奢侈品の購入のばかばかしさにわれわれが気付いたとすれば、もう一度あの時代へと後戻りすることはできない。

そうなったとき、もっとも大きな問題は、後戻りできなければ過剰な人口は捨て去られるということだ。
各国ブロック経済の様相を呈し始めている。
ヨーロッパでは他国の労働者に対する排斥運動も起こり始めた。
日本も他国からの労働者に対しては過酷な仕打ちをしている。

百年に一度とは言うが、今回の不況の乗り越え方は前回以上の悲劇を伴う。

まずは不自然に人口が減少していくことだろう。
そして、輸出できなくなっていくなか、われわれの産業構造は第一次産業に力を入れていくしかあるまい。
助け合って生きていくのならば、大きなブロックとしてアジア共同体を構想する手立てはある。
あるが、その方向への道は困難を極める。

あぁ、と嘆息してみてもいい。

今の不況に満州はない。
「満州は日本の生命線である」の満州がないのだ。

日本は農業自給することでしか生き抜くことはできまい。

だれが不必要なクルマや液晶テレビを買うものか。
今回の不況は百年に一度の不況などではない。
人類が始めて経験する歴史を大きく引き返すか否かの選択を問われている不況なのである。

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2009年3月24日火曜日

いい試合でした


いいものを見ました。

WBC最終戦、10回の表ツーアウトランナー二塁三塁、バッターはイチロー。(3-3の同点)
打撃運動の始動にほんのわずかな引く動作を含んでいたためバットがコンマ2、3秒遅れていたイチローのバッティングもようやく今日の韓国戦には矯正されていた。

この試合9回裏、韓国に同点にされるときより尋常のものではなくなってきていた。
そのエンディングにイチローは打席についていた。
韓国は逃げることなく、正しいバッティングフォームに変わったイチローと勝負してきた。
そして、何度かのファールのあとにイチローの打ち放ったボールは計ったように投手の頭上を抜けセンター前に落ちる。
このボールの軌跡のためにすべてのWBCのゲームが行われてきたようななだらかで美しい放物線だった。

野球というものはいいものだと思う。

今回の日本チームの活躍はすばらしかった。

ただ興ざめなことを付け足しておけば、この日本チームが戦ってきた過程とつかんだ優勝はわたしに勇気を与えてくれるものではない。
それが与えてくれるものは観客としてみているわたしの喜びだ。
彼らがわたしにわざわざ与えてくれるものなどなにもない。

彼らにあってわたしにないもの。
それは当事者だけが抱くことのできる果実。

傍観者に抱くことができるものは自分の身のうちから鬱勃と噴出す感動で、その感動は決して与えられたものではなくあなた自身が生み出したものだ。

勇気など他者からもらうものではない。
恥ずかしげもなくテレビではわめきたてるのだろうが、わめきたてるあやつらは内省なき人種だ。

お気をつけあそばせ。

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2009年3月23日月曜日

ディープブルー


標題はハリウッド映画だが、見てみるとプロットはパターン化していて、大枠にサメを使っていることが違うだけだ。
見せ場には「ポセイドン・アドベンチャー」「ジョーズ」「エイリアン」…とかつてのヒット映画のシーンが目白押しだ。

それでもかようにハリウッド映画が隆盛を極めるのは(最近危なくなってきているかな?)、これはもう金をかけた水戸黄門以外の何ものでもなく、もっと言えば「釣りバカ日誌」「寅さんシリーズ」…と同じで、それがヒットするのは、あの世界に浸りたいというものなのだろう。

あの世界に浸りたいといえば「釣りバカ日誌」「寅さんシリーズ」のほうが上等だろうから、ここであの日本映画の名シリーズを出したのはちょっと筆がすべったと理解していただきたい。(ごめんネ)

とにかく、何らかの細やかな映画を観客は期待しておらず、あれを見たい見たいが先行している。
それを受けてハリウッドは手を変え品を変え、金をかけて作品を作り金を産み出す。
ベルトコンベアーシステムといわれる所以である。

そうでないものももちろんあるがそういった映画を見つけるには苦労がいるし、その嗜好を満たすにはハリウッド映画を手本としていない外国映画を探したほうがいいだろう。

もちろんそれにしたって手間はかかるわけで、いい人に出会うのが難しいがごとくいい映画にぶつかるのも大変だ。

そうはいいながら見ただけのものをこの「ディープブルー」も残している。
ああ、またかとは思うけれどね…

観客がどうであるかが映画を決める。
それは観客の質ではなく量がきめるものだから、多くの人が望む映画を今日もまたハリウッドでは生産している。

そういえば、テレビニュースの視聴率が上がっているらしい。
テレビのバラエティを嫌う視聴者が増えているという傾向だろう。

この不況下、キャアキャラ、キャアキャラ騒がれてもねえ。

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2009年3月22日日曜日

井田真木子さんへ


心を折る、という表現がこの世に登場したのは、91年に書かれた井田真木子の「プロレス少女伝説」(大宅壮一ノンフィクション大賞)、神取忍とジャッキー佐藤戦のなかだった。
この「心を折る」という表現はわたしの知る限り夢枕獏がこの本の文春文庫版のあとがきで絶賛し、その後人口に膾炙していった。
付け加えれば井田は、「プロレス少女伝説」に続き、93年には中国残留孤児2世を追った「小蓮の恋人」で講談社ノンフィクション賞も受賞する。

その後井田は 2001年3月14日午後11時すぎ、東京都新宿区の病院で死去する。
当時44歳。
死因は不明。
14日夜、自宅で倒れていたのを知人が発見したという事件は熱心な彼女の読者を震撼させた。

「心を折る」という表現は、彼女亡き後も、テレビの格闘技はもちろん他のスポーツ中継にも頻繁に使われるようになり、塵芥にまみれ急速にその魅力を減じていった。
テレビというメディアの持つ軽薄さはこのようにあらゆるものを陳腐化させていく。

もう一度井田真木子に戻れば、彼女には「十四歳見失う親 消える子供たち」(1998)という重要な作品がある。
あの当時日本の援助交際をアメリカの十代の「ストリート・サヴァイバー」と並べて考察したのは井田の卓見であった。

87年アメリカの本格的な景気低調期から始まっていく「ストリート・サヴァイバー」を帰る家はあり、明日にも餓死する状態ではない、街を彷徨うが自分たちをホームレスとは考えず、性行為を売買するが自らを売春婦とは思っていない、…とその特徴を見る。

同じ特徴を援助交際にも見、経済バブルがはじけたときに生まれた共通点を凝視した。
日米の彼女たちに対する井田の定義によれば、以下のようになる。

「近代以来、子供は生産のにない手のひとつであったかもしれないが、余剰所得の稼ぎ手ではなかったはずである。…<援助交際>というのは要するに、子供のための余剰所得方法なのである」

「十四歳」はあまり売れなかった。
同時にマスコミにこの井田の秀逸な分析はあまり取り上げられもしなかった。

しかし、この分析は私見ではあるがとても重要な指摘で、余剰が、経済成長がこの社会を発展し続けてきたことを考えるときに、その裏側で行われていた破壊をリアルに教えている。
いまだに経済成長を願う社会に生きていて、蝕まれている人びとを思うとき(もちろんその群れのなかにわたしもいるのだが)、さらにおまえたちは余剰を生み出す使命を負わせ苦しめるのかと暗澹となる。

それは、ひとつの見方ではあるが、忘れるべきではない見方であろう。

余剰所得で成り立つ人生も、関係も声高にそれが正義だと叫ぶほどのものではない。
余剰なき生活を考えるとき多くのものが必要ではなくなる。
そして必要でなくなったものはもともと必要ではなかったのだ。

途中までテレビの持つ悪魔的な影響力を書こうとしていましたが、それはまたの機会とします。(失礼)

貧しくともあなたがいい。

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2009年3月21日土曜日

一寸先が闇ではなく、もうすっかり漆黒の闇のなかだ

AIG高額ボーナス「あぜんとした」 米大統領がTV番組で感想  
「あぜんとした」。オバマ米大統領は19日、ジェイ・レノ氏が司会を務める人気テレビ番組「トゥナイト・ショー」に現職大統領として初めて出演し、AIG幹部への高額ボーナスを聞いた感想を語った。

 「我々はお金を取り戻すため、可能なことは何でもやっている」とも説明。AIGへのボーナス支給を食い止められなかったと批判が出ているガイトナー財務長官を「素晴らしい仕事をしている」と擁護し、責任論の沈静化を図った。


AIGのようなことは日本でも起こっているはずだろう。
都市銀行なんかそうではないのだろうか。
そうでありながら、まったくアメリカのような動きが起こらないのはなぜかと思ってしまう。
オバマ氏のすべてがいいとは思わないが、まったくエスタブリッシュメントに対して日本政府が無力なのはどうしたものだろう。

もちろんアメリカにもその傾向があるのだろうが、それでもこれくらいのことはしているのだろうから。

先を思うと目の前が真っ暗になってしまうよ。

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2009年3月20日金曜日

また日韓戦だねえ

同じ日本という国が統治していたにもかかわらず韓国と台湾では随分と日本に対する態度が違う。
それは、台湾の場合が日本統治のあとにあの外省人と呼ばれる国民党の悪政の結果だろうか。
韓国と台湾で日本の統治に大きな違いがあったとは考えにくい。

にしても韓国の日本に対する燃え方は異常な感じがする。
そういえば、韓国と北朝鮮はもともと同じ国。
この二つの国は第二次世界大戦の落し物のように1948年に生まれた。
(1948年8月13日に李承晩が大韓民国の成立を宣言し、金日成がこれに対抗して自らも9月9日にソ連の後援を得て朝鮮民主主義人民共和国を成立させた)

その後、朝鮮戦争が起こる(1950年6月25日 - 1953年7月27日停戦、事実上終結)。

成立したばかりの大韓民国(韓国)と朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の間で朝鮮半島の主権を巡って、北朝鮮が韓国に侵略し勃発した国際戦争(1950年6月27日の国連安全保障理事会の決議では、北朝鮮による韓国への侵略戦争と定義している)、この戦争によって朝鮮全土が戦場となり荒廃し、朝鮮半島は南北二国による分断が確定されることになった。

この結果、北緯38度線は単なる境界線ではなく、事実上の「国境」となった。
と同時にわれわれの目に二つの異質な国家として映るようになってしまった。
同時にネガのごとく日本も二つの国家から憎むべく登場したのだろう。
皮肉なことに登場した日本はそれぞれ独立した二つの朝鮮半島の国で同じ様相を呈した。

そんなふうに見える、あの日本に対する反応は。

日韓戦と拉致問題。
意外に禍根は同じところにあるのかもしれない、誰も指摘はしないが。

他国を統治するということは、他者が誰かを統治するということは、いかなる善政をもってしたとしても、許されるようなことではあるまい。

詫びて、おのれの背をまっすぐに伸ばすことぐらいしか出来ないのではないか。
個人的にはそう思っている。

過去は直せないが、われわれには未来があるというのはその姿勢からの一貫である。

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2009年3月19日木曜日

まことに恥ずかしい話だが…

何事にもって先達は必要なものであることよなあ。

この世には無数の本があり、無数の映画があり、無数の絵画があり、無数の器がある…
そのすべてを見てみたいものなのだが、そう欲するのは童の戯れ、どこかで切り捨て選ばねばならぬときが来る…、限りアル人生ならば。
そのときに、信用する(そう思っていける)先達があれば助かる。

先達に導かれ、本を読み映画を見ていけばよいのだから。

わたしはそのようにしてクリント・イーストウッドの映画を見てきたがいまだにその映画のよさはわからない。
けれども先達に対する信用は失墜することはないのだからこれからもイーストウッドの映画は見ることになるのだろう。

本もまた同じで、わたしは恥ずかしながらアン・タイラーを読んではこなかった。
ここでもまた先達がいて、この人の本を教えてくれた。
わたしの終わりが来るまでボチボチ読んでいけると楽しみになった。

いい本に、映画に、絵画に、器に…出会うのではない。

いい先達を持つことに必死になることだ。
それと先達を見極める感性を…

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2009年3月18日水曜日

わりと不思議なことだけれど…


わたしの贔屓の上戸彩はなかなかマスコミから消えていかない。
あの娘が気立てのいい娘だろうとは思うが、そんなことはマスコミには関係ないはずだ。
にもかかわらずあの娘が消えていかないのはなぜだろう。

うれしくもあり、哀しくもある。

普通の幸せをあの娘には受け取ってもらいたい。

人が幸せであるのは、ちょっとした臆病さや、優柔不断や、情けなさ…で成り立っていると思うときがある。

人の幸せというが、大それたものではなくちょっとしたずれの織り成す出来事であるかとも思う。
そういうことを思うとき、些細なことを踏みにじってきた自分の足跡をうらみがましく見つめ返すときもある。

というわけで、わたしは上戸がかように芸能界に長く生きながらえているのがちょっと不思議だと思う。

もしかしたら、芸能界というあの世界にもあの娘を尊ぶ気分が漂っているのだろうか。

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WBCに関する意見を聞かれて

本日の日韓戦に対しての意見を聞かれて王貞治氏は一発がある分、韓国のほうが有利だろうと答えた。
一発とはもちろんホームランのことだがホームランだけではない。
ホームランを恐れるためにピッチングに及ぼすもろもろのことも指している、たとえば四死球とかネ。

こういう予想を聞くと、しばし安心する。
うるさい皮相な日本応援には辟易します。
それもマスコミ主導だから。

「マスコミと司法は向こう側の手のなかにあり」という事実は、早、われわれにも知られつつある事実となっています。

操られますまい。

世は不況祭り。
スーパーは値下げ合戦をし、日本共産党の勢いは報道されていないが明らかに瞠目すべきものらしい。
今後何が起き、どのように転がっていくのかわからないが、この日本は一本化してはいない。

不況下にある人間も不況を免れている人間もいる。
保身のために生きていく人間たちにとっての日本はわたしたちの日本ではなく、まったくの別物だ。

WBCを楽しむのはいいが、踊らされてはなるまい。

われわれ自身がわれわれ自身で楽しんでいればいいのだ。

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声を聞く努力

人の話なんぞはなんとでも作れるもので、それを馬鹿正直に信用しているから騙されたりする。
騙されるといっても詐欺に会う大きなことばかりではなく、話し手本人も知らず知らずに語ってしまう空ろなコトバというのはこの世のあちこちに氾濫していて、むしろまっとうなコトバに出会うことのほうが少ないくらいだ。

ま、だからといってあきらめることはないので、あなたの望むコトバは誰からの口から出てくる以外にはないのだから、気長に待つさ。

人の話はその内容だけを追っていては翻弄されるのが常で、内容よりもすばやくその人の声を確認する必要がある。
怪しい話になるが、声音を聞いていればその人の声がどこから出てきているか、その人の気がどの辺りにあるかわかるようになってくる。
気が上がった人の声はとても耳障りなもので、それだけで信用はでいないことがわかる。
この身が自分の耳を通して反応するというわけだ。

逆にこの人はという人の声は心地よく耳に響くし、気も十分に落ち着いて臍下丹田のあたりから発せられる何ものかと一緒に声もそこにある。

そういうコトバはあまり意味がないように思ったとしても十分に聞く価値はある。
で、どうだったかは聞いてしまったその後に自分で吟味してみればいい。
吟味といっても、なに、高みに立っているのではない。
哀しいいかな、所詮自分の身の丈に合ったことぐらいしか自分の中には入ってこないものなのだ。

そういうわけで、昨夜テレビを見ていて登場した星野直子の声といったらなかった。
星野道夫もこのような声をしていたのだろうと思う。

耳をそばだてていないと聞こえてこない声がある。

あなたにもそういう声を聞いていてほしいと思う。
そうしてその声が何をささやいているか聞き取ってほしいと思う。

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2009年3月17日火曜日

ハウジングプア

安定した収入のない人が住まいを失う「ハウジングプア」というコトバが登場した。
一方にはホームレスというコトバもある。

ホームレスというコトバは路上生活者を指すものだが、たまたま「ホーム」というコトバを使ったものだから北九州で奥田 知志さんのような活動が生まれる。
そう思っては名づけなかった名前から活動が一人歩きした。

「ホームレスの問題には二つの局面があると思います。
ひとつは、“ハウスレス”。家がない、食べるものがない、仕事がないなど、物理的なモノに欠けていること。
もうひとつは、“ホームレス”。帰る家があっても、家族や友人との関係性が途絶えてしまい、孤独感は路上生活のときと同じまま、ということです。
全国的には“ハウスレス”のみの問題しか支援されていないことが多いですが、北九州における支援活動の特徴は“ハウスレス”と“ホームレス”の両面からサポートしているということです。
しかし、そこからさらに進んで「“ホーム”の回復」についてまで支援していかなければ問題の解決にならないと私は思っています。」

これが、奥田氏の思いだ。
ハウスレスは大きな問題ですから、これに対する活動は続けていってほしいですが、この背後に「ホームレス」を見逃してはならないという見方は大事だ。

家があってもそこにホームがない人間は多い。
その場合、今まで雛形と考えられたホームへの思いをきっぱりと捨てて新しいホーム作りへ向かうことも考えねばならない時期に来ていると思う。

いままでのホームには役割作りが割り振られすぎていたように思う。(そしてそれを押しつけすぎていたようにも)

「人にはそれぞれの形がある」

そこにはその形でいることを許すという方向が欠けていた。
人はだめな状態でもいいのだ。
(そのだめな状態に納得していなければ…、人の思いは外側から見ているよりもはるかに深い)
もしもその人にホームというものがあり、人間関係があるのならいつかその人の心も温まるということもあるだろう。
そういう意味でハウジングプアとは別にホームレスと取り組む奥田さんの活動はこの世に欠かせない。
そしてこの活動の大変さは人を十把一からげにしないところにある。

ホームとはもともとそんなところに存在していたはずだ。
つまり、人を十把一絡げにせず、その人に近づかず見守るところに。

ホームレスとはふざけた名前だと思ったこともあったけれどこういう小股掬いもあった。

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2009年3月16日月曜日

三つの睡眠剤と抗うつ剤

久しぶりに昨夜、三粒の薬の力を借りて眠ってみた。
その効果は覿面で、十時間以上の眠りとなった。
長い(永い)眠りはそれだけで安寧を与えてくれる。
起きた後、しばらくして気持ちが落ち着いてくるとき自分が装置としてもあることを思い知らしてくれる。

薬物を使っての眠りには若干の邪悪さが伴うがそれでも眠れることは安堵を産む。

もしも、このような形で死んでいくことが出来るならば、そういう一粒が開発され、人々に手軽に手に入るようになれば、多くの人が群れをなしてあの世へと旅立つのだろうか。

長き眠りのその後は目覚めだけとは限らない。

そして生きていくことだけが与件として正しいとは限らない。

「大きい死のなかの小さな生」

夢見て生きて生きたいものだ。

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言説を操る

一貫した言説を取り続けるのは難しい。
このことは知っておく必要がある。

状況が変われば変節することはあるだろう。
この場合の状況は、周りの状況(環境)であり、自分の状況である。

もともと人間はそのように出来ており、一貫するのは姿勢でしかなくその姿勢から提出される言説がいかに変わろうと姿勢さえしっかりしていればいい、というのがわたしの考えだ。

変わったそのことを問題とせず、変わっていった過程を問題にしたほうがよかろうと思う。
それは、「しぐさは嘘をつかない」という信頼に通じる。

誰かとコトバを交わすとき、そのコトバの内容を聞き取るのに終始せず、コトバの端々に見えるその人の姿勢、とりわけしぐさには気をつけたい。

言ってしまえば、コトバなどいかようにも吐けるのだ。

[自分らしく生きていたい」

と語ることは出来ても「自分らしく生きる」こととは何の関係もない。
コトバにすれば達成したと思いそうになるのは困った現象だ。

信ずるに足るのは「しぐさ」。

ほれるのならば、その容貌ではなく表情。

[美人は三日で飽きるが…」

というコトバは背後に「しぐさ」を眺めたものだ。

言説だけに満足を得るのではなく、日々自分と対話していきたいものだと思う。

そうしていけば、いつか夢を見る時間と接触できる日も来る。
生きているのは自分に姿勢を意識したところに始まるのではないかとも思う。

情報を怖がるのは相手の言説におびえるからだ。
いくら大量の情報を持っていようが、その人の姿勢、翻っては「しぐさ」を見ればそうでもないとわかってくることは多々ある。

[何を知っているかではない。何をどのように知っているかが問題なのだ」

というのは、この姿勢・しぐさに向けて発せられたコトバだ。

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2009年3月15日日曜日

正しいものだけが正しいのではない

標題はわたしの敬愛する人のコトバだが、わたしにも同じような言葉がある。

「正しくとも、今、語っていいとはかぎらない」

こう書いてみると、書いただけで、ふたつのニュアンスが違うのに驚く。

ただ、両者とも正義を振りかざし他者を貶める気持ちがないところは似ている。
いま、あなたが、そしてわたしが正しいと思ったことは、まさにいまあなたとわたしが正しいと思っただけで、何の普遍性もない。(ここでは普遍性の持つ悪魔のような求心力はもう追わない)

正しいと判断したわたしは、まさに「NOW and HERE」で、なんらの保証もない。
(だからといって「NOW and HERE」もまた論じるべき大きな課題で、たまたまここでは通り過ぎるだけのことで、「NOW and HERE」を軽んじている気分はわたしにはない)
もしあるとしたら、「多くの人間が…」という担保だけだろう。

だとしたら、何を大仰にリゴリズムのように掲げるのだろう。
そうまでしてヘゲモニーを守りたいのだろうか?

正しいと思ったんのは一時の誤り。
それを押し戴くのは生きていく知恵。
あるときその知恵の源泉であるテーゼを放りだすのは、生きていく人の見思惑だろう。

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2009年3月14日土曜日

物語~メタファーとしてのふたつのタイプ~

物語には二つのタイプしかない。

①穴に落ちて這い上がってくるもの
②穴に落ちて這い上がれないもの

もちろんこれはメタファーであるからそれほど厳密なものではなく、むしろお遊び的なものだ。
少し考えてみれば、穴に落ちてそのままのものであっても、穴の中が違って見えるようになったとしたら、それは這い上がって元の生活に再び落ち着いたものと比較してみると、主人公の変化という点で見れば、這い上がった主人公に勝る大きな変化をなしている場合があるだろう。

変化。

これは考えておかなければならない小説の要素だろう。
小説はすべてにおいて自由だから、必ずしも変化を求める必要はないが、物語とする以上はそのほとんどが何らかの変化を描写するものになる。

最初に主人公が海辺で立って入て、最後にも海辺に立っているとしたとき、その主人公が読み手に違って見えてこないとしたら、その小説は冒険的な挑戦であったとしてもあまり魅力はなさそうだ。

小説に求められる大きなひとつが変化だとしたら、それは状況の変化だけではなく主人公の内部の変化も考えておく必要がある。

そう読み解いてみると、①と②の差はそんなに大きなものではないのかもしれない。

たとえば、①に長い旅の後、再び故郷に戻ってくる物語を想像してもいいし、②にそのまま旅の空に果てる物語をおいてもいい。
この場合の両者は、①、②と分けたところでなんの説明にもなっていないようだ。

最も最初にメタファーと読めると断っているのだから、「穴に落ちる」を混沌とした主人公の内的な状況と見れば以上の説明とも一致することになるのかもしれない。

ふと思いつたのだが、では穴に落ちてそこから再び穴を掘っていくというのは前衛的なものになるのだろうか。
(ここまで書いてきて、抽象的な議論の空疎さを改めて実感する。そういえば、いつもこの抽象にからめとられてばかりだな、わたしは)

妄言多謝

ラベル:

何について考えるか

情報が跳梁跋扈して蠢いている。
巻き込まれれば清濁併せ呑む情報の中でおぼれてしまいそうだ。

何かを考えるとき、考えるための材料である事実を収集し、整理することは大切だ。
(これは何かを考えるときで、考えないのならばむやみに情報に接する必要はないだろうというのがわたしの立場だ。必要以上に情報を集め、振り回されないことは大切なことだろう。知らないことはなんら恥ずべきことではない。むしろ知ることによって生じる陥穽のほうが百倍恐ろしい)

そういうなかでインターネットはきわめて便利だが、それは情報収集においてで、問題を立てるのはあくまでもあなたであり、わたしである。
この問題を立てるという作業を自分の中から追放させ続けてきたのが、日本の教育の大きなひとつの弊害だった。
問題を自分で立てていなければ、何かを知るだけでは力にはなりにくい。

「何を知っているかではなく、どのように知っているかが問題だ」

というのはその意味であって、問題を立てていなければ、何を知ろうとしているのか認識していなければ、どのように情報を集めても(情報に対する意見も含めて)それは烏合の衆でしかない。
その情報たちは、いわば自分の内部に作られた拡大する烏合の衆の楽園であり、そのような情報は再構成され新たな息吹を持って外へ解き放たれることはない。

この楽園はきわめて閉鎖的で、閉鎖的であることが第一義である楽園である。
閉塞状態が蔓延する今になんと似つかわしい個人の内部であることか。

最も重要なことは、自分に問題が立てられるかどうか?
(どのような問題であっても構いはしない。立てられるかどうか!)

その後に、情報の収集は意味を持つ。
情報とは自分の磁場に合わせ収集するもので、磁場なきところに情報の収集は不可能だ。
なにしろいまや情報は無数に蠢いているのだから、取捨選択しようがないではないか。

まずは、自分が何を問題にしているのかという意識が大切だ。

情報の海の中、溺れずに生きていくあなたに「RAINBOW COALITION」が生まれることを願います。

ラベル:

2009年3月13日金曜日

花見というもの


福岡管区気象台は13日、福岡市で桜(ソメイヨシノ)が開花したと発表した。気象庁が1953年に統計を取り始めて以来最も早く、今年全国初の「開花宣言」。満開となるのは21日ごろとみられる。暖冬などが要因とみられ、福岡の桜の開花は年々早まっている。今年は4月の入学式には花が散ってしまう可能性も出てきた。

今日、福岡ではサクラが咲いた。
まあ、咲いたとはいえ福岡中のサクラではなく気象庁の目印にしているサクラの樹に花が三つ四つ咲いたというだけのことなんですが、指標がなければ気象庁も困るのだからソレハソレ。

しかし、サクラの季節になれば花見というのは、クリスマスやバレンタインとは違い古い習慣で姿かたちは変われど、よく続いているものだと思います。
思うけれども、これはもはや花見ではないかもしれないなとも思う。

だからどうということはないのですが、そう思うと書いただけのことです。

福岡の開花のニュースを聞いて、はてさて花見とはどのようなものだったのかと思ってみたのです。
そう思うと夜桜見物などにはその風情がいまだに少し残っているかもしれない。

どんな感じですかねえ。
夜桜見物。

ラベル:

インターネットの力


インターネットの暴走はかなりのモメンタムをもっているらしい。
それは中国政府の、このメディアに対する危険視を見るにつけても、日本においてもあそこまでマスメディアは牛耳ってみれてもネットのほうは今ひとつで対応に追われている様子を見ても想像に難くない。

けれども暴走だからどこへ行くかは制御のしようは、まだわからないのだろう。

評判になっているから、もうご存知でしょうが、麻生太郎氏の本が売れているという。
これもネットでの呼びかけに多くの人が反応したからという。
秋葉原発のネット情報に食いついたわけだ。
政治色はない。

こんなものは政府にとっても愉快なのだろうが、そうでなくなったら、これだけの波及力のあるものをどうしようとするのだろうか。

インターネットの管理はすでに大きな話題になりつつある。

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2009年3月12日木曜日

ミサイルは飛んでこない

北朝鮮の宇宙空間技術委員会はこのほど、実験通信衛星「光明星(クァンミョンソン)2号」を搭載したロケット「銀河(ウナ)2号」が発射準備の段階に入っていると宣言、発射予定日は4月4―8日と発表した。
中国新聞社をはじめ、各メディアが外電を引用し、12日付で報じた。


というように衛星発射の発表を北朝鮮が行った。
これでミサイルは飛んでこないことになったが、こういうタイミングで細かな得点を北朝鮮外交においてあげていってほしいものだ。

関係性というものはいつでも繊細なもので、細やかな対応の持続性で変わることがある。
もっともこれは個人の場合が多いわけで、国対国では細やかさプラス計算といっておくほうが妥当だろう。
(がんばってやってよ、ほんとうに)

ところで、前述のように個人の場合は細やかな対応の持続性がうまく関係性に変化をもたらすことがあるが、これだとて忍耐の連続である。

人と人との関係は密やかに進行する忍耐が支える。
それを忍耐とは呼ばないこともあるが、親というもののなかにはこの忍耐を持って子どもを愛し続けるものもいる。
それが子どもにたどり着くころには自分の肉体は朽ち果てているにしても。

生きているうちに子どもと分かり合えるというのが幸せすぎるのかもしれない。
そうなれればいいのだろうが。

しかし、死んだ後であってもそれなりにわかってもらえるのならば、これは過ぎた幸せだろうとわたしは思っている。

年取ったのかネ。

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アーリオ・オーリオ・ペペロンチーノ


アーリオ・オーリオ・ペペロンチーノというものがございます。

スパゲッティのなかでも特筆すべきものだとあたしは思っています。
アーリオ(=ガーリック)・オーリオ(=オリーブ油)・ペペロンチーノ(鷹の爪)というわけですね。

ゆでたスパゲティにオリーブ油とガーリックと鷹の爪を絡める。
それに塩をぱらぱらと。

それだけである。

であるから、ゆで方にも少し工夫が要るだろうし、塩とオリーブ油とパスタは選ばなければならない。
ここは料理教室ではないので詳しくは書かないが、そういう手間隙をかけてこのスパゲティはなっている。

高いものではないが、塩もオリーブ油もパスタも選ぶのには手間隙がかかる。
そうしておいて作る段になってもタイミングが厄介だ。

たっぷりの水に塩をぶち込んでパスタを泳がせながらゆでる。

それをいつあげるか。
それにどうガーリックを、オリーブ油を、鷹の爪を、塩を、まぶしていくか、…そう考えるとこれがスパゲティの王様と呼ばれる理由もわかるような気がする。

これのいいところは自分の家で自分が確かめながら挑戦できるところでもある。

こういうところが料理の醍醐味じゃないのかなぁ。
あたしなんぞはそう思っているのです、ハイ。

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2009年3月11日水曜日

またまた西松建設のこと

わたしの場合は、今、自分にわかっている情報であれやこれやと考えるものですから、中途で考えが変わることがある。
(「新たな情報が出てくることもあれば、考え方に理非曲直ならざるものを見っけたりするもんですから、えぇ)

ありますが、不誠実というのとは少し違うと思っています。
人は間違うし、わたしももちろん間違う。
間違うたびに修正し、歩いていけばいいし、逆に言やぁ、それが歩くってぇことじゃないかと思っている。

そうでないと、たびたび間違えるわたしなんぞは困ってしまうんです、ホントニ。

でもって、西松建設の今回の動きですが、あの副官房長官のコメントやそれに対するマスコミの対応を見ていると、これは霞ヶ関主導と見たほうがいいのではないかと思いはじめています。

つまり、日本の中枢は霞ヶ関にあり。

そこに巣食う官僚たちが、蛇蝎のごとく嫌う小沢一郎をはめたな、ということです。
自民党はというと、まあ、その官僚の子分といっていいんじゃないでしょうか。(そりゃぁ全部が全部へいこらしているのではないんでしょうが、…だいたいのところはね)
あちらはその自民党のほかに、マスコミと司法も従えているものだから、われわれのほうには誰が親分かわからない。

いわば、この官僚主導というシステムが親分なんでしょうが、今やその官僚たちもわれわれの顔も見えていない人々で構成されていて、長くオレたちの天下が続くといいな、てなところで動いているんじゃないでしょうかね。

そういうところが一番見えていたのが小沢一郎で、今回のことでもどういうふうなことになっているのか彼はよくわかってんじゃないでしょうか。
なんせ、ロッキード裁判にずっと付き合っていた人ですからね。

だからどうってことではないんですが、せめてその官僚と立ち向かおうとしている人には応援したいものです、こんなところですかね。

なんか、中途半端だネ。

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外交の失敗

アメリカの北朝鮮のミサイルに対する認識が出ましたね。


【ワシントン10日時事】ブレア米国家情報長官は10日の上院軍事委員会で、北朝鮮が発射準備を進めている弾道ミサイルが「米本土にも到達する恐れがある」との懸念を示すとともに、北朝鮮がミサイルを発射する可能性があるとの認識を初めて示した。
ブレア長官は、北朝鮮が「人工衛星」を打ち上げると主張していることについて、技術的には大陸間弾道ミサイルと大差はないと指摘。三段式の多段ロケットを打ち上げる技術を有している場合、アラスカやハワイだけでなく、米本土にまで到達する恐れがあると述べた。(2009/03/11-09:38)


まっ、外交って言ったって半分は狂気じみた国ですから、北朝鮮は、なかなかうまくいかないんでしょうが、前も語ったように戦争は外交手段の究極なんですから、その中で平和裡に治めるためにはやはり話し合い基調しかないわけで、そこに経済援助、経済封鎖などの札を見せていくんでしょうかねえ。(あたしはそう思うんですよ)

とにかく、ここまでくれば、どうするかは難しくなってきたわけで、日本は、じゃあ戦争ってわけにもいかないでしょうし、アメリカさん助けてよ、お金出すよ、なんて言うんでしょうかねェ。

ミサイルも人の住んでるとこじゃなくて、山ん中あたりに落ちてくれればいいんですが…、そうすると再軍備なんて話が出るんですかねえ。

あたしは、それでもいままでに外交手段があったし、これからもあると思っているんです、まあ、あたしが勝手になんですけど。

そうでないと戦争に巻き込まれていやだモノ。
戦争反対、平和がいいっていくら大声上げてもだめなものはだめで、外交の工夫をしましょうよ、短絡的に戦争に向かうんじゃなくて。

ここで、もう一度書くんですけど、戦争対戦争は外交の極端な交渉で、その結果生まれる状況が平和でない世界でしょう。
いまでも平和でないこの日本、どうなっちゃうんでしょうね。

関係ナイカ?!

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2009年3月10日火曜日

WBCで浮かれる最中に

もうご存知であろうが、以下のようなニュースが流された。


北朝鮮が日米韓への強硬姿勢を加速している。
人民軍総参謀部報道官は9日、「人工衛星」と主張し発射準備に動く弾道ミサイルの迎撃論について「衛星迎撃は戦争を意味する」と軍事報復を警告する声明を出した。
同日始まった米韓合同軍事演習にも「南北軍事通信網の遮断」という対抗策に出た。


いろいろと解釈されているが、人民軍参謀部から出た声明であるところが重要だ。
あの国はやる国だから、そしてまずいことに十分に追い詰められているから、この声明が軍部から出されたことに脅威を感じる。

金日成の誕生日とされる日が確か四月にある。
その日に北朝鮮が何かをする可能性が高いといわれている。
歴史は思わぬところからほころびる。

どうなるかと不安であるが、一方ではもう何でもいいという気分もある。
「希望は戦争」というくらいのものである。

ところでこれだけは確認しておかねばならないが、戦争を仕掛けるというブラフ(今回はブラフではないかもしれないが)は、外交の極端な一手段である。
こういった外交手段に訴える方法を取るのはもちろん北朝鮮に十分な問題があるわけが、一方、こちら側にも外交の失敗もある。

「戦争と平和」という本もあるぐらいで、妙に戦争はいけないよ、平和がいいよという雰囲気だけで流れていくが、戦争と平和は対義語ではない。
戦争をしていても自国が平和な国はある。
奇しくも今日はあの東京大空襲から64年に当たる日だ。

あの悪魔のように計算された空爆の火のなか、われわれに遠い血を紡いできた人々が逃げ惑い死んでいくあの日、アメリカ本土はじつに平和であったはずだ。
ニコニコ笑いながら、ワインでも飲んでいたかもしれない。

戦争していても平和は訪れるのだ。

だが、その道を選ばないのならば(自国にのみ平和をもたらすだけの戦争)、戦争を避けたいならば、十分な外交努力をする必要がある。
日本が北朝鮮にそういった外交努力をしてこなかったことは事実であり、だからこそ北朝鮮はアメリカとの一対一の対話を求めている。

もはや北朝鮮は日本など相手にしていないのだ。
そして、おそらくアメリカもミサイルの一発や二発、日本に落ちたところで動かないかもしれない。

実は大変な危機的状況にあるとわたしは感じているのだが、この国の政治家もそう思ってくれているのだろうか。
アメリカにおすがりしているだけではだめなんだよ。

独自の外交をするなかでアメリカを利用することは出来てもすがることは出来ないのだよ。

わかっているよね、それくらい、政治家、官僚たちよ。

もはや、わが国日本は戦争はおきていなくても平和ではない状態にあるのですよ。

ラベル:

天皇もまた…

ここで扱う天皇陛下は天皇制とはまったく切り離された個人としての天皇である。

夕べも小三治の「ま・く・ら」を読んでいると天皇陛下(昭和天皇)を間近に見る機会があったときのことが書いてあった。
詳しくは師匠の著書に譲るが、そのとき陛下がこちらに向かって手をお振りになったというのだが、この振り方が何ともいえぬもので、もう誰にもまねの出来ぬものだと書いてあった。
芸人の小三時がそう書くのだから、これは芸と読みかえていいだろう。

どれだけの数、彼が国民に手を振ったかはわからぬが、その意味はともかく、その手を振る動作は芸として昇華し、もはや手の届かぬ境地に入ってしまっておられるのだという。

彼がどうやって天皇に選ばれたかは、これははっきりしている。(まあ、そういう場所に生まれたのだ)
そうして選ばれた後、彼は天皇になるように育てられ続けたのだ。

天皇もまた、選ばれたその後は女王バチであった。

わたしも一度、いまの天皇と同じ空間に身を置いたことがあった。
あの時、これが同じ人間なのだろうかと思ったことを夕べはっきりと思い出した。

まるで違うのだ。
そりゃあ、人間の形をしていますよ、していますが立ち居振る舞いだけでなくその存在のありようがわれわれとはまるで違うんです。

あれは、女王バチとして育てられたからなんでしょう。

だから、どうだというんではないんです。

人はそれぞれの形でいいんだから。

にしても、天皇制は置くとして、あの天皇陛下という人はあれはまったくわれわれとは違う人だということはしみじみとわかるのです。

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2009年3月9日月曜日

女王バチ


「獣の奏者」にも詳しい話が出てきますが、ミツバチというのはまことに不思議な生き物でいろいろと研究されているんです。
その生態のなかには何か身につまされるお話なんかも出てきて、ときにはまいったりもするんです、これが。

女王バチなんかもそのひとつで、[獣の奏者」を読んだときも「そういうものか」という驚きがありましたが、昨夜、寝る前に小三治の「ま・く・ら」を読んでいたら、再度、女王バチの話にぶつかり、今度はしみじみとなりました。
もはや春なのですが、春まだ遠き寒い冬の夜の気分になってしまいました。

こういうヶ所なんです。

小三治師匠が、あの鳳蘭が宝塚のスターだったころに対談したそうです。
そのとき彼女が言ったそうです。

「あたしは入ったときからスターでしたから」って。

生意気な女だなあ、こいつは。
そう師匠は思ったそうです。
わたしもそう思うでしょう、ミツバチの生態を知らなければ。

女王バチというのはどうやって決めるのかは知りませんが、生まれたときから女王バチになると決められ、決められたハチはロイヤルゼリーだけを食べさせて育てるんだそうです。

このロイヤルゼリーはご承知の方はご承知でしょうし、ご承知ない方は何か女王バチと関係があるくらいしかお知りにならないでしょうけれど、じつは働きバチが自身の体からもみだす物質だそうです。

こいつをせっせと女王バチにしようと思ったハチに食べさせていくと、そのハチが女王バチになっていくというお話なんです。

これなんですねえ、さっきの鳳蘭が言っていた「あたしは入ったときからスターでしたから」というのは。
宝塚もミツバチ社会に近いところがあるんですねえ。

そこへいくと、わたしなんぞは何になるかを誰かが決めてくれるでもなく、フラフラと生きているもんだから、上げ潮のごみみたいにあっち引っかかり、こっち引っかかりで生きていて、とうとうこんなところまで来てしまって、ときどき泣きそうになる。

この本のその部分に出くわしたときは、そんな気分でした。

しかし、これは浅学のせいかもしれませんが、女王バチにしようと決めるところはあまりはっきりしていないらしいんです。

どうやって決めるんですかねえ、女王バチ。

でも、ふと思えば、女王バチも女王バチで大変なんでしょうねえ。
鳳蘭がどうだったかは別にして。

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addictされる

人はなんにでもaddictされる。
仕事にも、アルコールにも、ギャンブルにも、セックスにも、薬にも、そもそも生きている自分の状況に!!

というわけで、わたしもいろいろaddictされてきたし、今もされているのだろう。
それでも救いがあるとしたら、そういう状況がある程度自分に見えていることにあるだろう。

「中庸」とは真ん中にあるのではなく、自分の偏りに合わせてどちらかにずれている。
ここが大事ですね。

わたしは酒を飲むと必ず鬱を呼び込むので酒を嗜まなくなっているが(実際は素寒貧であるせいなのだが…)、そのおかげといってはなんだが鬱状態はほとんど脱した。
ただし、眠れないということから睡眠薬は常用していた。
それが、ここ数日前くらいから睡眠薬にaddictされている状態から解放されつつある。

必ずしも睡眠薬はわたしには必要ないと思い始めており、睡眠薬と無縁の夜がある。

こういう変化は少しうれしいものだ。

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二代目林家三平襲名披露

寄席というところは演者(東京の場合は圧倒的に噺家が多いのだが)が高座で演じるのを客が見て反応し、その客の反応を見ながら演者が演じ続けていくというリズムがあり、そこにある種の空気が生まれる。
この空気をもって寄席の醍醐味といってよかろうというのがわたしの思いである。

というわけで、寄席に行かなければこの空気はつかむことが出来ず(各種のホール落語でもいいのだが、ちと器が大きすぎるかな?)、テレビにはこの空気を伝える力はない。

したがって寄席の芸は空気をとても大事にするものだからテレビでは通用しないということになる。
そういうところからテレビ芸なる素人芸が生まれてきた。
(テレビからも空気が伝わることはごくたまにあるが、それは長時間の番組を通してのことであり、コマ切れではやはり無理だろう)

この間、東中野で観た「小三治」のなかには柳家三三の真打襲名披露が映されていたが、この襲名披露は柳家小三治を映し返すようなもので、とても心地よかった。(映画にはどうやら空気を伝える力があるらしい。それを画面の大きさのせいだと長く思っていたが、あの大きな画面の前に長く座らせておけるという要素を見逃してはならないと最近思ってきた)

それと比べると二代目三平披露のほうは、まことにテレビチックで空気の大事さを考えさせないものであった。
もともと初代三平の芸も異質な芸でいわゆる寄席芸の持つ空気ではないものをまとっていた。
それがテレビの画面を突き破ってわれわれに届いたものだった。
いっ平にそこまでになれとは誰も言わないだろうが、寄席とテレビの芸の差は知らねばならないだろう。
もっとも、そこまで深く考えていなくても別にかまいはしないのだが。

そういえば、確か映画のなかで小三治がいっていた「三三がいい名前だとおっしゃるならば、それはこの人がそのように育ててきたからだろうと思います。これからこの人が三三をどういう名にしていくか、わたしも楽しみです」

以下のニュースの口上のなかには、このようなコトバは出てこなかった。

しかたあるまい。
小三治ではないのだから。


故林家三平さんの次男、林家いっ平さん(38)の二代目三平襲名を前に「日本全国感謝の会」が8日、東京・両国国技館で開かれた。6万5千件の応募から抽選で6千人が招待された。

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国策捜査についての間違った理解

遅ればせながら今回の西松建設の事件で自民党にも手が伸び始めた。
こうなるとなぜはじめに小沢一郎だけを血祭りに挙げようとしたかの問題が残ってくる。

ここで、わたしに国策捜査についての誤った理解があったので訂正しておきます。

国策捜査は官僚権力の主導だと言い切ったが、その裏には政府(=内閣および行政機構)を守ろうとする意志が働いており、官僚主導といえども自民党とのつながりを無視して考えられないのだということを改めて明記しておきます。

「国策捜査」は、特捜検察、主として東京地方検察庁特別捜査部が政治家、経済人、著名人などにかかわる刑事事件において、一方的な捜査情報をマスメディアにリークすることにより新聞・テレビ等のマスコミを使い逐一報道させ意図的に世論を誘導することで、政府にとって望ましい政治・社会状況を作り出すことを目的として行われる捜査、あるいは社会・国家において検察官僚たちの考える「正義」を実現することを目的として恣意的に行われる捜査を言う。(もちろん「国策捜査」は批判的な意味で使用される)

魚住昭氏、佐藤優氏の著作に詳しい。

なお、かならずしも内閣を守ろうとするかどうかは保証されてはいないというのがわたしの意見である。
付け加えておけば、わたしは今でも植草一秀氏は国策捜査で挙げられたのではないかと思っている。

今回の自民党に対する手入れの遅れは明らかに[国策捜査」のにおいがぷんぷんする。

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2009年3月8日日曜日

相手を理解するということ

飲み屋の会話の多くが薄っぺらく流れていくのは、飲み屋がそういう場所で議論するのに似合わぬ、ゆったりした気分を味わうための場所だからだ。

逆に飲み屋でよく言い争いになるのは、飲み屋が議論に似合わぬことをわかっていない人物たちが自分の考えが正しいものであるかのように思い、お互いに議論するからだろう。

自分もまた間違いを抱えているかもしれない、自分と違う立場もあるだろう、そういった想像力が決定的に欠如した人間の話に生産性はなく、多くの場合くだらぬ言い争いになる。
(わたしもつい先ごろ経験した。相手に多くを期待しすぎたせいだ)

相手を理解するためには自分の中に多元主義を持っている必要がある。
有体にいえば、自分以外の立場もあることを知っており、自分と違うその立場はどのように違うのかを理解しようとする気分を持っていなければ、話していてもろくなものにはならないし、残念ながらそういうお人はこの世にそう多くはないということだ。

だから、多くの場合なあなあの関係か、敵対視することになる。

しかし、それ以外の関係の持ちようもある。

それにはまず相手を理解しようとする姿勢が必要で、この姿勢を持つことの難しさは相手を理解するとき自分の立場を一時的にせよ(場合によっては半永久的に)捨てなければならないからだ。

人はかならずしも正しくはない。
しかし、今のわたしはこれを正しいと思っている。
あなたの考えを聞くことで、今のわたしに新たなものが見えてくればいいのだが…

このような気分を両者が持ったときに、はじめて議論のようなものが成立するのだろう。

もっとも議論などせずにゆっくり二人でお茶など飲むほうがずっといいのかもしれないと最近は思うのだけれど。
誰かとゆったりしたそういう時間を持ちたいものだ。

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ラスト・ボーイスカウト


ハル・ベリーがちょいと出ているものだから「ラスト・ボーイスカウト」を眺めてみた。
ハル・ベリーは相変わらずセクシーでいい演技だったが(これ、えこ贔屓ね)映画自体はまさにハリウッド映画という「箱」に入ったものでハリウッド映画の製造ベルトコンベアーから抜け出すことはなかった。

その代わりにハリウッドが観客を楽しませるために必要だと思われるアクションだとか親子、夫婦、友情などの葛藤と最終的な和解などの要素がうまく盛り込まれていて職人仕事には見えた。(ここで職人というのはいい意味では使っていないので、本物の職人さんには平に謝罪いたします)

しかし、こんなハリウッド映画がなぜにこのように儲かっているのかねえ。

もしかしたら、映画を見る人はまさにこういうハリウッド映画という箱の中から映画を選んでいるのであって、それ以外のものに興味がないのかもしれない。
「おくりびと」もアカデミーを取ってから大変な評判だが、あれは「おくりびと」に人々が引き寄せられたのか形骸化されたアカデミー賞の名に引き寄せられたのか。

わたしには映画に少し期待するところがあるものだから、ときに重心の低い映画を見たいものだと思ったりもする。
出来上がったハリウッドスタイルに合わせてピースをはめ込むだけの映画に拍手を送るほど若くもないし、軽躁でもない。

たぶん、わたしが妙なことを書いているのだと思う。

要は、あなたがその映画を楽しめれば、わたしに何を言う資格もないのです。

これは独り言として留め置いてください。

妄言多謝

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WBCで日本、韓国に大勝


大差で[サムライ日本」が韓国に勝ったものだからテレビ、スポーツ新聞などでは大騒ぎ。
まことにもって痛快な試合だっただけにその浮かれ具合がわからぬわけではないが、これをもって愛国心を煽るような報道が続くのは若干食傷気味になる。

サッカー、バレーボール、柔道…各スポーツの国際大会時の報道はいつもその傾向が強い。
安倍晋三は「美しい国、日本」という脈絡の中で、調子のいいころは何もなくても愛国心を煽っていた。
それは郷土愛から始まりその感情は地続きで愛国心へつながるものだというロジックであったが、すでにご存知の方も多かろうが、パトリオティズムとナショナリズムはまったく違うもので、使い分けなければならない。

はっきり言ってしまえば、愛国心はマスコミが製造するもので、個人の心の中にふつふつと沸き起こるものではない。
一方、郷土愛は生まれ育った山川に代表されるように自分をはぐくんだものへの愛情として確固として個々のなかにある。(いや、あった)

郷土をなくしつつある今の日本に郷土愛がどれくらい健在かは議論のあるところだが、ここでは郷土愛と愛国心の違いを知り、スポーツ報道などであまり振り回されないでほしいというのがわたしの力点だ。

ちなみにわたしはイチロー、その他の選手たちの姿を見るのが好きでWBCでの日本を応援しているが、それはナショナリズムとは無縁のものである。

わたしがこの国ということに焦点を当てれば、日々アメリカナイズされていく姿を憂えている。
この国各所の土着への回帰を心より願っている。

グローバナイズされる経済では常に「金」が天下を取っており、金がすべての指標となっていく。
もちろん「金」は大事だが、なくなれば「ハイそれまでよ」というのではあまりにも詮無いではないか。
しかし、いくら詮無いと書いたところでこの事実はひっくり返りようもなく、いまだに進行していく。

グローバル化がアメリカ化と同義だと、いくら、がなったところで、止まりようもないように思えるが、それでも主張し続けるしかあるまい。

救いといってはなんだが、"THE BIG ISSUE"の動きや家族崩壊後に新たな家族(それはもはや父と母と子どもという形態をとってはいないが)を作ろうという動きもしっかりと起きはじめている。

自分自身に対して間に合うかどうかは別にして、そういう動きが後の時代の光となればいいと思う。

言っておくが、愛国心にそういう救いの気配はない。
愛国心にあるのは冷たい響きの、それはあなたの自己責任だというコトバだろう。

しかし、困ったときに「それはおまえの自己責任だ」というだけの国家にどういった愛情を抱けというのだろうか?

わたしにはよくわからないときがある。

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2009年3月7日土曜日

国策捜査

国策逮捕とは佐藤優氏によれば「『時代のけじめ』をつけるために必要」なものらしい。
過去にはロッキード事件(1976年)、リクルート事件(1988年)、ライブドア事件(2006年)がある。

「時代のけじめ」とはいうが、いうまでもなくこの「けじめ」は検察官僚がそう判断したものである。

一方に「麻生政権は民主党の小沢代表をターゲットにスキャンダルを暴露する以外に生き延びる術はない」という意見があり、今回の小沢一郎氏の問題の裏で自民党が暗躍していると見る向きもあるが、官僚が自民党におもねるというのは、にわかには信じがたい。
両者の方向が一致して何らかの協力をしたということは考えられるが、昨日の漆間巌官房副長官の自民党には捜査が及ばないという発言から推測するにどうやらそういうことはあったのかもしれない。

では、何が小沢潰しの方向を生み出したかといえば、後は想像に委ねるしかない。

もしかしたら「第七艦隊」発言が呼び水になったのかもしれない。
小沢氏の別の主張にあったのかもしれない。
はたまた、自民党に捜査が波及するようなことがあれば、別の理由があったのだろう。

とにかく、自民党の指示で検察官僚は動くまい。
だから、これは自民対民主の図式ではなく、官僚対「官僚の思惑に反するもの」ととらえるのがより正しいと思える。

政治家は少なくとも選挙というプロセスを通る。
官僚はなってしまえば、われわれの手出しの出来ないところにいる。

そういう官僚に「時代の流れ」を決定されるようなことがあれば、これは大きな問題だろう。
このことは大きく報道すべきだし、問題にすべきだ。

しかしご存知のようにマスコミには特徴があって、報道するニュースを選択でき、選択して報道するニュースの内容もまた取捨選択でき、不都合なこと(誰にとってか!?)は報道しないという嘆かわしい事実がある。

とにかく、今回の問題は、国策捜査であれば自民党がどうのこうのではなくて、官僚が国政に明らかな形で口を出したと見るのがいいとわたしは思っている。

ただし、今、気付いたのだが自民党の中に強く官僚と結びつく一群がいて、すでに一体化している可能性がないわけではない。
そういえば、小沢民主が政権を奪取すれば大きく官僚組織に手を入れる可能性があるからなあ。 

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花粉症の日

今日は[花粉症の日」と言われるらしいが、誰が制定したのか、いつ制定されたのかわからないために怪しい話ではあるらしい。

ただ、スギの花粉は、元日からの最高気温の合計が450度を超えると本格的に飛び始めること。
そして、750度に達する頃がピークになることを考えると、それは計算上ちょうど3月上旬になるので、3月7日に制定されたとする説はある。
ちなみに3月7日は、晴れの特異日である。

なんにしろ、花粉症でお悩みの方には辛い日が続くこれからであろう。
お見舞い申し上げます。

最近の調査では花粉症は単にスギ花粉だけでなく黄砂にも原因があることがわかっている。
黄砂は黄砂だけでなくその砂に混じって微生物が飛んできており、それらが総合的に花粉症に更なる悪影響を及ぼすらしい。

お隣韓国では[黄砂警報]なるものを出し、極端に外出を控え、学校を休みにしたりもするらしい。
日本の北九州での被害も相当だろう。

花粉症もさることながら、クラゲの大発生や黄砂など中国の環境破壊の輸出もすさまじいものがある。

いやはや…

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2009年3月6日金曜日

将棋から見れば

昨日、女流名人戦において清水が矢内に勝ち名人位に復位した。
その将棋を眺めていると矢内の敗因は、はっきりしていた。

攻めが途切れたのである。

将棋というゲームは激しいもので、中終盤で攻めだし始めると攻めきるしか仕方がない。
途中で攻めをほっぽり出して守りにいくのは至難の技である。(逆に相手につけこまれるからだ)
(至難の技と書いたのは、そういうことの出来るプロがいるからで、かれらはいったん攻めて治めて、また攻めて最後には討ち取るというような複雑怪奇なことをする。これがトッププロの将棋だ。今書いているのはそこまでに至らぬ場合であることを知っておいてもらいたい)

で、矢内は攻め始めたが、この攻めは相手を負かすまでは止まれないし、止まったら負けである。
矢内は潔く攻めて、潔く負けた。
そこまで読みきれていないのに攻めてしまったためである。
あるいは勝負勘がトッププロほど鋭敏でなかったのだろう。

人の生き方にもそういうところがあって、いったん普通の生活を離れ生き始めたら全うするしかない。
もちろん若いうちは後戻りは出来る。
しかし、ある程度、年齢を食んでいれば、そのまま生き続け、うまくいけばそれでいいが、だめならば倒れるしかない。
はっきりいえばのたれ死ぬしかない。

というわけだから、世のみなさんはおとなしく暮らしておられる。
それでいいと思う。

将棋の目から言えば、いったん勝負の人生に入ったら(どのような勝負であろうが)そのまま転ぼうが倒れようが進むしかない。
それが自分の選択への人生からの報復であり、ご褒美である。

さらに、これは付けたしではないことをお断りして書くが、おとなしく生きていくのはひとつの懸命な人生だと思うが、その折には仲間を作っていただきたい。

理由は簡単だ。
晩年に必要になるのは若い女ではなく、親しく寄り添える仲間だからだ。

妄言多謝

あなたの幸福を願っています。

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2009年3月5日木曜日

モスバーガーもか?!

外食産業の苦しさは知っていたが、あの「モスバーガー」も肉を従来の4分の3に減らした100円台のハンバーガー2種類を7月初旬に発売するという。
同業他社より比較的高価格で知られるモスだが、景気後退における消費者の低価格志向に対応しなければならなくなったということだ。
ちなみにモスの100円台バーガーは29年ぶり。

来るところまで来ています。

100円台のバーガーは、ハンバーガー(160円)とチーズバーガー(190円)。
たまには食べてみるかという気にもなる。

この景気後退での二極分解、ワーキングプアを見ていると、その苦しさもさることながら、人とのつながりもなくなったなあと思う。
そこには家族の解体、おそらく核家族にいたっても解体しているのではないかとの思いがある。

さらに貧しさを憂い合う仲間もいない。

この貧しさは個人が単独で引き受けざるを得ない酷薄さがある。
それはきびしい。

そんな孤独なままで、貧しさを人は引き受けて生きていけるものではない。

残るは犯罪か自殺か。
世紀はじめに世も末の始まりとは、こっけいで哀しい話だ。

「生きづらさ」を問題にするグループもたくさん出来始めている。
そこでは、貧困を抜け出す手立ても議論されているが、仲間作りのほうはどうだろう。

貧困の脱却も仲間作りも短期間には達成できないものだが、再度、獲得しなければならないものなのだろう。
大変だと思う。

そういう運動をする彼らと近いうちに話し合ってみたいと思う。

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スーダンをめぐって

【ニューヨーク=中前博之】国連の潘基文事務総長は4日、国際刑事裁判所(ICC)がスーダンのバシル大統領に逮捕状を出したことを受け「スーダン政府が平和と正義の問題に取り組むと信じている」との声明を出した。

 現職大統領への逮捕状発行という異例の事態を受け、国連はスーダンに展開中の平和維持活動(PKO)への妨害行為が激しくなるとの懸念を強めている。潘氏は声明で、PKO継続を明言する一方、スーダン政府に対し、民間人や国連要員・施設の安全確保を改めて要請した。

 スーダンはICCに加盟していないため、同国政府に逮捕状を執行する義務はない。進展がなければ、同問題をICCに付託した国連安全保障理事会に議論が再び持ち込まれる可能性がある。


スーダンはなんにしろ注目される国で、特に中国はリキが入っている。


新華社電によると、スーダンで3日、中国が全面支援したダムが完成した。中国資本の合弁会社による建設で、長さは9.7キロと世界最大規模。完成記念式典に出席したバシル大統領は「スーダンの貧困終結の始まりだ」と中国の支援に感謝を表明した。中国はアフリカでの資源確保を狙い、インフラ支援を強めている。

そしてもう一点、スーダンはアフリカの穀倉地帯としての可能性があると世界は見始めている。
そのための農地取り合戦が始まっている。


これをもってグローバル化と呼ばずしてなんと呼ぼう。
もはや一国を持ってあらゆる問題が解決不可能になりつつある。
そのひとつが今回の不況であることは、中谷巌氏を待たずにしてもわかろうというものだ。
ただその解決策には中谷氏に大いに活躍してもらわねばなるまい。

自説を曲げてまで強固に主張した彼のあり方は信用に値する。


もうひとつの顔としてスーダンにはダルフール紛争がある。
この問題とスーダンの利用価値は単純に相互排他的でないだけに問題だ。
この地球は人命を度返しして進んでいる。



ダルフール紛争とは、スーダン西部ダルフール地方で2003年2月に始まった紛争。
イスラム化を推進するバシル政権の支援を受けたアラブ系民兵組織「ジャンジャウィード」が、アフリカ系反政府勢力が拠点とする村落を襲って住民を殺りくした。約30万人が死亡、約200万人が避難民になったとされ、「21世紀最悪の人道危機」といわれている。

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2009年3月4日水曜日

小沢攻め 

民主党の小沢代表の資金管理団体「陸山会」の会計責任者第一秘書の大久保隆規容疑者(47)が政治資金規正法違反容疑で、西松前社長の国沢幹雄容疑者(70)が外為法違反で逮捕された件で巷は大騒ぎだ。

事の成否はともかく今回の小沢代表秘書逮捕は、政権交代が近づいてパニックになった自民党が仕組んだ「国策逮捕」だろうというのが一般的な見方だろう。
それは、最後の悪あがきとして、衆院での逆転の企みだろうが、これまでの自公政権が国民にやってきたことを考えれば、年金の横領、汚染米事件、郵政民営化、防衛汚職などのことだが、今回の小沢代表秘書の「国策逮捕」一発で逆転出来るかどうかは怪しい。

ただし、西松建設が、戦前の朝鮮半島開発政策のひとつであった電源開発で、当時東洋一の規模と言われた鴨緑江に建設された“水豊ダム(70万KW)”などを施工しているということ。
さらに生臭くいえば、金丸信以降の関係などをほじくりかえすと一人、小沢一郎のみの問題ではなくなる。

まだ、始まったばかりの問題だが、自民党も危ないところに手をつけたと思う。

わたし個人としては政治家がすべてにおいて清廉潔白である必要はないと思っている。
それで、国民を泣かさなければの話しだが。

この事件は双方の対応をじっくり見たほうがいい事件かもしれない。
事は始まったばかりだ。

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将棋界で一番長い日

今年の将棋界で一番長い日は3月3日に行われた   。

A級順位戦の最終戦が行われるその日を将棋界では[将棋界で一番長い日」と呼ぶ。
A級にいる棋士は全部で10人、このなかから二人降級し、一人が名人挑戦者となる。
今回は谷川浩司に降級の可能性があり心配したが、見事に残ってくれた。
ざっとA級在籍者を並べれば、すでに谷川さんだけが40代であとはすべて30代なのである。

陥落した深浦康市と鈴木大介を思うとA級の厳しさがわかる。
あの羽生キラーの深浦にしても残留を果たしえなかったのである。
彼はもう何度目のA級とB級1組との往復だろう。

彼がA級に必ず戻ってくることを願う。

そのとき渡辺明とともに戻れるならば、最強のA級がそろうことになる。
勝負の世界はかくもきびしくかくもはっきりと白黒がはっきりする。

だからこそ彼らの礼儀正しさは半端ではない。
相手とオレとどちらが強いかの先に究極の将棋を見ている。
そこに相手に勝ったという満足感だけが残ることは少ない。

個人的には、わたしは今期の名人戦、郷田真隆に勝ってほしい。
かれは将棋を[情念のゲーム]だと見ている。
もちろん緻密な読みのその上に勝負は決定されていくのだが、その先に情念の戦いが待っているというのだ。

まことに郷田さんらしい思いだと思う。

どちらにしても谷川が陥落を免れたことと郷田だが挑戦権を得たことを喜びたい。

わたしも取り乱してばかりではいけない。
あと少しの時間、地道に歩きたく思っている。

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2009年3月3日火曜日

ゲバラの最後

ゲバラの最後は小学校で射殺されたのだが、その射殺の前に一人の若き女性と話している。
そのエピソードはとてもすばらしいものだが、それが映画ではまったく取り入れられていなかった。
映画では小学校ではなくある村でゲバラは射殺された。

おそらく小学校に連れて行くようなシーンを重ねると映画自体が壊れると思ったのであろう。
致し方ないが、史実にある程度縛られた映画というのはそのようなものなのだろう。

橋本忍がいかに原作に忠実ではなかったかはよく知られるところだが、(たとえば[砂の器」ひとつとっても松本清張を読み映画を見ればたちどころにわかる。さらに付加すれば映画のほうが数段魅力的だ。もちろん清張の発想なくしては出来上がらなかった作品ではあるが)あのゲバラの映画もそういう裏切りを各所に偏在させてもよかったかもしれない。

いまやグローバルな資本主義となったこの世界は、さらに見えない圧政を続けているが、ゲリラ活動は難しい。
それでもゲリラが各所に存在することはあなたも知っておられるだろう。

つまりはこうだ、ゲバラが言ったように。

祖国か死か!!

ともに生きていこうではないか。

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2009年3月2日月曜日

ゲバラ日記


昨日は映画の日だったので一部評判になっているゲバラの作品を二作見た。
その映画はある程度史実に基づいたもので興味深いものだったが、[ゲバラ日記」をぱらぱらとでも読んでいない読者が見たらどうだったのだろう。

映画単独としてはもうひとつ煮えきらぬものがあったが、それがドキュメンタリーをフィクションにしてしまった難しさであろうかとも思う。

しかし、死を恐れぬというよりも死に急ぐ人間の力強さはかほどに激しいものなのかとも思った。

考えることしきりの映画であった。

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2009年3月1日日曜日

天や


二日続いて新宿に出かけるが、都会の刺激に満ち満ちているこの街は、自分のありようを忘れさせてくれる。
良くも悪くも都会は今の世の中をうまく回す装置であり、この装置が回りにくくなってきているこのごろは、人が自分のありように気づく始まりかもしれない。

新宿でのわたしの楽しみは[天や」の天丼を食べることだ。
この天ぷら屋は画期的な店で恐ろしく安い。
もともと天ぷら職人は育ちにくいもので、(それはすし屋と天ぷら屋の数の比率を考えてみてもわかる)その分天ぷらはどの店もお高い。

しかし、「天や」は機械を導入して天ぷら職人を容易に生み出すことに成功した。
出される天ぷらは油の切れ、揚り方を見ても上等なものとは言いがたいが、この値段であれば申し分なかろう。
外食は常に値段との相対関係で評価は決定される。

さて、その天丼だが、キス、イカ、エビ、野菜二種とこんなところが上に乗っているのだが、わたしはどうしても最後にエビを残してしまう。
ぱくりと最初にエビを食べられないのだ。

つまりは、よりおいしいと思われるものを残していき、徐徐に登りつめていく食べ方をする。

こういう食べ方をよくよく考えてみると。
天丼の上に乗る最もおいしくないものを順に次々と食べていくことになる。
逆に最もおいしいと思われるものから食べていけば、常に残された中で最もおいしいものを食べることになる。

とまあ、論理的にはそうだが、いずれ腹に納まるのだからこういう議論は遊びの話にしか過ぎない。

それにしても、何とかして最初に海老天をぱくりとやろうと天やに行くたびに思うのだが、もって生まれた習性だろうか、どうしても最初は野菜天に箸がのびてしまうのだ。

いつの日か海老天から食う。
それが目下のわたしの大いなる野望である。

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