2009年3月6日金曜日

将棋から見れば

昨日、女流名人戦において清水が矢内に勝ち名人位に復位した。
その将棋を眺めていると矢内の敗因は、はっきりしていた。

攻めが途切れたのである。

将棋というゲームは激しいもので、中終盤で攻めだし始めると攻めきるしか仕方がない。
途中で攻めをほっぽり出して守りにいくのは至難の技である。(逆に相手につけこまれるからだ)
(至難の技と書いたのは、そういうことの出来るプロがいるからで、かれらはいったん攻めて治めて、また攻めて最後には討ち取るというような複雑怪奇なことをする。これがトッププロの将棋だ。今書いているのはそこまでに至らぬ場合であることを知っておいてもらいたい)

で、矢内は攻め始めたが、この攻めは相手を負かすまでは止まれないし、止まったら負けである。
矢内は潔く攻めて、潔く負けた。
そこまで読みきれていないのに攻めてしまったためである。
あるいは勝負勘がトッププロほど鋭敏でなかったのだろう。

人の生き方にもそういうところがあって、いったん普通の生活を離れ生き始めたら全うするしかない。
もちろん若いうちは後戻りは出来る。
しかし、ある程度、年齢を食んでいれば、そのまま生き続け、うまくいけばそれでいいが、だめならば倒れるしかない。
はっきりいえばのたれ死ぬしかない。

というわけだから、世のみなさんはおとなしく暮らしておられる。
それでいいと思う。

将棋の目から言えば、いったん勝負の人生に入ったら(どのような勝負であろうが)そのまま転ぼうが倒れようが進むしかない。
それが自分の選択への人生からの報復であり、ご褒美である。

さらに、これは付けたしではないことをお断りして書くが、おとなしく生きていくのはひとつの懸命な人生だと思うが、その折には仲間を作っていただきたい。

理由は簡単だ。
晩年に必要になるのは若い女ではなく、親しく寄り添える仲間だからだ。

妄言多謝

あなたの幸福を願っています。

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