2009年5月31日日曜日

人の死ぬ理由

もちろん以下述べることは、わたし個人の思いであって、なんの客観的な正しき根拠もない。
(「客観的」というコトバ自体がすでにウソくさいのだけれども)

ただし、人が自分の生きる意味を色づけているとすれば、その色づけが彼なり彼女の実人生のなかで終わるとすれば、もはやこれ以上色づけようともなんらの輝きもその人の実人生に発しないと覚悟したとき、人はそのまま安らかに死を迎えるべきだろうと思う。

少なくともわたしに関しては、そう思う。

しかしながら、周りの人にはそれでもという思いがあるだろう。
あろうケースはままあるだろう。

この場合の人は当事者ではなく周りにいる人であることに注意されたい。

そのとき、あなたが周りの誰かで、その人の死を願わなければ、言えばいいと思う。

(それでも)あなたが生きていてほしいと。

これがその人の生の延長を願う唯一の道だろう。
(もしその人が自己の人生を色づけた人ならば)

そして、色づけた人ならばその要請に応じるかもしれない。

なぜなら、実質的に自分の人生は全うされているのだから自分の人生を他者にゆだねることに躊躇することはあるまい。
ましてや自分を愛し続けていてくれた他者にだ。

自殺は正しいかどうかとか一般論で論じる効果は薄い。

人がその人の生命の延長を願う方法はたった一つしかないのではないのか。
わたしのために生きていてほしい。(あなたが死んじゃイヤだ)

わたしはそう思う。

その意味で、これほど多くの生きながらえる人がいることが、わたしには不思議だ。
なかには「死んでくれ」と願う人もいるだろう。(とくに介護者の中に)

人はおのれが色づけて生きていくのなら、死に場所がわかる。
(そうでないのならチンプンカンプン)

死が悪ではない、生が正義でもない。

ただ、今回のブログで書きたかったことは、それでも生きていてくれと願う人がいれば、その願いは聞かねばならないこともあるということだ。

そのとき、底に流れる何ものかを「ぼんやりとした愛」と、たぶんわたしは呼ぶ。

わたしにもそんな願い、命の延長を願う人がいる。

あなたが死んでは、わたしの傍からいなくなっては、イヤだと駄々をこねたい人が…。
そういった思いに駆られたとき、思いはひとつのことに引き寄せられる。

くりかえしになるが、いまのわたしの根底を流れるものはあなたへの「ぼんやりした愛」だとわたしはしっかりと思っている。

その愛の下にこう言いたい。

「あなたが、いなくなっては、イヤだ」

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ぼんやりと愛される


ぼんやりと愛するのは愛する側の度量を問われるところだが、愛される側にも「ぼんやりと愛される」資格はいる。
言ってしまえば、わたしにはないが中島らもにはある資格だ。

ユーチューブの「中島らも」はいま充実している。
それを眺めていると、こいつほんまにしょうもないなと思うが、同時に見過ごせないコトバや姿を次から次へと提出してもくる。

わたしの言うところの生きる姿への色付けがかなり巧みなのだろう。

しかし、常にすばらしさを強調しようとする男ではなく、むしろしょうもなさを愛した男であるからこそ、他者から降り注がれる愛はぼんやりとしている。

もっとはっきり言えば、ぼんやりとしっかりしている。
その「ぼんやりしっかり」は中島が演出し、周りの人々がそれにあわせ演じてくれた幸せである。

こういう人物を見ると、わたしの人生の貧困さに思い当たる。
(こう見えて、随分とないものねだりをするつまらぬ男なのだよ)

ぼんやりと愛されたいと思う。

そういう周りにとりまかれたいと思う。
そう思いはするが、わたしのほうは、少しカッコをつけすぎかもしれない。

色づけとは言うものの「ぼんやりしっかり」の色づけは難しいものだと中島らもの動画を眺めながらしみじみ思う雨の日曜日。

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生きる意味はない

「生きる意味はない」というわたしの主張についてはいろいろとご不満もおありだろうが、ただわたしはそう考えているということだけなので、それをそのままお許し願いたい。

「生きる意味はない」、だからこそ、その意味をわれわれがつけるのだ、というのがわたしの主張だ。

その意味のつけ方にはモデルを必要としており、それが宗教である場合は多いだろう。
それにプラスされていままでその社会が受容してきた生き方のパターンであったり、個人的にイチローの野球であったり、タイガーウッズのゴルフであったりする。

ここで一番重要なのはそのモデルは何でもいいということだ。(創出されたものも含めて)
あなた自身があなたの生きる姿に好きなように意味づけすればいいというのがわたしの願いだ。

けれどもあまりにも勝手にそれを自分自身で行うとまわりからは糾弾されるだろう。
そこが辛いところだ。

まわりの人々は自分と違う意味のつけ方をする人間を暖かく見守るという寛容な態度をもってはいない、多くの場合。
自分と違うことをする人間を自分を否定する人間だと見なしてしまうクセがある。

つまりは弱小ものなのだ。
その結果のあなたを否定する態度であり、その結果、群れたがる。

だからもう一度、高らかに「生きる意味」は本人が色づければいいのだということをここに書き記しておきたい。

もちろん、それを宗教であれ、社会的なモデルであれ、何かに託するのも自由だ。
それも含めて「生きる意味」を色づけるのはあなたで、その根拠はもともと「生きる意味はない」ところに発生する。

そしてこの問題は、「生きる意味はない」のならそのまま死んでいってもいいし、ぼんやりと意味のないまま生きていってもいいにもつながる。

この話題もなかなかに深く大きい問題で、ここにはうまく提示しきれないが、気になるので再度、書き置かせてください。

この意味の果てに、あなたの愛した人を、あなたの生を大切に、のメッセージがあるのだが、それが焦点を結ぶには、はるか遠いところまでへの思考の旅が続く。

それは平行線に見える二つの直線が実ははるか遠方で焦点を結んでいるというような星空を眺める行為に似ている。

妄言多謝

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2009年5月30日土曜日

心に振り回される

ときに女に、男に、仕事のなさに、世間の評価の低さに嘆き、苦しみ振り回されたりするが、それは別に愛した女が振り向いてくれないからではない。
つまり、世間やその女のせいでなどではさらさらない。

では何が振り回す?

それは、あなたのその女にほれた心があなたを振り回すのだ。

このところの犯罪報道などを見聞きしているとよくぞここまでというくらいにプリンティングされている。
そうあるべき自分の姿を写し絵のように心に刷り込んでしまっているのだ。
見方を変えれば何者かによって刷り込まれているのだ。

刷り込まれた写し絵のようにうまくこの世を生きられればいいが、そうでないとのたうちまわる。
これをもって、我が心に振り回されているという。
もちろんその心を形成したのは我が心ではあっても自分自身ではない。

ここが問題だが、なかなか思い当たらない。
何しろ自分の心は自分の心だから、自分の味方と信じて疑わぬものだから。

けれども注意したまえ。

あなたの心はあなたの心であって、あなたの心ではない。

もっとはっきり言ってしまえば、心などどこにもないもので、それをどこかから誰かが(もちろん稀な例としてあなた自身の場合もあるが)現出させるのだ。
その現出をもって生きることに意味が生じる。
意味が生じればその意味に振り回される。

ほれてしまわねば、その女はいつまでたっても他の女と別の意味は持たない。
ほれたときにはじめて他とは別の女となる。
もともとその女が別の女だったわけではない。
あなたがそうしたのだ。

だから?

だから? と問われるときつい。
あえて答えれば、ぼんやり生きていてほしい。
そして、ある時にくっきりと。
(達人の域だね)

とにかく、あなたの心に振り回されなさるな。
(もちろん、オレもだけどさ)

女を愛するなら、ぼんやりと愛するに限る。
これが、極意だ。

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敵基地攻撃

いつものように寝ていると(わたしはたいてい病人のように横臥している)TBSラジオから小川和久なる人の解説が聞こえてきた。

彼は軍事評論家であるが、なかなかしっかりしていた。
わたしはこの手の人では田岡氏が好みだが、好みと実力は違うから仕方ない。
ついでに書いておけば、小川氏は江畑謙介氏を軍事評論家としてはNO1としていた。
同じ評論家としてこの手の発言はしにくいもので(悔しいものだから)多分江畑氏は圧倒的にすぐれているかあるいは小川氏と特別な関係にあるのだろう。

まあ、それはさておき。

素人というのは恐ろしいもので、北朝鮮に対する敵基地攻撃はやろうと思えば今の日本の軍事力で容易なことだと思っていたのだが、そうじゃないんだってねえ。
かなりの軍備増強をしなければいけないし、国際政治における根回しもしなければいけない。

つまりは、そう簡単にできることではないらしい。

だとしたら、あの政治家たちはどうして敵基地攻撃を言い出したのかな。
小川氏に寄れば、何も知らないからと言っていた。
よく知っているのは石破茂氏くらいなものだそうだ。

知らなければ知らないでいいけれど、そのときは専門家の意見を聞かなければな。
そうやって人の頭を利用するというのが、政治家の能力の中の大きなひとつだろうに。

以上、小川氏の話を信用してという前提だが、どう聞いていても信用できるんだな、あの話っぷりは。

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2009年5月29日金曜日

それは豊かな発想だな

登山にアルパイン・スタイルと極地法とがある。
登山家山野井泰史がとっているのはアルパイン・スタイルだ。

アルパイン・スタイルとは、できるだけ軽量化した装備で短期間に頂上を目指す方法だが、それだともちろん危険も深まる。
酸素ボンベもないし、余分な食料もない。

では、なぜにそのような方法を取るのか。

それに対して山野井氏はこう答える。

「できるだけ素のままの自分を山に放ちたいんです」

話としてはまことに美しく、その美しさのほどに納得できる。
けれどもしばし立ち止まれば、なんと豊かな発想かと驚嘆する。
夾雑物がどこにもないではないか。

たどり着けない発想だと立ちくらみしてしまいそうだ。

そもそも「素のままの自分」とわたしは、出会ったことがあるのだろうか。
混じりっけだらけのわたしであることよ。

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2009年5月28日木曜日

イチローにあってあなたにないもの

「イチローにあってあなたにないもの」
それはコンピテンスだろう。

コンピテンスはまだしっかりと定着していないから、

○ある課題遂行についての潜在的な能力
○環境に対して効果的な変化を生じさせることのできる能力

などの一般的な意味から少し離れて、個人言語として使う。
「自分を信頼し、操作し、目的を達成する力」とでもしておこうか。

才能をたよりに目的達成するためには他者、延いては社会との関係性の形成も必要となってくる。
このあたりはイチローにあってあなたにないものプロデュース能力に近い。

イチローはただ野球がうまくなるために特殊な練習をしているだけではない。
どうすればうまくいくかいつも考えている。
それは食生活や睡眠や球場と家との行き来やマスコミとの付き合い方などすべてに渉ってである。

才能(創造性)について考える場合はそこが問題なのだと最近はいわれだしている。

ある才能を伸ばすためには才能を伸ばす特殊なトレーニングを激しくしていればいいだけではない。
まず自分の才能に対する無防備な信頼とその才能を開花させるための自分の動かし方が必要だ。
その上に立ってはじめてトレーニングと言えるのでそういった下部構造を持たぬトレーニングの場合には短期的には効果はあげられても長期にわたっての成果は考えがたい。

さて、再び「イチローにあってあなたに、もちろんわたしにもないもの」

それは無防備な自分への信頼とそれを低音基調とする野球への愛(われわれにとってそれは野球ではないのだろうが)とその自分を押し上げていくプロデュース能力だ。

もちろんそんなものが必要かどうかは知らないし、自分で考えればいいだけのものだろう。

けれども、子どもにむやみに才能を要求する母親には知っておいてもらいたい。
才能には内発的な部分が必須で、単に激しいトレーニングだけではどうにもならないのだということを。

もし、それでどうにかなったとしたら、そんなものは才能でもなんでもない、もっとちっぽけな、どうでもいいもので、それをこのちっぽけな社会がおもちゃとして受け入れただけのことだろう。

ところで、このごろ、なんか、イチロー調子いいらしいね。

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マスクをした女

マスクをした女は美しいことになっている。
歯科技工士などはその代表だろうか。

このところ街はマスク女であふれているが、あれはさほど美しくもない。
それはそうだろう、あのマスクの主役はインフルエンザで女ではないからだ。

マスクはインフルエンザ予防にはならないらしいのだが、なぜあんなにマスクをするのだろうか。

そりゃあ、気分の問題だわさ。

なるほど、そうだろう。
気分ほど大事なものはない。

わたしも今朝は気分がいい。
奥歯の詰め物が取れてしまったので、午後に歯医者に出かけるからだ。

まあ、たわいもんだな男なんぞは。
それでいて、落胆して帰ってきたりする。

ん、やっぱり、たわいないもんだ。

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親密な時間の共有

親密な時間の共有が血のつながりを超えることもある。
つまり、血族よりも親しくなってしまう他人もいるということだ。

ただし、この親密な時間の共有というのがなにを意味しているのはやさしくは語れない。
そこにはときどきはコトバの交感が必要になってくるだろうし、雰囲気の交感も必要になってくるだろう。
その全体を伝えるにはひとつの物語が必要な気がする。
そうして、そのようなひとつの物語を書くという作業をずいぶん長くサボってきたのがわたしである。

「親密な時間の共有」

そういう小説があっていいと思うし、実はそんな小説はいっぱいある。
なかには、すばらしい出来のものもある。

大事な認識は、その時間の共有は他人とも可能だということである。
もちろん親族とも可能だし、夫婦でも家族でも可能だ。

問題は一杯の紅茶を囲んでどんな時間をもてるかによる。

相手に期待してはいけないが「親密な時間」という存在は知っておいてもいい。

はたしてわたしはそのような時間を誰と共有したことがあったのだろうか。
そして共有することで関係を作り出したことがあったろうか。

そんなことをさびしい夜には思う。

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2009年5月27日水曜日

何かを知ること

何かを知ることは、そのまま解説者となり部外者になっていく道でもあるわけで、そのため当事者として知る道が残されているのだと思う。

当事者として知る道を歩む人は少ない。
辺見庸、鶴見俊輔、橋本治…、あと何人上がるのだろう。

何人かはわからないが、そう多くないことはわかる。
別に有名でなくていい。
あなたには、自分の足で歩く人と付き合っていてほしい。
何の得もないが、時々見えなかったものが見えてくる。

それは何かを知るということではない。

それは何かと出会い、自分が変質するということだ。

だから、自分の足で歩く人は、もちろんのこと自分の変質を厭わない人だ。

「自分の変質」を受け入れることはある人種にとってはしんどいことだ。
彼らは、意地でもいままでの自分を守ろうとする。
そうしないと、いままでの自分を否定されてしまうように思うからだ。
否定されてもいいじゃないか、新しい自分に出会えたのだから、とは思わない。

そういった人種とは付き合わないことだ。
いやな気分があとで残るだけで、見るびょうもない。

ここまで書いてきて思う。
ただ何かを知るということだけでもややこしいもんだ。

いい奴と付き合ってほしいな、あなたには。

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繰り返しになるのだが…

人に生きる意味はない。
生きる意味は作り出すしかなく、その作り出した意味が社会から外れたとき、人は一気に生きにくくなる。
だから社会の規範に合わせ何も考えずに生きるのがいい。

これがわたしの今の考えだ。

だから考える性癖を持つものはいつも剣が峰を歩いているようなもので、危なくてしょうがない。
それでも大きくはみ出してしまえば、何とかなるかもしれない。
出すぎた杭は打たれない、というコトバがあるではないか。

しかしそういう僥倖はうまうまとはやってはこない。

だから、自然に生きたいなら考えないことだ。
正直に生きたいなら、考える人間をむやみにこちら側(安全な側)にいるというだけで煙たがらないことだ。

とにかくこの世は生きにくい。

何度もこのセリフを書くのは、このところいろいろな側からこのブログを書いていて読み手を混乱させているように思えるからだ。

ことは簡単だ。

今回の冒頭に書いたとおりである。

後はあなた次第になるわけだ。
間違ってはいけないのは、仲間はあなたの側にいる人を選ぶということで、間違った側から選ぶとどこかでしっぺ返しを食う。

生きていく意志を自分の思弁に任そうという人ならばなおさらだ。

仲間は大事だが、その分、恐ろしい。

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その日の天使

個人的に好きな中島らもは生きることになんら価値をもっていなかった男だと思う。
それが亡失を願う気持ちにつながり、その亡失の存在が彼を生きさせたのだと思う。(亡失は酒、麻薬、睡眠薬、仕事といろいろなものがもたらせてくれる)

彼は生きることは、そこそこに楽しいもので、気の持ちようが原因なのだから、一時の落ち込みで死んだりしてはいかんだろう、楽しいこともまたやってくるなどとほざいていたが、実際に腹の底からそう思っていたかどうかは知らない。

事実、最後の転落死は自殺みたいなものだ。

だが、もともとものを考える人間にとって生きることは愉快でないことが多い。

一等いいのは考えずに楽しむことだが、それが出来にくい。
皮肉な話だ。

そのらも氏が語っていたが、人は一日に一人天使と出会うそうな。
それが、焼き芋屋のおじちゃんか、立ち食いそばのおばちゃんか、通りすがりの少年か、それはわからないが、この考えの中にらもの哀愁はすでに存在する。

そして同時に、一人の人に天使を求めてはならないという洞察もある。(実際にらも氏がそうしたかどうかは疑問なのだけれど、もの書きなどという人間は概ね書いていることと実際は違っており、それを取りざたするのは野暮な話だ)

どちらにしろ、「その日の天使」なんぞという考えが浮かぶのは秀逸だし、そう浮かばざるを得なかった人生は殺伐としている。

そして一人の女に天使を見続けることが困難ということは、これはかなりきびしい現実だ。
いやいや、キミの彼女は天使なのかもしれない。

このブログ、戯言として読み捨ててほしい。

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死刑覚悟ならば

国連決議で北朝鮮に制裁をと叫んで入るが、金正日が独裁するあの国は、死刑覚悟で殺人行為を行っているようなもので、そういった決議が有効かどうかはわからない。

とにかく独裁的な国家は通常の規範には当てはまらぬもので、それは個人でも同じなのだが、どうしたらいいかは難しい。
敵基地攻撃は、ひとつの手段だが、それは戦争につながる。
つながるが、戦争というものはそのように起こるものかもしれない。

なだめすかして、どうにかするのがいいのだろうが、世界にそのような度量はあるのだろうか。

インフルエンザと厭世観で気力をなくしておりました。

読者の皆さんには大変礼を失してしまいました。
ここにお詫び申し上げます。
(お詫びといっても、毎回だものなあ、キミは)

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2009年5月19日火曜日

自分の価値観

人というのは自分勝手に価値観を作って生きていて、その価値観が、会社の価値観や社会や国家のそれと一致しているとすこぶるやりやすくなっている。
やりやすくなっている分、説明する必要はほとんどなく、もはや自明の理のようになってしまってもいるが。
(ホントはそうではないのだけどね)

まあ、同じ価値観を持つ人数が多いほうが強いというわけだ。
小沢一郎がいくら正論をぶち上げても、からめ手からとらまえられてしまうといったところだ。
(この場合、いくらか悪いところのある人間が正論を吐くこともあるという当たり前の事実は確認しておいてね)
(あいつはあそこの家の壁におしっこをかけたからという理由で否定できない正論もあるということで、正論とおしっこは別に論じなきゃあね)

というわけで、わたしもわたしの価値観を胸のうちにもつが、この価値観はどこかで壊れても仕方ない、そのときはまた作り直すかという覚悟はある。

この覚悟のない奴と話すときは厄介で、自分の価値観を崩す気はないのだから、最後は好きでそうしているんだからいいだろうみたいな世界に入っていく。

言っておくが、あなたの好き嫌いは他人様にはまったくなんらの関係もないことで(恋人でもあるまいし)、そんなものを持ち出す人間には話をする能力が根本的に欠けているわけだから、それ以上話す必要はない。

自分の価値観に影響あるものは、抽象的になるが、未知なるものと異なるものである。
だから、その人を見るときこの未知なるもの、異なるものに出合ったときの対処の仕方で大体はその度量がわかる。

あくまでも自分を守ろうとする人間は、自分の価値観の中に何とかその異物を位置付けようとし、それに失敗したら無視するか排除する。(それが今回の小沢事件の本質だ、異物が小沢氏だよ)

で、そういう態度に出た人間にどう対抗するかは、とても難しいし、少し危ない話になっていく。

ここでは、生きている以上人はそれぞれ価値観を持つのだが、その価値観に自縄自縛になる人間もいれば、さらに羽ばたける人間もいるというわけだ。

出来るなら、羽ばたく人間とお話していたほうがいいよ。
ずっと素敵な気分になれるから。
(能天気な結論だこと)

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桂南光を見る


南光の「壷算」を見る。

桂南光は知っての通り枝雀の一番弟子で、彼ら二人のエピソードは多いし、枝雀の影響の最も強い一人といっていいかもしれない。

二代目枝雀は1999年3月に自殺を図り、意識が回復する事なく4月19日に心不全のため死去する。
59歳没。

惜しい人だが、いたし方あるまい。
うつ病もまた彼の身の内のことで、この場合の自死は致し方ないというしかない。

しかし、鬱病は辛いな。

枝雀は超のつくほど真面目な人間で、その芸もまたその外面からはすぐさまわからぬが、超の着くほど真面目なものであった。
したがって、一見真似できそうなあの芸の継承者は、いまだ現れないし、今後も難しいだろう。
あの芸は稽古の賜物で、いい加減なところで出来上がったものではない。

その点が白鳥とは違う。
白鳥は感性だ。(今後に期待したい)

さて、南光はそのもっとも二番煎じになってしまいそうな場所にいながら、その場所をかいくぐり、いまや、彼の芸を打ちたてようとしている。
その芸が、枝雀のそれとどう違うかの話はよかろう。

問題は、南光が南光の芸に気づきはじめたというところにある。
南光が彼のあの芸の船に乗ってどこまで行きつけるかは知らないが、自分の乗る船ができた南光は幸せものだ。

枝雀はいくら立派な船をこさえても、「この船では、この船では…」と悩んでいたことだろう。
切ない自分を持ったものだ。

人が生きるのに意味はないが、ある遊び道具を持つことにより愉快に生きることは出来る。
そして、その遊び道具に翻弄されて死んでいくこともある。

南光はどうやら遊び道具とともにゆっくりと川面を滑り出したようである。
彼の人生が幸せであることを枝雀とともに願いたい。

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生きるということ

生きるということにあまり意味はない

というのがわたしの持論で、事実そうなんだろうと思う。
だから自死していく人に対するコメントはない。
コメントはないが、自死させる状況にはコメントはある。

先日も書いたが、一日に100人も自殺している日本は、自殺させている日本の状況は、憂うべき存在で、そのことを大きく取り上げない報道をわたしはあまり信用していない。
(インフルエンザのほうがニュースバリューがあるんだろうけどさ)

生きるということにあまり意味がない以上、人は自死する自由を持つ。
自由を持つが、それはその人自身の持つ自由で追い込まれた先で死んでいくのはどうにも困ったもので、これを自死とは呼ばんだろう。

こいつは他殺だ。
よってたかってのリンチだ。
早くこの状況は移行していってほしい。

ところで意味のない生きるという行為をなすには秘訣があって、そのひとつが何も考えないということだ。
何も考えなければ外部からの指示によって、自分は生かされていく。(生きているとはとてもいいにくいが)

もうひとつは、何かに意味を見つけることだ。
それを暇つぶしといってもいいが、やってみれば暇つぶしはなかなかに楽しい。
その際に考えるという作業が付随してくる。

人は自分が生きていくために考える。
考えることにより生きることに意味が生じ、生きている実感が押し寄せる。
幸せな幻想の世界だ。

さらにもうひとつある。
肉感に溺れることだ。
しかし、ころれは長続きはしない。

女の肌であれ、酒であれ、ドラッグであれ、放浪であれ、…長続きしたためしはない。
けれどもこいつが最も魅惑的な生きる姿だと思える節もある。
困ったことにだ…

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考えることとわからないこと

考えることによって人はある考えから自由になる可能性が生まれる。
(深みにはいちゃうこともあるけどね)

でも考えることはけっこう大変なことで、その先にわかるということが必ず訪れるなんて思っているとさらに大変になる。
だから、lこう考えればいい。

わたしには考える自由がある。
でも考えた先には、やっぱりわからないことなんだな、という納得の仕方もある。
わからなくても大丈夫だと考えれば、少しは考えることに対する恐怖は取れる。

わからなくても大丈夫なんだ。
特に自分に関係あることは。
それに、自分とは関係ないこともね。

人は自分のわかるように物事をわかればいい。
もちろんその前提には、自分の考えたことを誰かと戦わせるなんて豪も考えたことはない、という態度があるんだけど。

世の中に正しい考えがひとつだけなら、戦わせる必要はあるのだけれど、どうもそうではないらしいというのは心ある多くの人にはわかってきたはずだ。

わかっていないひとは、以前はブッシュとネオコンがいた。
そしてご存知金正日がいた。
ほかにもいる。
どこにいるかはすぐにわかる。

そこに紛争が起こっているからだ。
正しいことがひとつしかないと思えば、紛争は起こりやすい。

それぞれにそれぞれの思いがあるとか、「どうでもいいジャン」と思っている限りは戦いは起きにくい。

それにふと思ってみれば、あなたが必要とするものしかあなたには必要ないのであって、それは自分で見極めるしかないし、そいつは他人とは関係ないことだ。(他人じゃなければ関係は生じるだろうけどさ…)

いってみれば、それが処世というものだ。

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2009年5月16日土曜日

新型インフルエンザ対策

今回の新型インフルエンザ対策が立派な成果を収めているのはよくわかるが、政治が相対的なものであるならば、報道がそれに対する批判機能を持っているのであるならば、インフルエンザ対策の向こうに一日に100人を越える自殺者の対策がなぜになされないのだろうか?

また、報道はなぜに単発でしかこの事実を流さないのだろうか?

これはまさに人災といってもいいようなもので、個人の問題に帰結するべきものではないし、もしかしたらインフルエンザよりも相対的には大きな問題かもしれない。
(事実そうだろう。まともな神経で考えれば…)

経済対策、経済対策と連呼するのはわかるが、もっとわかりやすく自殺者の数を少なくしてはくれないだろうか。

それともそんなことはどうでもいいのだろうか。

おそらく、そうだろう。
どうでもいいのだろう。

社会の注目を集めなければ、そんなものは、どうでもいいことなのだろう。

時々、そんなことを思う。

こんないうまく新型インフルエンザ対策を地道にやっているのにな…

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どちらが正しいか

よく飲み屋なんかで、知人であるのだろうが、何かに関する議論が起きるとき、どちらかが正しいはずだという前提を持ってしまっていることが多い。

しかし、実際にはどちらも正しくないこともあるだろうし、どちらかが勝ちに(正しく)ならなくてもいいジャンという問題も多くある。

また、違う場合には、どちらが知っているかということが問題になることもあるが、どちらが多く知っているかはさほど大きな問題ではなく両者の情報を総合あるいは統合あるいは足し算できたほうが数倍素敵だと思うのだが、どこかで自分のほうが知っている、自分のほうが偉いという感じを出したいと思うのは、とても興ざめする思いがある。(兼好みたいだけど)

自らがそういう状況に陥ったとき、わたしは明らかに相手が間違った情報を提供してきても否定しないし、ただ聞きながらもうこの人とは話せないなと思うだけである。

このような会話になだれ込むのも理由があって、その理由とは自分が勝たなければならない理由なのだけれど、その勝たなければならないという理由がすこぶる情けなく、しかも自分が築いたものでもない教えられたものだったりするとき、ああと呻き、酒を飲み干したりする。

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図書館へ行く楽しみ


図書館へ行き、新しく入った本のコーナーや返却されたばかりの本のコーナーをのぞいていると、ほんのわずかな差で出合えなかった本を目にすることがあります。

その出合いはとても愉快だ。

ほんのわずかな差ではあるけれど、図書館に来なければ、どこかの書評とか誰かの口から出なければその本にはたどり着けなかったわけで、いやあホントに出合えてよかったとしみじみ思ったりもするときがあるのです。

写真の本の著者の橋本治という人にわたしは好感は持っていたのですが、この本を取り上げてみるまで実はこの人のことを何も知らなかったのだなあと思いました。

この本との出合いも図書館でした。
そしてこの本をもってはじめてわたしは橋本治という人を知ったのでした。

もし、このブログを読んでくださっている人の中で、何かを考えるという作業をすることが多い人には、この本を読んでもらいたいなと思います。

この本のなかでの橋本さんは、素人が何かを考えるということはどういうことかをよく教えてくれます。

素人?

そうです。
橋本さんも自分が考える素人だと自覚していますし、わたしもしています。
もしかしたらあなたもそうではありませんか、もし、素人としていろいろなことを考えてみたいならば、この本はとてもいろいろなことを教えてくれます。

素人の考えは、他者を説得するものではなく自分を納得させるものであり、せいぜい広げて自分のそばにいる人を説得させるものなのだから、誰かの意見と戦う必要はないのだろうというのはわたしの意見でもあったのですが、橋本さんも同じような語り口をします。

そして同時に自分の足で立ち評論家ではなく、自分に対して当事者として考えるという行為をしている人がここにいて、その語りが商売になっているという力強さを知りました。

人はわからないことはわからないと感じればいいし、どうでもいいと思えばどうでもいいと思っていいし、そんなことは関係ないと思うなら関係ないと思ってもいいわけで、そういうことをしっかりとこの本では確認できていて、そこが何ともショッキングでした。

こういう人が仲間なんだろうなと思いながら、仲間と呼べる連中とは連帯などというものは取れないのだなともせつなく思いました。

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2009年5月15日金曜日

いろいろな国といろいろな人


日本がいま考えなければならないのは、どのような三流国になったらいいのかということです。
明治のころ、内村鑑三は地上の理想をデンマークに求めた。
つまり明治の人間は、すでに日本はどのような三流国になったらいいだろうということを考えていた。
北欧三国もベネルクス三国も、自ら一流を謳わないが、とてもいい国です。
日本はどうしてアメリカ、アメリカと言い続けるのだろう。

以上は鶴見俊輔氏の主張だ。
そして、わたしもこの主張に教えられている。

「北緯14度」絲山秋子著は彼女のセネガル行が書かれている。
見たもの触れたもの感じたものをなるだけそぎ落とさずに書こうとした紀行文?、感想文だ。

この本が、素敵な読み物になっているのは、彼女が書くという行為の持つ秘密を少し知っているからだ。

「書いてしまえば、書かなかったものは消える」

これがその秘密だが、書く以外の行為、たとえば話すとか考えるとか思うとか、そういった類の行為も似たところがある。
自分の触れたものを丸抱えするためには、そういった行為を遠ざける必要がある。

その結果の作品が、「北緯14度」で、そこには明らかに日本と違う他国が書かれている。
そして、その国、セネガルがまんざらでもないなと思わせてくれる。
(もちろんひどいところもいっぱいあるんだよ、日本だってそうだろ。
でもセネガルは食い物の心配はしなくてもいいらしい。
たいしたものだ。)

日本は、いまだに内需拡大などと吼えているが、そうでない生き方をしている国はある。
そして、そういう国の生き方がはたして日本では出来ないものかと考える余地はある。

しかしながら、そういうことを考えている政治家が表舞台に立つことはない。
実際に存在するかどうかも知らない。

あなたが、もしそういう国の存在を知らないなら、そういう国に暮らす人の生き様を知らないなら、この本を手に取る価値はあるかもしれないとわたしは思う。

いろいろな国といろいろな人、そういったものたちでこの世界は成り立っている。

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2009年5月14日木曜日

どこまで考えるか


何事も深く考えずにスイスイとミズスマシのように生きていくひとたちの姿をわたしは認めている。
というか、若干憧れている。
鈍重な自分の在りようと内心比較してのことかもしれない。

そういう連中の話が「田村はまだか」には書かれているのだが、その連中がわたしの思うほど何も考えずに楽に生きているのではないことをこの小説は教えてくれた。

まあ、小説にするくらいだから登場人物は、わたしの思うミズスマシ軍団よりは少々思慮深いのかもしれないが、なるほどこのように考えて、その考えがあるところまで行くとその先には行かず引き返してくるのだということを教えてくれた。

思えば、その先まで考えてみても一人相撲で苦しむだけのことなのだから(考え続ければ、パッと眼前の光景が開かれることがあるのはあるのだが、そしてそのために考え続けるのだが、それは愉快な作業ではないかもしれないし、もっとはっきり言えば自然体で生きる姿勢からは外れているのだろう)、ここらでいらぬ凡慮はやめて、どこかに寝そべって空でも眺めているのがよかろう。

空を眺めるまではいかぬが、それに完全には肩の荷は下ろさぬが、それでもこの小説の登場人物たちは悩みから戻ってくる。
その加減が、なかなかによく書けた小説であり、「来ない田村」と舞台になるスナックの「マスター」の狂言回しが、なかなかに見事だ。

読んでも読まなくてもいい作品だが、書き手なら手に取ったほうがいいかもしれない。

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最後の通院

後遺症確認のため中野の警察病院に行く。
その途中、犬屋敷跡に出くわす。

犬屋敷とはご存知のように徳川将軍五代綱吉が貞亨二年(1685)に出した生類憐れみの令によって、徘徊する野良犬を飼う「お犬様御用屋敷」なるもので、何ヶ所か用意されたらしいが、大久保・四谷と並び有名なのがこの中野の犬屋敷。

その跡を眺めながら急に綱吉がなぜあれほど犬を大事にしたのか、しかとは知らない自分に気付いた。
このように自分以外のもの、自分の外のものに気が向くのは精神的に良好になっている証拠だ。

振り返れば、ここ二週間ほど外のものに何の興味も覚えなかった。
単なる鬱ではなかろう。
鬱と虚無主義が結びついたようなものだろうか。
あるいはそれにオブローモフ主義を足したものか。

いずれにしろ、外に対して何の気も向かわない状態が続いていた。
これはこれで目の前に何か薄靄のかかった気分でいいものではない。
生きる気力がマイナスに向いている状態で、妙な扱いをするとこじれてしまう。

それが、中野の犬屋敷跡を見たとき、わたしの外の綱吉に気が走った。

後頭部の激しい痛打と裂傷の後遺症の最終チェックのこの日、精神も浮上し始めたというわけだ。

まったくもって悲劇的か喜劇的かわからぬ生き方をする男だ。
自分のことながら、なにやら幸せな男だと感じてほくそえんだ。

明日の見えぬ状態でも幸せになれることが出来るのだろうか?

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2009年5月13日水曜日

旅に出たくないこと

大槻文彦「大言海」によれば、

旅=家ヲ出デテ、遠キニ行キ、途中ニアルコト

とあるが、そうなるとわかってくる。

わたしが、家を出て他の場所に行きたくない気分が。

つまり、わたしは家にいながらにしてどこか遠くに出かけ途中にいるのだろうな、精神的には。
だとしたら、実際に旅に出たくはなくなるのだろう。

それはそれとして、わたしはいつ家に戻れるのだろう。
それともこの家は幻影で実際は家などどこにもないのではないのだろうか。

そう思いついたとき、夢の中にいながら夢から醒めた気分になる。

わたしだって、実際の旅に出たい気持ちになりたいのだ。

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2009年5月12日火曜日

少年譜


少し精神の彷徨がおさまってきたので、伊集院静の「少年譜」を読む。
読んでみて感じるのは、早、この人は自分の世界を持ってしまっているということだ。

そして、おそらくその世界には何人かの読者がついているのだろう。

どこかやさしげなその視点をわたしも愛している。
それは色川武大の一部でもあるやさしさだ。

この種のやさしさは、思えば、この生きている世の中で見かけなくなった。
ここでは、あやまちをあやまちとしてしか見なくなった。

人はあやまちをする動物だ。

それをどう受け止めるかで随分様相は変わってくる。

この小説世界の中に存在するような人々がまだどこかにいるのだろうか。

遠い目をしてしまいそうな気分になる。

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小沢一郎が代表をやめたね

小沢一郎の問題にはいつも官僚たちとの戦いが潜んでいて、小沢を語るときは小沢が官僚と戦える状況であるのかどうかが第一の問題だ。

だからいま騒いでいるように民主党の代表が次は誰になるのかではなくて、小沢はこれで官僚に対して戦いが挑めなくなったかどうかが主要なんだが、いつものようにマスコミはこのことをあまり話題にしないね。

最近、また「国立メディア芸術総合センター(仮称)」などの箱ものを作る話が出てきているが、ご存知のようにこれも官僚主導だ。
この官僚主導をやめさせようとしているのが、小沢一郎で(彼がどのような人であるかは別にして)、その小沢を嫌がっているのが官僚だ。

今回の小沢の代表降りはその戦いの一環で、選挙云々がメインではない。
なぜなら選挙で民主党が勝つこともこの戦いの一環にすぎないからだ。

民主対自民ではなく、小沢対官僚だ。
とにかく官僚をどうにかしなければ、この国の二極化は進み、さらにひどい状態を見ることになる。

そういう流れの中で今回の小沢の代表辞任は見たほうがいい。

そうわたしは思うんだけどね。

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2009年5月11日月曜日

正しい物言い

もともと文章は偏向の賜物であって、その偏向を自分が知っていることとその偏向が芸になっていることで面白みがますということなのでしょうね。

この部分を逃すといつまでたっても仲間内でしか通用しないようなものになってしまい、そこが辛いですね。
(それでもいいんだけどね)

ときどきこれが正しい見方だなどという強い主張を見るとき、なにか辛くなってきます。

死にかけた人間にとっては。
(ここ二三回は、こればっか。だって、ホントニ死ぬと思ったからね。)

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本から得た知識など…

今回死にかけてみて、また再び深く思うのだが、本から得た知識など、たかが知れている。

UNLEARN という作業が欠けているからだ。

もちろんUNLEARNしてしまえば学校で得た知識も立派なものだ。
問題はいつでもUNLEARNに潜んでいる。

もちろんUNLEARNの元となるものが体験からなりたったものでもいい。
要するに一度得たものをそのままほっておくかもう一度出合いなおすかということだ。

体験を何度したところでもう一度そのことに出合わなければ何ともならない。
たとえばオレのように、同じ間違いを何度でも繰り返す。

それでもだ。
体験はしないよりしたほうがいい。
UNLEARNの要素が内包されている。

逆に本から得た知識などその程度のもので、そいつをひねくり返してしゃべっている人間を評論家と呼び、バカにしてもバチは当たるまい。

そんなところに何も転がってはいない。

なにかが転がっているのであれば、どぶ川もまた風情はある。
階段から転がり落ちてもさ。

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世は忌野清志郎さん(享年58)を悼んでいるが

わたしといえば、ちょいとした不注意で先週の水曜日の深夜からの酒が後を引き、土曜日の早朝に中島らもよろしく階段から落下して、もう少しで死ぬところであった。

死ななかった幸せというのがあるのかどうかわからないが、医者から頭蓋骨陥没、脳みそ出てるかわからんぞとどやしつけられながらCTスキャンを受けていたが、そういうこともなくこうして生きている。

これ以上生きて、何をしようというのかと思う。

とにかく人は簡単に死ぬ。

オレが死ななかったのは打ち所が悪かっただけだ。

なんという無様な…

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2009年5月6日水曜日

熱い男

「熱い」は熱い心を持ったという意味だろう。
そのように評される男がいる。
たいていは外見や言葉遣いがそのことを示す。
これが、通常使われている「熱い男」の姿だ。

しかし、「熱い男」がこのようなスタイルばかりとは限らない。

もっと静かに激しく心の底から燃えている人間もいる。
先ほどの見方の大きなミスはそのような静かに燃える人を見逃してしまうことだ。
オーラなどという言葉にも同じものがある。

人の心のありようはそのようにはっきりと見えてしまうほど安っぽくはない。
また、激しい言説をはいたからといって何の保証にもならない。

人を見るためにはただただ人を見る訓練をするだけだ。
その訓練の第一段階に「言葉なんぞに惑わされるな」がある。

では、何をもって人を見るか。
まさにそれがあなたに課された問題だ。

あのように軽い言葉を吐いていたかのように見える矢吹ジョーでさえその実態は違っていた。
ラストシーンを覚えているだろうか。

あの矢吹ジョーの最後は静かにコークスのように燃えていたではないか。
でなければあんな白い灰になるはずはないに決まっているではないか。

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2009年5月5日火曜日

堕ちる

人は堕ちるところまで落ちたら後は這い上がるだけという説があるがほんとうだろうか。

這い上がるのには土壌がいるのではないのだろうか。

新宿歌舞伎町も随分廃れた。
それとは別に、わたしの知っている個人営業の人々も汲々としている。

人はやがてうちへ帰り、そこでの生活を楽しむようになれればいいのだが、その家庭もいまや崩壊状態。

もしかしたらこの国は終末前の状態なのかもしれない。
問題は生き残る側に入っているかどうかだけで、週末であることは変わらないのかもしれない。

東京も繁華街は廃れ、もはや地方都市の様相だ。
マスコミの煽りもこれからどのくらい持続できるのだろうか。
持続できたとしても余裕ある人々に対してだけだろうし…

とにかくお互いに自分の頭で考え抜き、進めるところまで進もう。
別に国内にとどまる必要もないのだし…

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2009年5月3日日曜日

意志

体力はないが意志はある。

そう言いきれる人がいる。
わたしには少し難しい。
難しいが可能だろうという気分はある。

わたしには意志を鈍らす数多くのものがあって、そのひとつが体力だ。
すぐに寝込んでしまうのもそのためだ。
厳密に言えば、寝込んだからといって意志がなくなっている状態でもないのだろうが。

なぜわたしがここまで意志にこだわるかといえば、意志が推進力だからだ。
確かに体力は生きながらえさせてくれる。
しかし、永遠を生むことはない。

では、意志は永遠をその生のなかに芽生えさせるか?

ここで言う永遠とは、彼女とともに草むらに寝転んでいるとき感じるあの時が流れるのが止まってしまったかのように感じる感覚だが、それはある。

愛もまた意志の産物だ。

意志なきところに愛も何もあるまい。

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2009年5月2日土曜日

評論家の意見

評論家に対する偏見を書けば、かれらは常に部外者だということだ。
部外者に何事かを語る資格はない。
いざとなれば逃げ出すから、なんらの信用も置けないというわけだ。

そういう評論家はごろごろしているし、たいていの政治家の意見もまた評論家の意見と同様だ。
受けて立つ覚悟はない。

つまりひとかどの人物ではないのだ。

そしてさらに絶望的なことに、普通に生きている人々もまた評論家の意見しか持たない。
TBSラジオの「アクセス」などを聞いていると驚くほど部外者だ。

基本的に部外者に生きている実感はないとわたしは思っている。
だから、ひそかに彼らに生きている意義はないと思っている。
(ほんとうは、それでも彼らにも人間関係がある以上、このような乱暴なことを語ってはならないのだが)

では、どこに評論家ではない意見があるかといえば、私見ではあるが職人のなかにある。
この職人というコトバは広くとらえてもらいたい。

何かを作り出している人であり、かつその作業にプロ意識を持っている人。
この人たちのコトバは重い。
そこに生活があり、生きている実感があるからだと思う。

芸術家は似ているが少し危ない。
なかに傑出した意見を語れる人はいるが、職人ほどは信用できない。

これがざっと見回したこの日本の様相だ。
もしかしたら日本を世界と言い換えてもいいかと思う。

生きている実感のないところにまともな思いは生じないというのが、断固たるわたしの偏見なのです。

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2009年5月1日金曜日

寝込んでいるといっても

横になっていてもすやすや寝ているということはなく、夢を見てはおき、寝汗を拭きなおし、また浅い眠りに入る。

いい夢を見ることもあるが、後味の悪い夢も多い。
ただ、夢は醒めてくれるからという信頼感がある。
と同時にずっと続いてくれればという淡い期待感もある。

どちらにしろ現実感の薄さは救いとなる。

酒は夢に似ているようであっても、実は酒の効能は現実感をましている。
現実のある部分を肥大化し、ある部分を捨象する。
そのため、醒めた後の辛さは付きまとう。

酔生夢死というが、このコトバに登場してくる酒は意味合いが異なっていて、なかなかに上等なものだろうと思う。
してみると酒自体が悪いのではなく、わたしの酒の品性が低いのかとも思うが、とにかく、今の時点でわたしにわかるのは、酒は現実感を増す作用があるということなのです。

だとしてみれば、わたしが良くも悪くも眠りに惹かれるのが、あなたに少しはわかっていただけるのではないかしらと思っている。

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死は突発的なもので

当たり前のことだが、訃報というのは突然舞い込むもので、それを加減したところで容態がかなり悪いという情報はこれもよほどの身内でなければ、ゆったりとした生活のなかで手にするものではなくて、そりゃあたいへんだわいとなる。

わたしの場合は、父母を早くなくしているので、しかもわたしに兄弟はなく(実際にはこちらも早くなくしているので)もはや身内での訃報が急に舞い込むことはない。

ただ、私自身の訃報は差出人がわたしだから、こいつが急に舞い込むことはなくあらかじめわたしは知ってしまっている。(事故死でもない限り)

死が突発的なのはそれが他人の死だからで、それ以外の死、つまり自分の死に関しては突発的でない可能性が十分にある。

そういうことを考えているものだから寝込んでしまったのだと思っている。
バカだねと自嘲もしているが、そう簡単に変わる性癖でもあるまいし…

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インフルエンザ

豚インフルエンザから変異した新型インフルエンザは弱毒性でそれほど心配いらないらしい。
にしてもお気をつけあそばせ。

わたしは、別件でこの数日間完全に横臥状態。

なんにしろ心身ともに健康でありたいものです。

ブログ更新できずに申し訳ありません。

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