2009年5月27日水曜日

その日の天使

個人的に好きな中島らもは生きることになんら価値をもっていなかった男だと思う。
それが亡失を願う気持ちにつながり、その亡失の存在が彼を生きさせたのだと思う。(亡失は酒、麻薬、睡眠薬、仕事といろいろなものがもたらせてくれる)

彼は生きることは、そこそこに楽しいもので、気の持ちようが原因なのだから、一時の落ち込みで死んだりしてはいかんだろう、楽しいこともまたやってくるなどとほざいていたが、実際に腹の底からそう思っていたかどうかは知らない。

事実、最後の転落死は自殺みたいなものだ。

だが、もともとものを考える人間にとって生きることは愉快でないことが多い。

一等いいのは考えずに楽しむことだが、それが出来にくい。
皮肉な話だ。

そのらも氏が語っていたが、人は一日に一人天使と出会うそうな。
それが、焼き芋屋のおじちゃんか、立ち食いそばのおばちゃんか、通りすがりの少年か、それはわからないが、この考えの中にらもの哀愁はすでに存在する。

そして同時に、一人の人に天使を求めてはならないという洞察もある。(実際にらも氏がそうしたかどうかは疑問なのだけれど、もの書きなどという人間は概ね書いていることと実際は違っており、それを取りざたするのは野暮な話だ)

どちらにしろ、「その日の天使」なんぞという考えが浮かぶのは秀逸だし、そう浮かばざるを得なかった人生は殺伐としている。

そして一人の女に天使を見続けることが困難ということは、これはかなりきびしい現実だ。
いやいや、キミの彼女は天使なのかもしれない。

このブログ、戯言として読み捨ててほしい。

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