2009年5月15日金曜日

いろいろな国といろいろな人


日本がいま考えなければならないのは、どのような三流国になったらいいのかということです。
明治のころ、内村鑑三は地上の理想をデンマークに求めた。
つまり明治の人間は、すでに日本はどのような三流国になったらいいだろうということを考えていた。
北欧三国もベネルクス三国も、自ら一流を謳わないが、とてもいい国です。
日本はどうしてアメリカ、アメリカと言い続けるのだろう。

以上は鶴見俊輔氏の主張だ。
そして、わたしもこの主張に教えられている。

「北緯14度」絲山秋子著は彼女のセネガル行が書かれている。
見たもの触れたもの感じたものをなるだけそぎ落とさずに書こうとした紀行文?、感想文だ。

この本が、素敵な読み物になっているのは、彼女が書くという行為の持つ秘密を少し知っているからだ。

「書いてしまえば、書かなかったものは消える」

これがその秘密だが、書く以外の行為、たとえば話すとか考えるとか思うとか、そういった類の行為も似たところがある。
自分の触れたものを丸抱えするためには、そういった行為を遠ざける必要がある。

その結果の作品が、「北緯14度」で、そこには明らかに日本と違う他国が書かれている。
そして、その国、セネガルがまんざらでもないなと思わせてくれる。
(もちろんひどいところもいっぱいあるんだよ、日本だってそうだろ。
でもセネガルは食い物の心配はしなくてもいいらしい。
たいしたものだ。)

日本は、いまだに内需拡大などと吼えているが、そうでない生き方をしている国はある。
そして、そういう国の生き方がはたして日本では出来ないものかと考える余地はある。

しかしながら、そういうことを考えている政治家が表舞台に立つことはない。
実際に存在するかどうかも知らない。

あなたが、もしそういう国の存在を知らないなら、そういう国に暮らす人の生き様を知らないなら、この本を手に取る価値はあるかもしれないとわたしは思う。

いろいろな国といろいろな人、そういったものたちでこの世界は成り立っている。

ラベル: