2009年5月31日日曜日

生きる意味はない

「生きる意味はない」というわたしの主張についてはいろいろとご不満もおありだろうが、ただわたしはそう考えているということだけなので、それをそのままお許し願いたい。

「生きる意味はない」、だからこそ、その意味をわれわれがつけるのだ、というのがわたしの主張だ。

その意味のつけ方にはモデルを必要としており、それが宗教である場合は多いだろう。
それにプラスされていままでその社会が受容してきた生き方のパターンであったり、個人的にイチローの野球であったり、タイガーウッズのゴルフであったりする。

ここで一番重要なのはそのモデルは何でもいいということだ。(創出されたものも含めて)
あなた自身があなたの生きる姿に好きなように意味づけすればいいというのがわたしの願いだ。

けれどもあまりにも勝手にそれを自分自身で行うとまわりからは糾弾されるだろう。
そこが辛いところだ。

まわりの人々は自分と違う意味のつけ方をする人間を暖かく見守るという寛容な態度をもってはいない、多くの場合。
自分と違うことをする人間を自分を否定する人間だと見なしてしまうクセがある。

つまりは弱小ものなのだ。
その結果のあなたを否定する態度であり、その結果、群れたがる。

だからもう一度、高らかに「生きる意味」は本人が色づければいいのだということをここに書き記しておきたい。

もちろん、それを宗教であれ、社会的なモデルであれ、何かに託するのも自由だ。
それも含めて「生きる意味」を色づけるのはあなたで、その根拠はもともと「生きる意味はない」ところに発生する。

そしてこの問題は、「生きる意味はない」のならそのまま死んでいってもいいし、ぼんやりと意味のないまま生きていってもいいにもつながる。

この話題もなかなかに深く大きい問題で、ここにはうまく提示しきれないが、気になるので再度、書き置かせてください。

この意味の果てに、あなたの愛した人を、あなたの生を大切に、のメッセージがあるのだが、それが焦点を結ぶには、はるか遠いところまでへの思考の旅が続く。

それは平行線に見える二つの直線が実ははるか遠方で焦点を結んでいるというような星空を眺める行為に似ている。

妄言多謝

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