2009年5月30日土曜日

心に振り回される

ときに女に、男に、仕事のなさに、世間の評価の低さに嘆き、苦しみ振り回されたりするが、それは別に愛した女が振り向いてくれないからではない。
つまり、世間やその女のせいでなどではさらさらない。

では何が振り回す?

それは、あなたのその女にほれた心があなたを振り回すのだ。

このところの犯罪報道などを見聞きしているとよくぞここまでというくらいにプリンティングされている。
そうあるべき自分の姿を写し絵のように心に刷り込んでしまっているのだ。
見方を変えれば何者かによって刷り込まれているのだ。

刷り込まれた写し絵のようにうまくこの世を生きられればいいが、そうでないとのたうちまわる。
これをもって、我が心に振り回されているという。
もちろんその心を形成したのは我が心ではあっても自分自身ではない。

ここが問題だが、なかなか思い当たらない。
何しろ自分の心は自分の心だから、自分の味方と信じて疑わぬものだから。

けれども注意したまえ。

あなたの心はあなたの心であって、あなたの心ではない。

もっとはっきり言ってしまえば、心などどこにもないもので、それをどこかから誰かが(もちろん稀な例としてあなた自身の場合もあるが)現出させるのだ。
その現出をもって生きることに意味が生じる。
意味が生じればその意味に振り回される。

ほれてしまわねば、その女はいつまでたっても他の女と別の意味は持たない。
ほれたときにはじめて他とは別の女となる。
もともとその女が別の女だったわけではない。
あなたがそうしたのだ。

だから?

だから? と問われるときつい。
あえて答えれば、ぼんやり生きていてほしい。
そして、ある時にくっきりと。
(達人の域だね)

とにかく、あなたの心に振り回されなさるな。
(もちろん、オレもだけどさ)

女を愛するなら、ぼんやりと愛するに限る。
これが、極意だ。

ラベル: