2009年5月28日木曜日

親密な時間の共有

親密な時間の共有が血のつながりを超えることもある。
つまり、血族よりも親しくなってしまう他人もいるということだ。

ただし、この親密な時間の共有というのがなにを意味しているのはやさしくは語れない。
そこにはときどきはコトバの交感が必要になってくるだろうし、雰囲気の交感も必要になってくるだろう。
その全体を伝えるにはひとつの物語が必要な気がする。
そうして、そのようなひとつの物語を書くという作業をずいぶん長くサボってきたのがわたしである。

「親密な時間の共有」

そういう小説があっていいと思うし、実はそんな小説はいっぱいある。
なかには、すばらしい出来のものもある。

大事な認識は、その時間の共有は他人とも可能だということである。
もちろん親族とも可能だし、夫婦でも家族でも可能だ。

問題は一杯の紅茶を囲んでどんな時間をもてるかによる。

相手に期待してはいけないが「親密な時間」という存在は知っておいてもいい。

はたしてわたしはそのような時間を誰と共有したことがあったのだろうか。
そして共有することで関係を作り出したことがあったろうか。

そんなことをさびしい夜には思う。

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