2009年5月28日木曜日

イチローにあってあなたにないもの

「イチローにあってあなたにないもの」
それはコンピテンスだろう。

コンピテンスはまだしっかりと定着していないから、

○ある課題遂行についての潜在的な能力
○環境に対して効果的な変化を生じさせることのできる能力

などの一般的な意味から少し離れて、個人言語として使う。
「自分を信頼し、操作し、目的を達成する力」とでもしておこうか。

才能をたよりに目的達成するためには他者、延いては社会との関係性の形成も必要となってくる。
このあたりはイチローにあってあなたにないものプロデュース能力に近い。

イチローはただ野球がうまくなるために特殊な練習をしているだけではない。
どうすればうまくいくかいつも考えている。
それは食生活や睡眠や球場と家との行き来やマスコミとの付き合い方などすべてに渉ってである。

才能(創造性)について考える場合はそこが問題なのだと最近はいわれだしている。

ある才能を伸ばすためには才能を伸ばす特殊なトレーニングを激しくしていればいいだけではない。
まず自分の才能に対する無防備な信頼とその才能を開花させるための自分の動かし方が必要だ。
その上に立ってはじめてトレーニングと言えるのでそういった下部構造を持たぬトレーニングの場合には短期的には効果はあげられても長期にわたっての成果は考えがたい。

さて、再び「イチローにあってあなたに、もちろんわたしにもないもの」

それは無防備な自分への信頼とそれを低音基調とする野球への愛(われわれにとってそれは野球ではないのだろうが)とその自分を押し上げていくプロデュース能力だ。

もちろんそんなものが必要かどうかは知らないし、自分で考えればいいだけのものだろう。

けれども、子どもにむやみに才能を要求する母親には知っておいてもらいたい。
才能には内発的な部分が必須で、単に激しいトレーニングだけではどうにもならないのだということを。

もし、それでどうにかなったとしたら、そんなものは才能でもなんでもない、もっとちっぽけな、どうでもいいもので、それをこのちっぽけな社会がおもちゃとして受け入れただけのことだろう。

ところで、このごろ、なんか、イチロー調子いいらしいね。

ラベル: