2008年6月30日月曜日

身の浮き立つこと

それは盆踊りでもそうだし、コンサートでもそうだし、演説であってもそうだ。
心の底から浮かれることがない。
揺さぶられることはあるのだ。
しかし、自然に身体が舞い始めることはない。

哀しい性だと思っている。

過日の土曜日「ちゃんぷる亭」で神山長蔵氏を囲みながら三線とギターによる沖縄民謡を聴く会があった。
会といっても自然発生的なもので、その自然発生的がいいではないか。

演者も十分なテクニックを持ち神山氏も十分な知識をもっていた。
最終的にはとてもいい会となった。
浮き立つことはもちろんなかったが、ときに揺さぶられる感じがあった。

そこで神山氏に二点指摘された。
ひとつは、わたしを沖縄好きだと彼に言われたときに、わたしが沖縄好きではないと答えたとき。
実のところ、そういう沖縄好きなどというぼけたくくりで話されるのをわたしは嫌うのでそう言ったのだが、それは言う必要のないことだと指摘された。
それはそうかもしれないと思い、誤った。
深く話すつもりのない相手にあえてそのようなこだわった物言いはしないがよかろう。

さらにひとつは、最後に交わした「ありがとう」という言葉だった。
年長者である神山氏には「ありがとうございました」というものだと指摘された。
わたしはときとして年齢が飛んでしまう。
十分に心をこめた「ありがとう」だったが、「ございました」が必要だったのだろう。
これには年長者を大切にする沖縄の風土を感じた。

あれやこれやであったが、楽しい夜であった。
神山氏がわたしの資質を評価したこともとても力になった。

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2008年6月28日土曜日

わたしの哀しみ

わたしの哀しみや、わたしの苦しみ、わたしのせつなさは、はっきり言ってしまうが、これは間違いなくわたし個人のものだ。
わたしより哀しい人や苦しい人やせつない人がいたとしても何も変わらない。
それはそれぞれが哀しみや苦しみやせつなさをもっているだけのことだ。

ときとしてわけ知り顔に

「あなただけが苦しいんじゃないんだよ」とか
「あたしだって哀しいんだよ」とか
「イラクの子供たちのことを知っているの」とか

言うひとはいるが、それは個別の問題で、わたしの問題のそばに並べる問題ではない。
それぞれが問題としてそこに存在するのだ。

その手法を確か「弱め」とか言うのだが、つまり否定するのではなくあなたの言っていることはたいしたことではないと「弱め」ているという意味で…。

そこにわたしの哀しみへの解決法はない。
というよりあなたにしてもわたしにしてもこの種の感情的な問題の解決に論理的な方法はない。

おそらくあるとすればわたしに、あるいはあなたに寄り添うしかない。
つまりおそろしくわがままな悩みなのだ。

そのわがままな悩みを先ほどのように論理的に解決しようとする人間に対しては耳を貸さないことだ。
なぜなら、一見、論理的には誤っていないからだ。
しかし、あなたの問題とそのほかの人の問題を比較する根拠はどこにもない。
比較するには、ある種の同じ土台が必要で、まったくもって同じ問題をもっているなら、比較可能なのかもしれないが、(実はそれでも比較してはならないとわたしは思っている)それを比較するのは、強引な特殊な心性の持ち主のやり方だ。

あなたの問題はあなたの問題で、それはだれがなんと言おうと、とてもつらい問題で、過ぎ去るのを待つしかない。
その過ぎ去るのを待つ間、少し離れてあなたやわたしをみていてくれる人、これだけが我々の信じていい人なのだ。
彼らは言う。

「あなたがいないと困る」
そういう解決策しかない。

「あなただけが苦しいんじゃないんだよ」
「あたしだって哀しいんだよ」
馬鹿なことを何も考えずに語り、人を傷つけるものではない。
それでなくてもこちらは十分に傷ついているのだ。

「キミの作品を読めないとつらいのだよ」
語るなら、こんなコトバだろう。

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2008年6月27日金曜日

拉致被害者

北朝鮮がテロ支援国家からの指定解除の方向に進みつつあり、拉致被害者の問題が取りざたされている。
アメリカにとって核問題のほうがはるかに拉致問題よりも大きな問題であることは、当たり前のことであり、日本人が何人拉致されていようが、それは大きな問題ではない。
哀しむべき問題だとは思っているか知れないが…

というようなことで、拉致問題は日本が国際政治を知悉して動かなければ解決できない問題だった。
問題だったというのは、すでに終ってしまった問題だからである。
わたしには次にいつチャンスが来るかわからないが、米国と北朝鮮の調整がうまくいけばその機会は訪れまい。

拉致のようなことをしてと過去を振り返り声を荒げる人間は多いが、歴史をさかのぼり問題を解決することはまれなことで、それは敗戦国が圧倒的な戦勝国から強制されることで、たとえば戦勝国アメリカが日本に本格的に詫びたことはない、あの原爆に対してもだ。

2002年蓮池薫以下6名の拉致被害者が帰国するが、あれは一時帰国でもう一度北朝鮮に戻さなければならなかった。
日本もそう約束していた。
それを選挙のために反故にしたのが小泉と安倍であった。
この段階で、北朝鮮は拉致問題に進展を考えなくなった。
あの時北朝鮮は、アメリカとのなかを日本にとり入ってもらい何とかしようとしていた、そう考えられる。
そのための異常な好意だったのだが、日本はそれを裏切った。
これは、政治的に圧倒的に日本がおかしい。

拉致がおかしいから何をしてもいいのだというのなら、あの第二次大戦中での日本の彼らにとった行動の問題も同じことで、彼らも何をしてもよいことになる。

国際政治は遊びではないのだから、どこかで区切られる。

今回のテロ支援国家からの指定解除の前、2002年、日本のとった間違いですでに拉致問題は解決不能な状況に入り込んでしまっていた。

これは横田さんらへの個人的な感情とはまったく別なことで、国際政治には国際政治の解決法があるということを言っているのだ。
悪いやつらはやっつけろではなにも解決しない。

そのやり方で解決に向かうことのできるのはアメリカだけだ。
そのアメリカもいまや、その方法では危うい。

どこまで日本の国家は国際政治を知っているのだろうか。

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2008年6月26日木曜日

新宿最底辺

わたしが、ここ十日あまり徘徊した新宿最底辺に渦巻いていたのは、「私」であった。
それは、「わたし」であり、「おれ」であり、「あたい」であり、つまりは「おまえ」ではなく「私」なのであった。
その世界では、「おまえ」の持つものには何の意味もなくひたすらふんだくろうとする企み、多くは憎しみの充満した企みに満ちていた。
なかには、ある種の好意を含んだ「私」を持つものもいたが、それはこの新宿底辺の世界では下等なものとして位置している。

だが、このことは蔑むことではなくとうとう我々がそういう存在になったということだけだ。

この状況は生殺与奪や弱肉強食や生き馬の目を抜くといったコトバが似合うが、よくよく見ていくとそれだけではない。

このような世界から少しでもはなれたところに住む住人がいるが、彼らは、庭師だったり、農業だったり、はし作りだったりに従事していて、少なくとも自分とは離れた造形とでも呼ぶべきものにかかわっている。
それが、この話の構造だが、それからの話は長く遠い。

あるものが自分ではない造形にかかわり、次第に自分から離れていこうとしていることを語っているに過ぎない。
自分を追っていく先に何が待っているかはおおよそ見当がつこう。

しかしながら自分ではない何か別の造形を目指した人間がどうなるのかはわかりにくいところだ。
それにそういった造形を追う作業のうちで自分とどうかかわっているかも複雑だ。

新宿最底辺に住んでいる輩から学ぶべきことは多く、むしりとられることも多い。
わたしはかの場所に行くことを決してお勧めしないが、だからといってかの場所を毛嫌いしているわけでもない。

新宿最底辺には「私」が渦巻いているというお話だ。

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33093人

発表された自殺者数は33093人。

自殺の原因のうち、最多は「鬱病」。
さらに「多重債務」や「生活苦」など、
経済的な理由による自殺者が3千人を超えた。

これで、日本の自殺者は、10年連続で、
3万人を超えたことになるが、これはまさに戦争状態で、その中で「見えない餓死」が進行している。

ちなみに政府の対策は何もないように見える。
他人事だからね。

とにかく、えらいことになっているのは確かだ。

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食欲

食欲などというものは、趣味のようなところがあっていったん興味を失うと何を見ても食いたくは思わず、ただ水分を取っていればことは足りる。
その水分がアルコールとなれば、これはもう最後まで行き、食欲そのものが消える。
そんなことが中島らもの本に書いてあったがあれは本当で、性欲も消えれば食欲も消える。
ただただ何かを呑みたく思う。

そんなこんなで一時は85キロ近くあったわたしの体重はいまや65キロを切ろうとしている。
もともとタッパがないのだから心配するほどのことはないが、いつ食欲が戻ってくるのかには少し気になるところがある。

そういうことを経験しているとうまいものがどうのこうのという話にははなはだ疑い深い。
あれは、何も考えずに健康でいられる人間の特権で、誰しもあるものではない。

いつもいうように気にすることはない。


盆栽が好きな人もいれば、蘭が好きな人もいる。
詩が好きな人もいれば、ハードボイルドが好きな人もいる。
食物が好きな人もいれば、酒が好きな人もいる。

ただ、酒だけが身体をぼろぼろにするに過ぎない。
しかし、また身体をぼろぼろにするのが好きな人もいる。

自分で決めて自分で選び取っていけばいい。

健康が好きならば健康でいればいいし、死にたければ死ねば言いだけのことである。

これもただしだが、今の自殺者の多くのように殺されてはいけない。
選び取らされし死はいけない。

今年もまた自殺者数が発表された。

当たり前のように3万人を越えた。
これは殺人であるから、いままでの話とはまったく違う。

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2008年6月25日水曜日

長々と失礼しました

身の程もわきまえず、家のリフォームなんぞをやったもので、身も心も疲弊して、しかもパソコンまでもリフォーム作業の塵芥にまみれ復旧にやたら手間取り可哀想な思いをさせました。
ようやく本日復旧をしたもののわがほうがへろへろ状態でいるものだから、どうなるものやら。

とにかく、長々と失礼しました。

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2008年6月9日月曜日

性もまた習い事なり

わたしが性を共にする女は特別な女ではなく、大きな声ではいえないが、美しく小さな女だ。
その女のオッパイがこの二ヶ月ほど前から大きくなってきているのを気づいたのでおまえはだれかと何かしているのかときいたれば、していないという。
さらにきくと、あなたがオッパイを触り始めたからという。
そう言われるとそうで、そういう記憶がある。
そして、そのオッパイを触ることで、かの女はいったりしはじめている。

そういうことに人の人生を感じる人間もいれば、役立たずの説教もする男もいる。
ひとはそのように生きている。

あの女のオッパイが大きくなったのも、オレのいちもつが大きくなったのも生きているそのせいだ。

ひとはそのように生きている。

だから、あなたも遠慮せずに好きな女は抱けばいい。

抱かなければ、わからないこともある。

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2008年6月8日日曜日

禿鷹シリーズを読む


「蘭の肉体」「マルタの鷹」「非合法員」
この三作をときにあげるのは逢坂剛だ。

逢坂氏の代表作はいろいろといわれるが、わたしは禿鷹シリーズを好む。
それは禿富鷹秋という主人公の内面を逢坂がこの全四作からなるシリーズで一度として直接的にのぞかなかったことによる。
それをスタイルという。

このスタイルをもって彼はこの作品を書きとおした。
そしてしばしば彼の内面を直接的ではなく別のやり方でのぞかせた。

作品としての瑕疵はあるが、それがわたしがこの作品を愛するゆえんである。

最終作「禿鷹狩り」においてもそのスタイルは貫かれ最後に彼の内面を彼の愛した女に語らせた。
いいものではないかと思った。

覚書としてここに記しておく。

追記として、この主人公を映像としてだれに演じさせるかと問われたならば、わたしは間髪いれず答える。

「リー・バン・クリーフ」

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ひとは無意味な生き物だ

現代の食は日常食ではないと書いたのはわたしだが、自分の嗜好として趣味として食に特化するのはなんら無意味なものではない。
あるひとは山に、あるひとは写真に、あるひとはボクシングに、あるひとは詩に、…そのように人は生きているのではないかとわたしは思っている。

問題はその嗜好を決めるのが我々自身だということだ。
マスコミに踊らされることなく、社会通念に踊らされることなく、さらに言えば自分自身に踊らされることなく、ひとは選び取り生きていく。
選び取られたものが他者にとって無意味なものであっても、選び取ることは無意味ではないし、選び取ったそのものはあなたにとって無意味ではない。

選び取られたものはきわめて主観的なものであり、他者への説明の必要はない。
たとえその世界での死屍累々の屍となろうとも選び取ったあなたをわたしは支持する。

それゆえわたしはくり返し言う。
マスコミに踊らされるな。
選び取るのはあなたであり、わたしである。

それが、尊厳というものではないか。

そういう意味のことで、いまの食の問題を取り上げたのであって、食に賭けた人々を揶揄するものではない。
そんなことをすれば、わが敬愛する辻静雄さえ否定しなければならないではないか。

時として過激になり、コトバ足らずになるわたしを許してはくれないだろうか。

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2008年6月7日土曜日

浅草彷徨

昨日は浅草旧フランス座に出かけるも札止めで入れず無念。
少し無料件の配布が多すぎるのではないか。

仕方なく、浅草を徘徊し、吉原あたりに突き当たり清涼里や橋本を思い出す。
その後、前から行ってみたかった「ヨシカミ」に入りビーフシチューを食す。
さすがのデミグラソースに納得するもビーフには一過言アリ。
しかしながら、それを克服するには、レシピを代えねばならず、いたし方あるまいとも思う。
(辻嘉一はすでに成し遂げておるなり)

それにつけても日常食と離れた食い物があまりにも多いことを再度確認する。
そこで腹を立てて「王将」の餃子定食を食し、満足する。
日常食の贅沢は、この餃子定食が適当で、それ以上の寿司や洋食やはたまたフランス料理は食事にあらず、あれは娯楽なり。
娯楽はたいていにおいて贅沢なもので、よくよく気をつけねば足をすくわれる。
だとすれば、これは娯楽なりという意識が必要で、その上の贅沢にすべき。
なお、その折に浅草「セキネ」のシュウマイを購入するが、これは日常食なり。

マスコミどもが贅沢品をさも日常食のように取り上げておるが、あれは日常食にあらず、贅沢品なり。
ゆめゆめのせられぬように。

日常の食事は、はなはだ慎ましやかでことはたりる。
それにサプリメントなどを加えれば身体にも問題はなし。
つけ加えておけば、サプリメント抜きの日常食は、いまやはなはだ購入に問題があり、このあたりの購入困難さはいまだ旧著丸元氏の本を読んでおけばご理解可能かと存ずる。

一汁一菜にサプリメント。
時に餃子定食程度のものを食しておけば、食を趣味とせぬ御仁に問題があろうはずはなく、行列などするべからず。

何を勘違いするか、立派ぶる料理人があまたいるが、料理などはこの世の片隅に置けばいいものなり。
わたしは将棋を好むものだが、将棋指しのなかに自分の存在がこの世に意味があると思うものはなく、あえてあげれば米長くらいのものであり、昨日戦いし羽生、森内もまた自分がこの世に何の益もなさぬただの趣味人であるということを知悉しておるはずである。

まことにマスコミなぞはうるさいもので、嘘ばかりついておる。
というよりはなんらの思考のかけらもなく言説を吐く間抜けなり。

浅草彷徨のたどるわが感想も無益なことは承知なれど、ここに書きとどめおくなり。

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2008年6月6日金曜日

煙くとものちに寝やすき蚊遣りかな

うつ病とは言うものの、わたしはその症状の重いときには眠ってばかりだから、もう少し詳しく書けば、寝たり起きたりで、夢なるものをこれでもかと見続けている。
したがって、かなり状況がよくならなければ、睡眠不足の状況になることはない。

この時期の夢のいくつかは書き留めておけばよいもののあまり書き留めたくないようないやな気分にするものが多くサボっておいてばかりいるのだが…。

それが、この前一瞬だけ息子が登場して、黄色い衣装に頭にも黄色い被り物、ごしごしとトイレ掃除をしているではないか。

「ああ、君はトイレ掃除をしているのか?」
「そうだよ」

それだけの会話だが、その情景といい、受け答えといい、さわやかさの極致であった。
だからこそ、おれがこいつのためになら死んでもいいのだと思うのだなと、起きてからもしばらく感じ入ったものだ。
いい若者は、だれであっても気分はいい。

そういう夢があったことをここに記しておきたい。

その後にあの情景や雰囲気を何とか書けないものかと思うとき、「戦後詩を滅ぼすために」城戸朱理の本を思い出した。
ずいぶん厄介な本だと思い読んでいるのだが、あのなかにこの世界を書き込むヒントがあるのだろうなと思ったものだ。

このところ、本といわれるものを読んでいない。
悪いが、わたしにエンターテインメントを書く意向がないものだから、あの種の本を読むときに暇つぶしの気がしてならない。(暇つぶしとは言うものの上質な暇つぶしは何よりも勝るのだが…)
というわけで、ずいぶんエンターテインメント以外を読んでいない自分を反省する。

そのなかで最近いつもかばんに入れているのは「銀の匙」です。
この作品のよさは最近にわかった。
この本のある一節に登場するエロティシズムは、そん所そこらの本では太刀打ちできない。

だからといって、あなたが読んでなるほどというかどうかはわからない。

本もまたあなたを要求するからね。(いつもいうけど)

ついでに書けば、もうひとつ持ち歩くのは「密会」(ウィリアム・トレヴァー)。
これまた絶品。
いい本はあるが、愉快であるかどうかは別物というところか。

久しぶりに本のことを書いてみた。

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2008年6月5日木曜日

おまえの目はもう感じはしないのか

虎ノ門病院などに何度も何度も出かけていると、やれアルデストロンだ、クレアチンだ、尿淡白だとかいいくさって、今日は副腎明日は腎臓to担当医を変えてくる。
悪いが俺はおまえたちのために病院をうろうろしているのではない。

言ってしまえば助かりたくもなく、生きている間は、愉快にしたいと思っているだけだ。

「生きるためにだけ生きているなんぞごめんだからな」

かくいうわけで、クレアチンと尿淡白の数字がめでたく上がったため、今度は腎センターに回される。
そんなに健康はいらないのだ。
もうそろそろ潮時だと思って、今度の腎センターの医者には発言する準備はある。

酒も女も煙草もやめて百まで生きた馬鹿もいる

などという都都逸は、味わうに値する。
あのころ長生きは美徳ではなかったのだ。

しかも俺の身体のなかにはセロトニンがゴロンゴロンしてやがって、すっかりうつ病で、今日は今日とて家のリフォームの準備で消え入りそうだぜ。

その割には、兄さん威勢がいいな、というのはこれは内緒だが、少しの活動で鬱気が失せてその上レキソタンをがぶがぶと嚥下したせいなのである。

いいかね、調子よさそうに見えたら調子よさそうでいいではないか。
そのうえで、あいつ死んだらしいぜ。
そうか、死んだのか。
これがいいのではないか。

マサイマラのほうで獣医をしている女がいて話していたのだが、
「あの人、一昨日ゾウに踏まれて死んだらしいよ」
って話をしてもさ、だれも驚かないの。
「ふーん、そうか」ってだけ。

その後のこの状況に対する彼女の反応はあまり興味はないが、そういう世界が今もこの母なる大地の上にあって、我々もまたその大地の子で、たかだか西洋医学の数値に右往左往させられるのではなく、

「あいつ、この前死んだらしいよ」
「ふーん」

でも生きていけることを知ってほしい。

もちろん、ほれた女との間でそういうことが可能かどうかは、また別の問題だけどさ。

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2008年6月4日水曜日

雪崩


数日間、嫉妬のなかにいた。
それも超弩級のやつだ。
久しく嫉妬などというものに縁のなかったものだから、こいつには困った。

あのジェラシーというものは本格的になればなるほど雪崩のように襲ってくる。
したがってこざ賢い理屈など瞬く間に飲み込まれてしまう。
後はサバイバルナイフを後生大事に抱え込んで、ひたすら雪面に顔を出す努力をする。

このジェラシー、一度目はわが劣情からでたもので、こんな程度でと馬鹿にしていたら、地響きのようなものが迫りきてあっという間に巻き込まれてしまった。
こうなれば、あとは過ぎ去るのを待つのが処世のおきてで、つらつら理屈を考え出そうなどしたら、さらに泥沼に入っていく。

さらに悪いことに、いや結果としてはそれで救われたのだが次にもうひとつのジェラシーが襲ってきて、こいつの出所は女性であった。
いま思い返すとこちらのほうは幾分規模が小さくて、通り過ぎるのにあまり長い時間はかからなかった。
といっても二三日はかかったんだぜ。

というわけで、ブログを書くこともなく、サバイバルナイフ(=酒とクスリの二本立て)を必死に握り締めて過ごしてきたのだ。

そのときに雪崩だとか激流のごときものが、人の身体には走っていて、そいつが噴出した際には、ただただ耐えるしかないのだと感じた。
ここで嫉妬にしぼって考えれば、喜怒哀楽で言えばおそらく怒に属するものなのだろうが、そこには哀の要素もあるし、形はいびつになるのだろうが、喜びや楽しみもわずかに変形してある。
それはよくよく眺めて見なければならない要素だが、冷たい雪の中に潜みながらそんなことまで考えてしまったよ。
劣情から始まったジェラシーはーそんなところまでオレを流し、見知らぬ場所として顔を出した先に真白い景色を見せていた。
その後に襲い来た女の嫉妬はそれとはだいぶ違ったものではあったが、それでもはっきりと女のなかに起こる雪崩をオレはしっかりと眼の端で捕らえていたのだ。

助かりはしたし、その意味で十分よかったのだが、自分の人生を自分の感情に翻弄されるというのは、いやなものではあったなあ。
人のココロのうちにも雪崩があることを知ったよ。

そいつは思っているよりずっと恐ろしいもので、会わないに越したことはない。

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