2008年6月28日土曜日

わたしの哀しみ

わたしの哀しみや、わたしの苦しみ、わたしのせつなさは、はっきり言ってしまうが、これは間違いなくわたし個人のものだ。
わたしより哀しい人や苦しい人やせつない人がいたとしても何も変わらない。
それはそれぞれが哀しみや苦しみやせつなさをもっているだけのことだ。

ときとしてわけ知り顔に

「あなただけが苦しいんじゃないんだよ」とか
「あたしだって哀しいんだよ」とか
「イラクの子供たちのことを知っているの」とか

言うひとはいるが、それは個別の問題で、わたしの問題のそばに並べる問題ではない。
それぞれが問題としてそこに存在するのだ。

その手法を確か「弱め」とか言うのだが、つまり否定するのではなくあなたの言っていることはたいしたことではないと「弱め」ているという意味で…。

そこにわたしの哀しみへの解決法はない。
というよりあなたにしてもわたしにしてもこの種の感情的な問題の解決に論理的な方法はない。

おそらくあるとすればわたしに、あるいはあなたに寄り添うしかない。
つまりおそろしくわがままな悩みなのだ。

そのわがままな悩みを先ほどのように論理的に解決しようとする人間に対しては耳を貸さないことだ。
なぜなら、一見、論理的には誤っていないからだ。
しかし、あなたの問題とそのほかの人の問題を比較する根拠はどこにもない。
比較するには、ある種の同じ土台が必要で、まったくもって同じ問題をもっているなら、比較可能なのかもしれないが、(実はそれでも比較してはならないとわたしは思っている)それを比較するのは、強引な特殊な心性の持ち主のやり方だ。

あなたの問題はあなたの問題で、それはだれがなんと言おうと、とてもつらい問題で、過ぎ去るのを待つしかない。
その過ぎ去るのを待つ間、少し離れてあなたやわたしをみていてくれる人、これだけが我々の信じていい人なのだ。
彼らは言う。

「あなたがいないと困る」
そういう解決策しかない。

「あなただけが苦しいんじゃないんだよ」
「あたしだって哀しいんだよ」
馬鹿なことを何も考えずに語り、人を傷つけるものではない。
それでなくてもこちらは十分に傷ついているのだ。

「キミの作品を読めないとつらいのだよ」
語るなら、こんなコトバだろう。

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