2008年6月26日木曜日

新宿最底辺

わたしが、ここ十日あまり徘徊した新宿最底辺に渦巻いていたのは、「私」であった。
それは、「わたし」であり、「おれ」であり、「あたい」であり、つまりは「おまえ」ではなく「私」なのであった。
その世界では、「おまえ」の持つものには何の意味もなくひたすらふんだくろうとする企み、多くは憎しみの充満した企みに満ちていた。
なかには、ある種の好意を含んだ「私」を持つものもいたが、それはこの新宿底辺の世界では下等なものとして位置している。

だが、このことは蔑むことではなくとうとう我々がそういう存在になったということだけだ。

この状況は生殺与奪や弱肉強食や生き馬の目を抜くといったコトバが似合うが、よくよく見ていくとそれだけではない。

このような世界から少しでもはなれたところに住む住人がいるが、彼らは、庭師だったり、農業だったり、はし作りだったりに従事していて、少なくとも自分とは離れた造形とでも呼ぶべきものにかかわっている。
それが、この話の構造だが、それからの話は長く遠い。

あるものが自分ではない造形にかかわり、次第に自分から離れていこうとしていることを語っているに過ぎない。
自分を追っていく先に何が待っているかはおおよそ見当がつこう。

しかしながら自分ではない何か別の造形を目指した人間がどうなるのかはわかりにくいところだ。
それにそういった造形を追う作業のうちで自分とどうかかわっているかも複雑だ。

新宿最底辺に住んでいる輩から学ぶべきことは多く、むしりとられることも多い。
わたしはかの場所に行くことを決してお勧めしないが、だからといってかの場所を毛嫌いしているわけでもない。

新宿最底辺には「私」が渦巻いているというお話だ。

ラベル:

0 件のコメント:

コメントを投稿

登録 コメントの投稿 [Atom]

<< ホーム