2008年6月5日木曜日

おまえの目はもう感じはしないのか

虎ノ門病院などに何度も何度も出かけていると、やれアルデストロンだ、クレアチンだ、尿淡白だとかいいくさって、今日は副腎明日は腎臓to担当医を変えてくる。
悪いが俺はおまえたちのために病院をうろうろしているのではない。

言ってしまえば助かりたくもなく、生きている間は、愉快にしたいと思っているだけだ。

「生きるためにだけ生きているなんぞごめんだからな」

かくいうわけで、クレアチンと尿淡白の数字がめでたく上がったため、今度は腎センターに回される。
そんなに健康はいらないのだ。
もうそろそろ潮時だと思って、今度の腎センターの医者には発言する準備はある。

酒も女も煙草もやめて百まで生きた馬鹿もいる

などという都都逸は、味わうに値する。
あのころ長生きは美徳ではなかったのだ。

しかも俺の身体のなかにはセロトニンがゴロンゴロンしてやがって、すっかりうつ病で、今日は今日とて家のリフォームの準備で消え入りそうだぜ。

その割には、兄さん威勢がいいな、というのはこれは内緒だが、少しの活動で鬱気が失せてその上レキソタンをがぶがぶと嚥下したせいなのである。

いいかね、調子よさそうに見えたら調子よさそうでいいではないか。
そのうえで、あいつ死んだらしいぜ。
そうか、死んだのか。
これがいいのではないか。

マサイマラのほうで獣医をしている女がいて話していたのだが、
「あの人、一昨日ゾウに踏まれて死んだらしいよ」
って話をしてもさ、だれも驚かないの。
「ふーん、そうか」ってだけ。

その後のこの状況に対する彼女の反応はあまり興味はないが、そういう世界が今もこの母なる大地の上にあって、我々もまたその大地の子で、たかだか西洋医学の数値に右往左往させられるのではなく、

「あいつ、この前死んだらしいよ」
「ふーん」

でも生きていけることを知ってほしい。

もちろん、ほれた女との間でそういうことが可能かどうかは、また別の問題だけどさ。

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