2008年5月27日火曜日

わたしは死ぬ…

ミャンマーにも少しずつ援助が入りだしている報道があり、他人事ながらよくなりつつあることをうれしく思う。
それにしても被災地というのは悲惨なもので、ビルマもそうだが,中国の映像を見るにつけてもたまらないところがある。(中国には回族の問題もあるし大変だ。救援物資でも豚肉だめなんでしょ)
いやいや、この日本にもそういう災害があった。

戦地の映像はこの国ではあまり流さないが、それでも時々流れる戦争の悲惨さを見るにつけて、いたたまれない。(今日は橋田さんの命日だからな)
ひとは幸せでありたい。

その幸せとは、わたしの毎度の主張となるが、愉快な食卓を囲むということに象徴される。
もちろん、その食卓は家庭でなくてもいいのだよ。

ひとは生きていてほしいが、それは長生きしてほしいということではない。
長生きが美徳であると安直に考えるなら問題はないが、長生きは美徳ではない。

「長生きを美徳とした時代があった」

長生きについて何も我々は考えてこなかった。
だって、長生きしてもわまりのひとは困らなかったから。(高度成長期は)
いまは違う。

長生きは美徳ではないと、はっきりといい始めるはず。(すでに思っているぞ、あいつらは)
では、ひとはいつ死ねばいい。

これは大きな話だ。

わたしに限って言えば、もういいかなと思っている。
わたしが死んで息子が幸せになるなら、さしあげていい命のようにも思う。

話が危なっかしくなってきたからまた書くけど、ほんとに、
「長生きは美徳でなくなり始めている」
問題は、ひとはどうやって死んだらいいかを、あいつらに決めさせないことだ。
ひどいことになるぞ。

この問題は多くのことを含んでいて、核家族もそのひとつで、その核家族の前の大家族に楢山節考があった。
あのころひとは、何を考えていたのかは、家父長制からだけでは見えてこない。

大きな論陣を誰かに張ってほしい。

フォークロアの分野にもかかわると思うけど、人間はどのように死んだらいいか、なんていう話は潮流にならないんだな。
ひとは、人をどうやって殺すか、なんていうのは盛り上がる。

マイナス要素、あるいは定常状態に向かう議論は潮流とならないからとても大変だ。
だから、あの人たちは黙って、我々を死に追いやろうとしている。

おわかりと思いますが、すでに彼らは長生きが美徳だなんて思っていませんからね。
そのひとたちに、年寄りを敬えなどという議論は効果ありません。

そして、語弊を込めて言えば、敬うに耐える老人はそれほど多くはいないのですよ。
単に年を取っただけで敬えなどというのはたわ言なのです。
(核家族の話ですよ。大家族やムラ制度にはあった。悪いところもいっぱいあったけど)

とにかく、この時代、すでに年寄りは邪魔になり始めている事実に気づき、彼らが手を打ってくる前に(彼らって為政者ですよ)、みんなで考えましょう。

わたしより心ある若者に期待いたします。

キミたちのためにわたしは死んでいこう。(かっこいいかな)

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