たわいないようではあるが
たわいないようではあるが、自分の身の回りを片付けておくというのは意外にその精神までジワジワと影響を及ぼしてきたりする。
ひとというものは荒れることがあるもので、というか、あらぶる何者かを自分のなかに巣食わせているひとがこの世にいるわけで、その巣食わせているものが何ものかによって、いろいろと違う事情や時によってはひどいことになったりする。
宮部みゆき「名もなき毒」はそのあたりのことを書いているので、彼女はその何ものかを「名もなき毒」と名づけたのだが、こいつがどうしようもない代物で、しかもいろいろとこの作品では悪さをする。
悪さも身のうちに収まっていればそれでいいのだが、そいつが表に出れば争いごとや果ては犯罪につながったりもする。
この場合「名もなき」と形容したところが彼女の卓抜したところで、暗に「言語論的転向」の問題にも触れている。
そして、話が重層的になり膨らみをもたせるべく人物を配剤し、事件もまた配剤する。
このあたりの手際は当代きってといっていいほどたくみなもので、また平均点以上の作品になっている。
わたしの例の口吻でいえば、時間があれば読んでみてもいい本ではなかろうか。
さて、そういうわけで小物ではあるが、身のうちにあらぶるものを持つものの一人として、荒んだ生活をすることが時おりあり、その後始末は身の回りの整理からという具合になっている。
長く生きていれば処世知もつくというもので、あらぶるものに直接相対するのではなく、とりあえず自分の動きやすいように周りを片付ける。
片付けるといっても誰かに見せるわけにする整理ではないのだから、自分が動きやすいようにするだけだが、それでも美しい部屋の様相になっていくのは生来のきれい好きか。
わたしも長い間それに気づいていなかったのだが、意外にきれい好きなところがわたしにはあって、ほうほうと感心したりしている。
しかしそれと同時に十二分なる不精も持ち合わせているものだから、外から眺めている分にはわたしのきれい好きはとんとわからない。
そのようにして、少し荒れていた生活を戻すべくすこしだけ片づけをしたわたしは、こうしてブログを書いているのだが、おわかりのようにブログにも片付け作用のようなものがあって、妙に落ち着かせてくれたりする。
もう少し微妙に書けば、書くことにより落ち着き、書くことにより自分の心の揺らぎを知るということだ。
関係ないことを少し書けば、わたしにひとりの大切な知人がいるが、かれに部屋の整理を是非勧めたい。
どのくらいの効果があるかわからないが、妙な人の意見を聞くより一人本の整理などしているほうがどれほどか自分をゆるりとさせてくれる。
そういうときには、いっぱいのお茶をちょっとした器に入れて呑みたいものだ。
こんなときだろう、平和国日本にいる特権をしみじみ思ってみたりするのは。
いくら呆けているといわれていても、やはり平和はいいものだ。
ひとというものは荒れることがあるもので、というか、あらぶる何者かを自分のなかに巣食わせているひとがこの世にいるわけで、その巣食わせているものが何ものかによって、いろいろと違う事情や時によってはひどいことになったりする。
宮部みゆき「名もなき毒」はそのあたりのことを書いているので、彼女はその何ものかを「名もなき毒」と名づけたのだが、こいつがどうしようもない代物で、しかもいろいろとこの作品では悪さをする。
悪さも身のうちに収まっていればそれでいいのだが、そいつが表に出れば争いごとや果ては犯罪につながったりもする。
この場合「名もなき」と形容したところが彼女の卓抜したところで、暗に「言語論的転向」の問題にも触れている。
そして、話が重層的になり膨らみをもたせるべく人物を配剤し、事件もまた配剤する。
このあたりの手際は当代きってといっていいほどたくみなもので、また平均点以上の作品になっている。
わたしの例の口吻でいえば、時間があれば読んでみてもいい本ではなかろうか。
さて、そういうわけで小物ではあるが、身のうちにあらぶるものを持つものの一人として、荒んだ生活をすることが時おりあり、その後始末は身の回りの整理からという具合になっている。
長く生きていれば処世知もつくというもので、あらぶるものに直接相対するのではなく、とりあえず自分の動きやすいように周りを片付ける。
片付けるといっても誰かに見せるわけにする整理ではないのだから、自分が動きやすいようにするだけだが、それでも美しい部屋の様相になっていくのは生来のきれい好きか。
わたしも長い間それに気づいていなかったのだが、意外にきれい好きなところがわたしにはあって、ほうほうと感心したりしている。
しかしそれと同時に十二分なる不精も持ち合わせているものだから、外から眺めている分にはわたしのきれい好きはとんとわからない。
そのようにして、少し荒れていた生活を戻すべくすこしだけ片づけをしたわたしは、こうしてブログを書いているのだが、おわかりのようにブログにも片付け作用のようなものがあって、妙に落ち着かせてくれたりする。
もう少し微妙に書けば、書くことにより落ち着き、書くことにより自分の心の揺らぎを知るということだ。
関係ないことを少し書けば、わたしにひとりの大切な知人がいるが、かれに部屋の整理を是非勧めたい。
どのくらいの効果があるかわからないが、妙な人の意見を聞くより一人本の整理などしているほうがどれほどか自分をゆるりとさせてくれる。
そういうときには、いっぱいのお茶をちょっとした器に入れて呑みたいものだ。
こんなときだろう、平和国日本にいる特権をしみじみ思ってみたりするのは。
いくら呆けているといわれていても、やはり平和はいいものだ。
ラベル: 日常
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