2008年5月11日日曜日

後期高齢者医療制度


「後期高齢者」という呼び方が気に入らないとあちこちで耳にするが、「そうかぁ」と思っている。
それならば「ハイティーン」や「ロウティーン」はいかがだろう。
あれは若者に対しての呼称だからとおっしゃるのなら問題の中心は「後期」ではなく「高齢」だろう。
「高齢者」に「後期」まで付けるとはという怒りならわかるが、それでも賛同はしない。
「後期十代」や「前期十代」に問題がないのなら、「後期高齢者」と呼ぼうが、なんと呼ぼうがどうでもいいことだろう。
瑣末なことだ。

では、「後期高齢者医療制度」はどうかと問われれば、政府の考えそうなことで、まあ妥当なところだろうと答える。
それでは、年寄りがかわいそうではないかとおっしゃるなら、それはその通りでお年寄りとは、もともとかわいそうなもので、「楢山節考」一冊で、そのことはよくわかるだろう。

基本的にはひとは年を取れば死ぬのだが、それが現代医学がそうはさせなくしている。
「後期高齢者医療制度」を現代の姥捨て山で、どうしたこうしたという議論をするが、「姥捨て山」の思想はあなた方の思っているような単純で非情なものではない。

そのように「姥捨て山」を安直に考えてきたツケが今来ているのではないか。
そう考えればいい。

問題は、年を取っても死ねない老人はどうしたらいいかということで、これが焦点だ。
死ねない老人をいかに処理するか?

後期高齢者の問題は、この問いをはずしては議論できない。

ところでここまで触れないできたが「老人」とは何ものか。
それは「後期高齢者」という名称にちょっとした秘密がある。

さらりと書けば、政府にとっては75歳以上の年寄りは数にしか過ぎない。
「78歳の女性1人」というところか。
しかしながら、こちら側から見ればその女性は母であるかもしれないし、祖母であるかもしれないし、三味線の師匠であるかもしれない。
我々の側からのすぐれて具体的な人間が、向こうからは老人ひとりにしか見えない。(いや、老人という認識さえもないかもしれない)
ここをしっかりと区別しておかなければものは見えてこない。

政府はあなたのお母さんを大切にしようなどとは考えていない。
その老人が何者かどうかなど興味はないのだ。
曰く、老人一人。
従っての「後期高齢者」なのである。

「後期高齢者」はきわめて適切な命名で、この命名に難癖をつける愚かさは、かなり恥ずかしい。
批判したいなら(その批判が有効であるかどうかは別にして)、「後期高齢者」というくくりの中で数としてしか老人をとらえていないその政府のあり様にある。
(個人的には政府とはそのようなものだとわたしは思っている)

さて、こちら側から見れば個々の顔を持つ老人たちを政府は数として処理している。
この医療制度が施行されたとき山形県で母子の自殺があった。
この制度によって今後の生活が無理だと判断した息子が認知症の母親をくびり殺し、その後自分は納屋で首をくくった。
この話にはこちらから見ればいくつものドラマがあるが、あちら側から見れば後期高齢者の数が「1」減ったに過ぎない。

残念ながらこの国では年寄りが増えすぎて打つ手がなくなってきているのだ。
さらにカメラをずっと引けば、この星は人の数が増えすぎてすべての人口を養えなくなってきている。
そこへ食料への投機だとか食料の戦略物資化だとかバイオエタノールだとが複雑にからみあってきているだけで、中心には人の数の問題がある。(地球規模で見れば、人口爆発はすでに「爆発」ともいえないほど日常化されている)

この数を御しきれなくなっているとき、御そうとする連中は何を考えるか。
そのヒントが「後期高齢者」という命名にあり、「後期高齢者医療制度」という制度にある。

地球規模でもいろいろなことが起こり、サイクロンという非情な自然現象が我がビルマを襲い、軍事政権は救援物資(なかでも食料)をまわそうともしない。
何という奴らだという前に、やつらはもともとそういう組織だと知っておいたほうがいい。
個々の顔など見てはいないのだ。
彼らは人を数としてしか把握しないから、そいつらが(=われわれが)どうなろうとあまり気にはしない。
われわれが選挙と連動するときにわずかに気になるらしい。
(ビルマではその選挙のために民を見殺しにしている。そしてわたしはといえば、平和な日曜を何事もなかったように終えようとしている。クソ喰らえだ!)

彼らはそれ以外は気にしないのかと思うとき、「テロ」というものの意味も見えてくるだろう。
わたしは「テロ」を支持しないが、その気分は十二分にわかる。

少し語りすぎたようです。
日曜の夜です。
聞き流しておいてください。

最後に、口直しといってはなんだが、わたしはいま、いつまで続くかわからないが、手嶌葵という唄歌いを贔屓にしている。
彼女のあまり美しくないところも、とても気に入っている。

透明な緑や赤はあるが、透明な白はないことをご存知か。

商業主義などに振り回されず、彼女の歌がそのまま透明な白になってくれることを密かに願っている。

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