眠ることこそが大切だ
「眠ること」こそが精神身体リフレッシュの王者と言っていい場所にあるというのがわたしの思いなのであるが、精神の不安定を理由としてここしばらく睡眠を極端にとっていた。
「いいご身分ね」
とどこかのご夫人に言われそうなのだが、まことに御指摘のとおりいい身分なのであって、反論の余地はない。
どうしてこんなにいい御身分かと言うと、心の奥のほうに、それがどの辺りかわたしにも釈然とはしないのだが、わたしのなかに
「ええい、ままよ」
といったところがあり、わたしのまわりには、それにほだされる人がいてくれるからだろうと思う。
だから、いずれ「ええい、ままよ」としなければ、わたしの人生の帳尻は合わないわけで、その覚悟は時々刻々としているわけである。
そのせいの精神の不安定さかと言われればまことにそうであると答えるが、別に根っから弱いせいもある。
蒲柳の質というが、あれの精神版と思っていただきたい。
どこか人より多く精神を酷使するところがあり、精神版蒲柳の質はその結果のことだと思っているが、それにさらに加えて精神をいじめるものだから、クスリやアルコールのお世話になる。
にもかかわらず、このような安穏な生活空間にいまだいられるのは、一重にすぐれた奥さんのおかげで、なんともやりきれない思いだ。
このやりきれない思いは最近崩壊した家庭の話を思い出したためのことだが、その家庭がそのまま完全に崩壊していくかどうかはわからない。
が、立て直すには家族の構成員が、ずいぶんと強くあらねばならないのは条件で、この条件を満たすのは難しかろうというわけだ。
だいたい何かが時系列にそって壊れていくというのはきわめて自然なので、壊れゆくものに対してあまり自分の非は責めなければいいと思う。
とはいっても、壊れていく姿を眺めているのも辛くそしてまた美しくない作業だから、そのように美しくなくした因を探そうとしてしまうが、これだとアリ地獄へ入っていってしまう。
むかしからこういう場合は、対処法は決まっていて、新たなる関係性を見つけ出し、その関係性を育てるほうに自分を向けるのが一番いいことになっている。
目の前のコップは壊せばなくなるが…と書いたことがあったが、ほれた女を消す極意ももちろんあって、その女以上に別の女にほれればいいのである。
ここは大切なところで、
「その女」より「以上の女」ではないところがポイントだ。
「その女にほれる」より「以上に別の女にほれる」ことをすればいいと書いている。
「その女」以下の女であっても「その女以上にほれればいいのだ」
で、わりとそういうことはできる。
なぜなら、自分は自分を洗脳できるからだ。
「自分こそが自分を洗脳する」というのも大きな話なので項を改めるが、この「自己に対する自己の洗脳性」をもって別の女にほれればいい。
そのとき、可能であれば「洗脳をある程度抑制できれば」、どちらの女も捨て去ることはできる。
かようにしてコップのように女も捨てられるというものだ。
では、思想はどうかとなると、こいつはさらに複雑だ。
信頼する思想家に学んだほうが早そうだ。
穂村弘あたりが人生の経験地についてよく述べているが、単純化すれば人生の経験値を上げるためには、失敗するに限る。その失敗の後に何かを学べば経験値は上がるという仕組みになっている。
「マチガイからの学習」と言おうか、これが人生の経験値を益す仕組みで、そのことでごちゃごちゃ言っている人間の多くは、「学習」に焦点を当てて論説することが多い。
しかし、ポイントは「マチガイ」のほうにあり、ひとは「マチガイ」をすることで進んでいく。
そして問題は、ただ「マチガイ」を重ねるだけではなく、そこから何かをくみ出さねばならない。
そしてさらに指摘しておかなければならないことは、「そのマチガイが致命的であってはならない」と言うことだ。
異性とのの経験値をあげるために「マチガイ」を積み上げるのは悪くはないが、致命的な打撃を与えそうな相手には近づかないことだ。
人生でも同じことだし、夫婦関係でも同じだ。
「致命的なマチガイ」を犯した場合は早急に撤退するに限る。
しかしながら致命的なマチガイをした当事者はそれが致命的だとは思わぬことが多く、修復可能だと考える。
おわかりのように修復可能だとして努力する過程は「マチガイから学習」する過程とはまるで非なるもので、そこから這い上がってくるのは稀有また稀有である。
万が一上がってきたその結果それがどういう人になっていくかは、ときどき小説の中に登場してくる。
思い出さないだろうか、あの女には構うな、あの男には構うなといった人物を。
長々と書いたが、いつもどおり支離滅裂であったワイ。
少々哀しく思いますが、許していただきたい。
「いいご身分ね」
とどこかのご夫人に言われそうなのだが、まことに御指摘のとおりいい身分なのであって、反論の余地はない。
どうしてこんなにいい御身分かと言うと、心の奥のほうに、それがどの辺りかわたしにも釈然とはしないのだが、わたしのなかに
「ええい、ままよ」
といったところがあり、わたしのまわりには、それにほだされる人がいてくれるからだろうと思う。
だから、いずれ「ええい、ままよ」としなければ、わたしの人生の帳尻は合わないわけで、その覚悟は時々刻々としているわけである。
そのせいの精神の不安定さかと言われればまことにそうであると答えるが、別に根っから弱いせいもある。
蒲柳の質というが、あれの精神版と思っていただきたい。
どこか人より多く精神を酷使するところがあり、精神版蒲柳の質はその結果のことだと思っているが、それにさらに加えて精神をいじめるものだから、クスリやアルコールのお世話になる。
にもかかわらず、このような安穏な生活空間にいまだいられるのは、一重にすぐれた奥さんのおかげで、なんともやりきれない思いだ。
このやりきれない思いは最近崩壊した家庭の話を思い出したためのことだが、その家庭がそのまま完全に崩壊していくかどうかはわからない。
が、立て直すには家族の構成員が、ずいぶんと強くあらねばならないのは条件で、この条件を満たすのは難しかろうというわけだ。
だいたい何かが時系列にそって壊れていくというのはきわめて自然なので、壊れゆくものに対してあまり自分の非は責めなければいいと思う。
とはいっても、壊れていく姿を眺めているのも辛くそしてまた美しくない作業だから、そのように美しくなくした因を探そうとしてしまうが、これだとアリ地獄へ入っていってしまう。
むかしからこういう場合は、対処法は決まっていて、新たなる関係性を見つけ出し、その関係性を育てるほうに自分を向けるのが一番いいことになっている。
目の前のコップは壊せばなくなるが…と書いたことがあったが、ほれた女を消す極意ももちろんあって、その女以上に別の女にほれればいいのである。
ここは大切なところで、
「その女」より「以上の女」ではないところがポイントだ。
「その女にほれる」より「以上に別の女にほれる」ことをすればいいと書いている。
「その女」以下の女であっても「その女以上にほれればいいのだ」
で、わりとそういうことはできる。
なぜなら、自分は自分を洗脳できるからだ。
「自分こそが自分を洗脳する」というのも大きな話なので項を改めるが、この「自己に対する自己の洗脳性」をもって別の女にほれればいい。
そのとき、可能であれば「洗脳をある程度抑制できれば」、どちらの女も捨て去ることはできる。
かようにしてコップのように女も捨てられるというものだ。
では、思想はどうかとなると、こいつはさらに複雑だ。
信頼する思想家に学んだほうが早そうだ。
穂村弘あたりが人生の経験地についてよく述べているが、単純化すれば人生の経験値を上げるためには、失敗するに限る。その失敗の後に何かを学べば経験値は上がるという仕組みになっている。
「マチガイからの学習」と言おうか、これが人生の経験値を益す仕組みで、そのことでごちゃごちゃ言っている人間の多くは、「学習」に焦点を当てて論説することが多い。
しかし、ポイントは「マチガイ」のほうにあり、ひとは「マチガイ」をすることで進んでいく。
そして問題は、ただ「マチガイ」を重ねるだけではなく、そこから何かをくみ出さねばならない。
そしてさらに指摘しておかなければならないことは、「そのマチガイが致命的であってはならない」と言うことだ。
異性とのの経験値をあげるために「マチガイ」を積み上げるのは悪くはないが、致命的な打撃を与えそうな相手には近づかないことだ。
人生でも同じことだし、夫婦関係でも同じだ。
「致命的なマチガイ」を犯した場合は早急に撤退するに限る。
しかしながら致命的なマチガイをした当事者はそれが致命的だとは思わぬことが多く、修復可能だと考える。
おわかりのように修復可能だとして努力する過程は「マチガイから学習」する過程とはまるで非なるもので、そこから這い上がってくるのは稀有また稀有である。
万が一上がってきたその結果それがどういう人になっていくかは、ときどき小説の中に登場してくる。
思い出さないだろうか、あの女には構うな、あの男には構うなといった人物を。
長々と書いたが、いつもどおり支離滅裂であったワイ。
少々哀しく思いますが、許していただきたい。
ラベル: 日常 考察
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