2008年5月2日金曜日

日本画を観る




知人に誘われて東京国立美術館へ行く。
はじめての日本画、東山魁夷展にでかけたのだ。
わたしは、絵画展にはわりと足を運ぶのだが、考えてみればこの日(5月1日)が日本画の展覧会を観る初めてであった。

そして、素直に恐れ入った。

ピカソもダリもシャガールもムンクもモディリアーニ…も、なるほどとは思ったが恐れ入りはしなかった。
経験値のない人間は、いかにすばらしくとも「そのものがいかなるものか」それが見えてこないのだ。
わたしは絵画に対する経験値の低い男である。
それをかねがね残念に思っていたのだが、わたしのなかに東山魁夷はすっと入ってきてくれた。(そしてわたし流にわかっていった)
それをしっかりとコトバにするところまではいかないが、以下のようなことを感じた。
ここでは、その感じたことを端的に記して終わりにさせていただきたい。

絵画を前にしてくどくどと説明をしても何の意味もない。
絵画は観るものに決まっている。
それをコトバで語っていくのは長い道のりとなる。
そのことは会場に掲げられた説明を見てもはっきり思った。

そのそばに東山魁夷の絵画があるのに何と醜悪な文字が並んでいるのだ。

わたしが感じたことは以下のようなことであるが、それは彼の原画に触れなければ一生わからなかったことだ。
東山魁夷の絵を見続けているうちにわたしはふと思ったのだ。

ああ、このひとは月の光を描こうとしている。
ああ、この人は窓の奥の闇を描こうとしている。
ああ、このひとは瀧の音を描こうとしている。
ああ、このひとは雪の降る音を描こうとしている。
ああ、このひとは木々の上空を吹いている風を描こうとしている。
ああ、このひとは、わたしが描けるはずのないと思っていたものを描こうとしているのだ。

東山魁夷の絵をずっと見つめ続けていると、不意に瀧の音が聞こえ始めたり、細く強く風が吹き始めたり、ぼんやりとした深い霧にまかれたり、およそ絵画を見るということからは離れた、いわば絵画の中に入っていくような感覚に襲われる。

そのように彼の絵画とつきあい続けて、この日わたしはずいぶんと疲れた。
疲れたのではあるが、何かに出会った確かな気分もあった。

わたしとあなたではもちろん受け取り方は違う。
違っているだろうが、それでも、いまは勧めたい気分だ。

「東山魁夷展」は5月18日まで東京国立近代美術館で開催されている。
出かけてみてはいかがだろうか。
「東山魁夷展」を見た後、「常設展」も見ることができる。
ここにも見知った作品が何点もある。
目の前でそのものを見る醍醐味を教えてくれる。
(東京国立近代美術館所蔵9000点のうち200点あまりが常設展に展示されている。この美術館の展示に対するこだわりはしっかりとしている。見る側の空間を十分に取ろうとしているのだ。悪くない。じつにもって悪くない)

しかし、極度に疲れるだろうことだけはあらかじめ伝えておく必要があるかもしれない。

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