2011年4月15日金曜日

KARA ジェットコースターラブ


KARAの新曲「ジェットコースターラブ」は、完全に日本の聞き手を読み取った結果の曲です。
発信者は、特に人気商売の発信者は受信者の期待に応えようとします。

「ルパン」と比較すればわかります。
「ジェットコースターラブ」は、お子ちゃま用の曲です。

要するに、この国では歌の受信者はお子ちゃまが主体なのです。
よく知らないですが、「2NE1」が、来日しても無理だし、あいつらにお子ちゃま用の歌を歌わせたくないですね、個人的には。

ガキの国です、この国は、東電も政治家もマスコミもみんな含めて。

嗚呼!

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2011年4月8日金曜日

死の島



日本は、死の島になってしまうのでしょうか?

わたしは、絵画も小説も、『死の島』に親しんできたのですが、
現実のこの国が、そうなってしまうのは、
しんどいです。

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2011年3月30日水曜日

娘は「泣く女」が好きだと言った




昨日、話した来春六年生になる女の子は、図画工作が好きだと言うので、
話を続けてみると、
彼女がピカソが好きで、「泣く女」が好きだとわかった。

ご存知のようにピカソの「泣く女」には、とてもたくさんのものがあります。
「ゲルニカ」にも入っていましたよね。

だが、そんなことはどうでもよく、来春、小学校六年生になる娘とそんな話ができたことが幸せでした。

彼女たち(彼女は美人姉妹の姉の方です)のような若い人に幸せになってもらいたいです。

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2011年3月8日火曜日

娘は奥村土牛が好きと言った…

その、武蔵美の娘は、奥村土牛が好きだといった。

わたしは、よく知らないままうなずいた。

でも、もう、日本画はやめるの、普通の会社に行くの…

何とかしようか、の、ひと言は、わたしの口から漏れいづらなかった。


秋風に たなびく雲の 絶え間より もれ出づる月の 影のさやけさ

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2010年5月13日木曜日

それでも彼はギターを携える

先日、心ある歌手と新宿の片隅のロッテリアで話したが、彼の心にいくつものわだかまりを感じた。
それでもギターを放さないというのが、目の前にある彼の姿なのだろうと思う。
さらに爽やかには、過ぎた願いだろう。
それに、彼はそのわだかまりをあえてわたしに示して見せたのだ、そのことを捉えて語るわたしの方がどうかしている。

ただ少し、彼がまぶしく、そして煙たかったのだ。
この社会が益体もないと改めてしみじみ感じたのだ。

ある詩人のブログに以下のようなことが書きとめてあったものだから、つい彼との語らいを思い出してしまった。


企画展をやるとなると、画商は、画家のホテルを準備しなければならないし、飯も食わせなければならない。
ところが不況でお金が回らなくなったものだから、とある画商、郵便局強盗をやらかしたのだとか。
これが、成功して個展は無事に終わったが、次の企画展のために、また郵便局に強盗に入ったところで、逮捕されてしまったのだという。

「わしは彼を画商の鑑(かがみ)と言っておる」

たしかに、画家のために強盗までするのは偉いが、強盗は強盗である。画商の鑑ではあっても、人間の鑑とは言えないだろう。
「この不況で、銀座の画廊は、もう何人も首を吊ってるし」
さすがに、言葉もない。

ユニクロばかりが売れ、餃子の王将や牛丼に行列ができる時代には、絵も売れないということか。
しかし、それでも絵を画くのが画家というものである。
これは詩人であれ、物書きであれ同じなのだが。

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2010年4月30日金曜日

回復する睡眠時間

昨日と今日はともに二分割ではあるが、4時間の睡眠時間が取れた。
最長連続睡眠は2時間。

連休期間で、さらに回復するだろうか。
とにかく、睡眠剤と酒を遠ざけて日々を過ごすだけだ。

明日は、若い友人に連れられて外苑前の美術館へ行く。
見せたい絵画があるという。
幸せな企画である。

明日を思えば、夢うつつのわたしである。

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2008年7月3日木曜日

愛は極私的なものであるからには


愛から「私」性を除去できればというようなお伽噺を書いたのは、そのお伽噺が必要な人間もいるからである。
しかし、もともと愛とは極私的なものだからただ極私的にそれを貫き通す人間もいる。
そのような愛はたいていは破綻をきたすものだが、家父長制が守ったりもしてきた。
もっとやわらかく言えば、女性が経済的に自立できないことでそのような極私的な愛は守られたりした。
だが、そうではなく、ある特殊な状況下でそのような愛が貫かれると以下のようになる。

冒頭の絵はピカソの「泣く女」シリーズの代表作。
モデルはドラ・マール。
よく泣く女だったそうだ。
その泣く環境を作ったのはピカソだったし、その泣く姿を丹念に眺め作品にしたのもピカソだった。
ピカソは女にとって、俗に言うクズのような男であったが、残念なことに才能があった。
その才能が、彼にそのような愛情関係を再生産させ続けた。

ドラ・マールがピカソに会うのは、彼女が29歳、ピカソは55歳だった。
当時ピカソにはオルガという正妻がいたが、彼女とは別居しており、27歳のマリー・テレーズと同棲していて、彼女が実際的な正妻だった。(マリー・テレーズは彼女が17歳のとき、ピカソ45歳の折に街で引っ掛けており、すでに子どももいた)
ここに加わったのが、ドラ・マールですでに泣く理由はわんさとある。

ついでに書いておけば、オルガと正式に離婚しなかったのは財産分与がいやさにである。(ねえ、しょうもない奴でしょ、でも才能はすごいんだからね、困ったね)

さて、ドラと付き合い始めたピカソはその7年後、62歳のとき22歳の画学生フランソワーズ・ジローと同居を始めている。
その娘に子どもを二人産ませているのだから、やれることはやれたというより、人並みはずれた性力と生命力をもっていた。

その後45歳年下のジャクリーヌを愛人とし、オルガの死後彼女を正妻として迎え入れ、91歳の生涯を終える。

ドラ・マールはどうしたんだと思うでしょ。
出会い時からの6,7年が彼女とピカソの蜜月(?)のようなものだったらしい。

ちなみになおピカソの死後、マリー・テレーズとジャクリーヌ・ロックは自殺している。

これが、なんら加工を加えぬ愛の正体だ。

わたしが書いた「私」の消える愛が、いかに寓話的かおわかりになるでしょう。
そのような愛をわたしはあまり知らないが、そのような愛を目指した男と女は何人か知っている。
残念ながら、作品のなか以外で実際にそのような関係は見たことはないが、せめて作品の中ではその関係の可能性を結実させたいものだと、いま密かに思っている。

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2008年5月2日金曜日

日本画を観る




知人に誘われて東京国立美術館へ行く。
はじめての日本画、東山魁夷展にでかけたのだ。
わたしは、絵画展にはわりと足を運ぶのだが、考えてみればこの日(5月1日)が日本画の展覧会を観る初めてであった。

そして、素直に恐れ入った。

ピカソもダリもシャガールもムンクもモディリアーニ…も、なるほどとは思ったが恐れ入りはしなかった。
経験値のない人間は、いかにすばらしくとも「そのものがいかなるものか」それが見えてこないのだ。
わたしは絵画に対する経験値の低い男である。
それをかねがね残念に思っていたのだが、わたしのなかに東山魁夷はすっと入ってきてくれた。(そしてわたし流にわかっていった)
それをしっかりとコトバにするところまではいかないが、以下のようなことを感じた。
ここでは、その感じたことを端的に記して終わりにさせていただきたい。

絵画を前にしてくどくどと説明をしても何の意味もない。
絵画は観るものに決まっている。
それをコトバで語っていくのは長い道のりとなる。
そのことは会場に掲げられた説明を見てもはっきり思った。

そのそばに東山魁夷の絵画があるのに何と醜悪な文字が並んでいるのだ。

わたしが感じたことは以下のようなことであるが、それは彼の原画に触れなければ一生わからなかったことだ。
東山魁夷の絵を見続けているうちにわたしはふと思ったのだ。

ああ、このひとは月の光を描こうとしている。
ああ、この人は窓の奥の闇を描こうとしている。
ああ、このひとは瀧の音を描こうとしている。
ああ、このひとは雪の降る音を描こうとしている。
ああ、このひとは木々の上空を吹いている風を描こうとしている。
ああ、このひとは、わたしが描けるはずのないと思っていたものを描こうとしているのだ。

東山魁夷の絵をずっと見つめ続けていると、不意に瀧の音が聞こえ始めたり、細く強く風が吹き始めたり、ぼんやりとした深い霧にまかれたり、およそ絵画を見るということからは離れた、いわば絵画の中に入っていくような感覚に襲われる。

そのように彼の絵画とつきあい続けて、この日わたしはずいぶんと疲れた。
疲れたのではあるが、何かに出会った確かな気分もあった。

わたしとあなたではもちろん受け取り方は違う。
違っているだろうが、それでも、いまは勧めたい気分だ。

「東山魁夷展」は5月18日まで東京国立近代美術館で開催されている。
出かけてみてはいかがだろうか。
「東山魁夷展」を見た後、「常設展」も見ることができる。
ここにも見知った作品が何点もある。
目の前でそのものを見る醍醐味を教えてくれる。
(東京国立近代美術館所蔵9000点のうち200点あまりが常設展に展示されている。この美術館の展示に対するこだわりはしっかりとしている。見る側の空間を十分に取ろうとしているのだ。悪くない。じつにもって悪くない)

しかし、極度に疲れるだろうことだけはあらかじめ伝えておく必要があるかもしれない。

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2008年4月22日火曜日

松井冬子を見る




爆笑問題のラジオを聞いた日曜の夜、松井冬子をテレビで見た。
いまはこんな化粧(化生)をしているのかと言うほどきっちりと顔を描き髪をとかしていた。
わたしは短大時代、坊主にしていた彼女の写真を知っていた。

番組のなかでいろいろと彼女もしゃべっていたし、例によってNHKはお子ちゃま相手に詳しく解説をしてくれていた、埒も無い。
しかし、絵のことをいくらしゃべってもたどり着くところは限られている。
それを越えてどこかへ連れて行ってくれるとなると、前田英樹『絵画の二十世紀』(NHKブックス)のレベルになるわけで、そうやすやすとは期待できない。
だから、絵画も音楽も心して語らねば、書かねばならないのだが、そうでない御仁は山ほどいる。

さて、それはそれとして、なかなかに興味深い番組で絵というものが(実は絵に限らないのだが)、いかにテクニックに支えられているのかがよくわかった。
テクニックを磨くというところにしか作品への登り道は開けていない。
とば口にたどり着いて始めて自分の登ろうとする山がわかる。
そのとば口までは技術を磨くことでしかたどり着けない。

あれやこれやと音楽や文学や食い物やスポーツや絵画や…、と線路のようにいつまでも続くのだが、論をぶつ人間は、その時点で屍にすぎない。
とば口へ急ぐ人は、ただ技術を磨いているのだ。
それをしてプロと言う。(という考え方もあるということだ)

番組の最後のほうに上野千鶴子が出てきて、松井冬子と話す、というかインタビューする。
相変わらず、いけ好かない話し方だ。

上野千鶴子はとても相手の気分を害する話し方をする。(というのがわたしの判断で、その在り様はだいぶにましになってきてはいるが、いまだにあるな、とテレビを見ていて思った。
彼女と心地よく話すためにはある程度、彼女を敬愛していなければならないだろうなと思う。
そして幸いなことに、彼女は敬愛されるに足る実力をもっている。
しからば、わたしは彼女をどう思うかというと、ここでは言明しない。
書きっぷりでお分かり願いたい。
大切なことは、自分自身が対象を(人間でも食い物でも電車でも…ここでも線路のような長い半直線が延びていく)どのように思ってもそれは対象の評価とは別次元で、好きでも嫌いでも「いいもの」はいいということだ。
だから、ここでわたしが上野千鶴子を好まないといったところで、何の情報をあなたに与えることはないのだ。むしろ上野は実力のある社会学者であるという一文のほうがあなたの足しになるだろう)

さて、その上野は松井を「自傷系アート」とカテゴライズするが、それは単なる社会学的分析だけではなかった。
その日の松井とのトークにはその認識に身を寄せる上野がいた。

トークの最後のほう、上野は松井に
「だれも不幸せになるために生きているわけではないから幸せになれるのだったらその幸せを掴んでほしい。幸せになった後もあなたの作品はあり、その作品もわたしは見てみたい」
(わたしの記憶を繋ぎあわせてみるとこうなる)

なかなかの殺し文句で、松井も素直にうなづいていた。
番組は終わり、カメラは次第に引かれていったのだが、その引かれていく間中、上野は松井を見つめ続け、たまらぬように松井のひざに自分の手を差し伸べるのであった。
それは上野の限界を超えた自己の感情の表現であるように思えた。

上野千鶴子、はるかなり。

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2007年11月26日月曜日

三宅洋平さん




本日は、ふと寄った「犬式」の三宅洋平氏のブログに温かいものを見て、そのことを書いて終わりにしようかと思う。
本当は、亡くなった真部一男という将棋指しのことや昨夜見た「点と線」のことを書いてみたかったのですが、それは後日にすることにしたい。

三宅さんとわたしの間にはとてもいやなことがあって、そしてそれは全面的にわたしの責任だったのだが、そのことを彼が許してくれた。
長く彼の手元に渡らなかったわたしの拙い手紙を読んで三宅さんは「もういいよ」というような文章を書いてくれていました。

ひとに温かくあるということはなかなかに難しく、それも一度何かいざこざのあった人間に対して、そうしてくれたことをいまここに深く感謝します。
そして、改めてここに書いておきたい。

「犬式」はいい。

ライブにさえ行ったことのないわたしが言うようなことではないが、彼らの姿を「YOU TUBE」で見るたびにそう思う。
歌が歌としてあるためには、心地よいだけではいけないのではないか。
もちろんその底には心地よいがあるのだろうが、「犬式」を聴くときそれだけではない何かを感じることがある。

そして、そういうものが、この世に流行る歌の中に少なくなってきているようにも思う。

唐突だが、わたしは、昔、よく森進一の「北の蛍」を熱唱していた。
犬式とは遠く離れた歌なのだが、やはりあの歌にも、何ものかを歌う意志があった。
あの歌は、作詞・阿久悠 作曲・三木たかし。
速水御舟の「炎舞」(冒頭の絵)を思わせるような歌であった。

三宅洋平氏に感謝を込めて、本日はこのブログを書いておきます。

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2007年8月19日日曜日

アンリ・ルソーと田中一村



ルソーは1844年5月21日に生まれ、1910年9月2日に死去する。
一方、一村は1908年7月22日に生まれ1977年9月11日に死去。
影響があったとしたらルソーから一村へだが、一村はルソーに傾倒していた時代があるのだろうか。

あるいは、こういった問は有効だろうか?
ルソーのジャングルが想像の中にあったのに対し、一村のそれは目の前に広がっていた。
どちらも創造の世界に違いはないのだが、
この二人はどこで落ち合ったのだろうか?

教えをどなたかに請いたい。

仕事が進まず、鬱々としております。

暑い暑いというが、部屋で仕事をしている分には、何の関係もない。
細かな願望はあるけれども、
炎天下で鶴嘴を打ち下ろしもしないわたしに暑さをなじる資格はない。

熱中症で瀕死の状態にでもなったら違うのだろうが。

それよりも地球温暖化の影響で日本が、亜熱帯化していることに興味がある。
さんご礁やクマゼミやマグロの生態系の変化を見るとき、
未開の女が高井戸に出現したことを生態系の変化ととらえたいわたしがいる。

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2007年8月18日土曜日

アンリ・ルソーと田中一村



ルソーと一村の絵が似ていることは時々取り上げられることがあるが、
本格的に論じたものはあるのだろうか?

二人の異質を集中的に取り上げることで
彼らの共通点に近づくことはできないだろうか?

この二人に関してしっかりとした論考はあるのだろうか?

浅学でお恥ずかしいのですが、ご存知の方、情報をよろしくお願いします。

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