2010年8月31日火曜日

第23期竜王戦挑戦者

当たり前のように、当たり前の顔をして、今期の竜王戦挑戦者に羽生善治が名乗りを上げた。

渡辺明も心中のゆらめきはわからないが、当たり前のこととして挑戦者の名前を聞いただろう。

「2年前に負けない勝負が出来るよう頑張ります」

渡辺明は、素直に今期竜王戦へのコメントを述べた。
2年前とは、羽生3連勝後に渡辺が4連勝して防衛した将棋界初の3連敗後の4連勝防衛だ。

いつの時代も当事者だけが輝いている

当事者でありたいものだ。

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ストロベリーナイト

問題はこうである。
「ストロベリーナイト」から「ジウ」の間で何が起こっているか。
二つの作品には多くの共通点が見られるが、決定的に違うものも導入されている。
それが、この二つの作品の間の秘密だ。

どちらかどうだというのは、読者が決めるものなのでそれはあなたに委ねられている。
にしてもだ、誉田哲也の中でどのような化学反応が起こっていたのか。

この興味以外でこの本が読まれるとしたとしてもこの作品の面白みが減じることはないと思う。
けれども、私見で述べれば、おそらく「ジウ」が、「ストロベリーナイト」の上をいく作品ではあるようだ。

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2010年8月29日日曜日

書くことに堕する

わたしは、わたしのブログに関しては書くことに堕する状態に、このところあったと思っています。
書くことだけでなく、わたしは多くの事柄に関してここしばらく過剰であったと思います。

その過剰が見落としていたものを拾いなおすことで、もう一度歩くことが出来るならば、わたしの過剰であったこの時代は十分意味があったのだと納得できます。

書くことに堕することなく書き続ける。
そういうことをこのごろ思っています。

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心あるメールのやり取り

昨夜、午前2時に到着していたメールに、今しがたしっかりとした返事を書き終えた。
わたしにしては上出来であったかと思う。

わたしの他を思う心にはキャパシティがあるのだから、すべての人には捧げられないが、捧げられる人には心から思いを捧げたく思う。

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ソウルケイジ

誉田哲也氏の作品だからすべてがうまくいっているとは限らない。
明らかなことだけれど、それでも、誉田氏の作品には志が感じられてうれしい。
特筆すべき作品ではないけれども、ここに挙げる。

書き続ける姿に学ぶ。

雲峰先生もまた書を創作しているのだろうと思う。
そうなれば、自然に自分に目が戻っていくのも道理である。

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2010年8月25日水曜日

張り込み姫

垣根涼介の作品のひとつだが、佳品として評価しているけれど、わざわざ読む必要はないと思う。
あなたにはあなたにあった作品がある。
それが大切なことだ。

この短編集の中に葛谷葉子というシンガーが出てくる。
書き続ける中で垣根涼介は葛谷に出会ったのだろう。
書くことだけでは何も前に進まないが、引力圏だけは生まれる。
その引力圏が招いたもののたちとの交流で人は前に進める。
引力圏を生みだす行為は大切だ。
引力圏なしで生きていると出会う必要のないものにもあってしまうからだ。

わたしのセレンディピティは、イ・スヨンに出会わせてくれたのだろうか。
ときどき、そんなことを夢見る。

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2010年8月24日火曜日

other world

小路幸也のこの短編小説は、真っ直ぐに書かれた物だということがわかる。
こういう気持ちで小説は書くものかもしれない。
小説は書くことだけでは前に進めないが、それにしても書かないでは前に進めないではないか。
文章は、書くことで自分の今を確認する以外に手段はない。

その確認が大事なのだということが少しわかってきました。

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2010年8月22日日曜日

ボーダー

久しぶりに垣根涼介を読んだ。
つべこべ言うことなしに、305ページに引用された文章を引用するに留めたい。

わたしはときおり自分は流れつづける一まとまりの潮流ではないかと感じることがある。堅牢な固体としての自己という概念、多くの人々があれほど重要性を持たせているアイデンティティというものよりも、わたしにはこちらのほうが好ましい。時に合わせ、、場所に合わせ、あらゆる類いの意外な組み合わせが変転していくというかたちを取りながら、必ずしも前進するわけではなく、ときには相互に反発しながら、ポリフォニックに、しかし中心となる主旋律は不在のままに。これは自由の一つのかたちである、とわたしは考えたい。

サイードである。

そうか、垣根さんもサイードを読んでいたのだなと思う。

この本は、それに成功したかどうかは別にして、この日本でエドワード・W・サイードの運動を書こうとした作品である。

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2010年8月21日土曜日

夏バテで失礼しました

ブーバ・キキ効果なるものをうつらうつらと考えておりました。

わたしはこんな言語社会から、ひいてはこの日本の社会からつまらぬ一人の人間として理解されているのだろうなと思いました。
思われたらそれが結果、それが社会的な人間の宿命ですから…

では、ブーバ・キキ効果はどうなのだろうか。

そのような言語の前に存在するものがあるのでしょうか。

また、ぽつぽつ書いて行きます。
よろしくお願いします。

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2010年8月16日月曜日

親切なクムジャさん

「親切なクムジャさん」
こういうことは、特別のことでなく身近によく転がっているもので、身につまされる。
戦うということはこのようなもので、法もへったくれもない。
憎むということは、この映画のようでしかないのかもしれない。

この映画のようでしかない、というのは憎むことを元に復讐は成立するが、何も生み出さないということだ。
だからといって、復讐せずに済ますことが出来るかと言えば、それは気分の問題で、各々が考えれば済むことだと思う。

自分の人生は自分のものだ。
刑務所に入る覚悟があればたいていのことは出来る。
それだけのことである。

くだらん人生を後生大事に守るよりいいだろうと考える人がいてもいいのではないだろうか。
そう思うときもある。
介護の問題も含めて。
こちらは、不謹慎だとは思うが。

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2010年8月15日日曜日

松のことは松に習へ

要があって森瑤子の「恋愛論」を読んでいるが、この人の恋愛に対する拘泥は比類ない。
そして、その性癖の元に集められた知識は彼女の恋愛そのものから収集されたものとそれらに対する考察から幹の部分は成り立っていることを知る。

要するに

「松のことは松に習へ、竹のことは竹に習へ」

である。

さすればである。
わたしは、
恋愛について書けるかであるが、これははなはだ難しいと思う。
わたしは恋愛を多くこなしていない。

ただ、恋愛に似たある行為は多くこなした。
それは、人を大切にしようとする行為だ。

このことを大まかに恋愛と呼んでしまえば、恋愛についても書けるだろうと思った。
それにしてもだ、森瑤子さんはよ~く、恋愛のことを考えておられる。

あらためて、驚かされてしまった。

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タバコを吸う娘

わたしがこの世でもっとも大切にしている娘はタバコを吸う。
あまり感心はしないが、注意することでもないと思っている。
ただ、あんまり吸わないでくれとは言っており、そう言いながら娘の6mgのマイルドセブンをたかる。

内緒ではあるが、タバコをたかる行為において、一本のタバコのやり取りは娘との空間を生む。
この空間こそが、人と人との関わりの秘密だ。
いかに空間を作るかがその人との関係を現出する秘密だ。

では、空間はいかにして作り上げるか。
いや、それは言うまい。
そこがそれ面白いところではないか。

かようにして、わたしは自分の人生を支えてくれる娘を大切に思っている。

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陰陽師 天鼓ノ巻

この本を読んでいる途中で、投げ出そうとしたことがあった。
読んでも意味がないと思ったのですが、いま思えば傲岸だった。

意味があるもないもそもそも己が人生の意味もわかっていない者に何を言う資格があるのだろう。
わたしが、この本を投げ出そうとしたときに思ったのは、ただ面白いだけではないかという感想でした。

けれど、よくよく考えてみれば、ただ面白いだけではなく面白くあることそのものが十二分に価値あることでした。
読了後、この作品には面白かったことだけでなく、もうひとつのことが書かれていることに気がつきました。
この作品の中には魂清き者の姿が書かれていたのでした。

それが、今のわたしには何よりの救いでした。

この作品の中の人々、魅力的なり。

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2010年8月14日土曜日

アリシア・キーズ

Alicia keys が好きです。
好きだからです。
好きだから好きです。

わたしは、音楽はあまり聴きませんが、教えてもらったスーパー・フライとアリシア・キーズを聴いています。
多分、キミの歌もうまいのだろうなと思います。
彼女ら以上の歌になったとき、わたしもその歌を生きて、この耳で、聴いてみたいものだと思います。

キミが、わたしの宝です。
夢を叶えてください。
わたしのあらゆるものを差し上げますから。

そういう気分は、初めてです。
親が子を思う気持ちってこんなのだろうか。

わたしは、長く親でなかったように思う。

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True Crime

抑制の効いたいい映画だと思う.
イーストウッドらしい映画だといっていいだろう。
声高に強く主張することもなく、人の生きる道を教えてくれる。

同じように昨日の夜、わたしに人の生きる姿を教えてくれた娘がいる。
26才の美しすぎる娘は真っ向から生きていこうとしている。
わたしは、いつも逃げてきている自分を哀しくなるほど悔いる。
怖がることはない。
正しいことは正しいと語ってしまおう。
正しいことを語ることで誰かが傷つこうとかまわない。

この映画は自分を貫き通すイーストウッドがそのために個人的な不幸を背負い込んでしまう映画だ。
わたしとても同じことだ。
あの韓国の娘だけを誰よりも大切にして、それだけで生きていけばいいのだと思う。
大切ということは、そういうことだ。

変に人に気を使うからいけない。
信じるに足る人間だけを大切に生きていく。
それだけのことだ。

その結果、死に行く運命になろうとも致し方ないと思う。

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許す

「許し」の力とは、抜群の力をもって相手を潰せる人間が、その刹那に止める間合いにのみ生じる力です。
とは、三枝龍生の言葉だが、なるほどそうかと教えられる。

わたしが言うように思い出すたびに「許し」は行わなければならないというのは、幼い考えかもしれない。
許すとは一回性をもってなる行為であるかもしれないというのが、いまのわたしの気分です。
だとすれば、わたしに抜群の力があるかどうかの問題になってきます。

いつまでたっても、わたしの無知はとどまることを知りません。

志高き人に教えを請いたい所以です。

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こんなしんどい時期に

わたしの大切な娘と新宿のドトールで話す。
潔い自立した女性である。
いくつかの事を聞きながら、あらためて魂の高さを知る。
いや、魂の高さを教えられる。
誰にも媚びずに生きている彼女の高潔さを知る。
何故にわたしは、彼女の高潔さだけに目を向けなかったのだろう。

いまさらながら、人を見る目のなさをしみじみ悔恨する。
己の力のなさにすべて起因する。

この困難を切り抜けられるかどうかは別にして、わたしはこの娘を知ったことで死んでいっていいとさえ思う。
もう、おさらばするときなのかもしれない。

明日は、初台引き払いの日だ。

何もかも終わってしまうような夜です。

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2010年8月13日金曜日

詳しくは語りはしないが

わたしはひどく落ち込んでいる。
まったくどうしようもないくらいに落ち込んでいる。

そのわたしに希望があるとすれば、わたしにはまわりに人がいるということだ。

その中の一人と今日会う。
もっとも大切にしている娘だ。

彼女に普段の顔で接していたいものだ。
それだけが今日の願いである。

人間弱いものだ。
頼らざるを得ない状況で頼れる人がいるということは幸せだと思う。
彼女にしみじみと感謝する。

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2010年8月12日木曜日

悪党

友人から「悪党」がなぜ悪党というかの話を教わった。
たしかに「善党」とは言わない。

善人は集まって何かをしようとする傾向の少ない集団だ。
逆に悪人はすぐに徒党を組み何かをしようとする。
そこに問題がある。

悪党に対抗するためには、善人は自分を支える線を太くしなければならない。
善人は強くならなければならない。
強い人間が善人にならなければならない。

そのようなことを彼は話した。
もし、我々が善人だとすれば、相手にする人間に対して強くならなければならないということを教えてくれた。

わたしは善人足りえているのかな。
わたしは強い人間足りえているのかな。

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2010年8月11日水曜日

あらゆる人間から疑われようとも

まだキミを信じる。
そういう形でしか人間と人間の信頼は形成できない。
わたしが、その人がどのような状態になろうとも信じられるに足る人間を持っていることは幸せだ。
わたしが、最も不利な状態に陥ったときにまだわたしを心の底から信じ続けてくれる人間がいることをわたしは誇りに思う。

できれば、そういう人たちの傍で生きたいものだが、そうもいかず、まことに世間を過ごすのは難しい。
生きていくためにはもろもろの人間とつき合わなければならず、そういう人間とつき合うためには苦労を背負い込むしかない。
信じるに足る人間以外はみな風景と思えばいいと教えた人がいるが、それがうまくいくかどうか。

なまじ人を信じることを癖とした人間の生きるに厳しいところだ、この世というのは。

ラベル:

友人というものは

ありがたいもので、わたしの巻き込まれた騒動に対して「心配しなくていい」と説明してくれた。
彼はちょっとした会社の社長なのだが、わたしが現在巻き込まれつつある騒動の当事者は誰かを看破してくれた。

わたしは、無力な一人の人間だけれどもこういう人に助けられて生きていくのだと思う。
人を大切にして生きていくことは正しいことだと気持ちを強くした。

魂が高きにある友人を大切に使用ではないか。
魂が低きにある人を申し訳ないが、切り捨てようではないか。

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2010年8月9日月曜日

冷房を嫌い

冷房なしで眠ってみたら、イヤと言うほど汗をかく。
それでも心なしか気分がいいのは、それが自然に近いからかもしれない。

もともと、いらぬ水がたまっている身体。
この際、水毒を十分に出してしまい、新たな新鮮な水分を取り込むことにこしたことはない。

ラベル:

とまれ

生きていく意志を固めた以上は、人は、人生を築かねばならず何としても生きていくほかはない。
では、生きていく意志を固めず死んでもいいと思ったとしたら、どうかと言えば、それは死んでもいいのではないのだろうか。
そのように思います。

まあ、何も考えずにやっていくのであれば、それはそれで上出来なので、それで問題はないのではないでしょうか。

この暑さであたまがボーっとしています。

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夏バテ

夏バテでもないのだろうに、精神が疲弊していてブログを更新することが出来ません。
このブログの更新回数が減ってしまうことをお許しください。

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2010年8月8日日曜日

健気(けなげ)

わたしのキーワード「健気(けなげ)」について多少説明をさせていただきます。
明鏡国語辞典では、

心がけが殊勝なさま。特に、年少者や力の弱い者が、殊勝な心がけで努力するさま。

とある。

広辞苑では、

①勇ましいさま。
④(子供など弱い者が)けんめいに努めるさま。

とある。
どちらも、健気な者に年少であることや弱い者であることを条件としていないことに注意してほしい。
年少であること、弱い者であることは、健気という言葉の特殊な使い方なのです。

あるブログを読んでいたら、健気とは弱い者が殊勝な心がけで努力することだが、ただ見ただけではその人が弱いかどうかは判断できないので、その人の事情を知らなければ健気と言うことは間違いだ、というようなことが書かれていたが、何を考えているのかねえ。

健気とは、ナウシカのことである。
ナウシカが弱い者と誰が考えるのか。
健気とはわたしの大切な娘のことである。
わたしはわたしの大切にしている娘が弱い者だとは考えていない。
わたしの大切な娘はまことに心がけが殊勝なのである。

健気という言葉をつまらぬ人間にあれこれ言われたくないものだ。

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one of them と one and only

青臭いことをあえて書けば、みんなにもてる必要はない。
当たり前だよね。
肝心な人にだけ好かれればいい。
あとは、どうでもいいという状態が恋をしている状態だ。

その人以外は風景になったとき、抜き差しならない状態が始まる。
恐ろしいね。
けど、それが恋愛状態だ。
恋愛は平穏の崖っぷちだと考えればいい。

わたしのような歳になっても、軽口を言えるone of them と何もしゃべりかけられなくなるone and onlyがある。

恋愛が危険で魅力的な所以である。 

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愛するわけ

わたしのような醜い男が愛されるわけはないのですが、それでもわたしが人を愛するときはわたしが愛されたときに決めております。
ここにしばしば登場する仙台もわたしの大切な娘もそうですが、何をどう思ったのか、わたしに好意を感じていてくれます。
その反射として、わたしは彼女たちの好意の量をはるかに上回る愛をもってお返ししています。
それは、当然のことで、わたしのような男に好意を感じてくれること自体が僥倖ですからね。

人生は、ときに不思議な贈り物をしてくれます。

ちなみに、わたしを愛してくれない妻も子どもたちもわたしの愛の対象から、今は外れ加減です。
少し、淋しいです。

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わたしのはかないダイエット

昨夜は久しぶりに思いのたけを話せて幸せでした。
幾つかの過去の出来事も知ることが出来て、幸せでした。
そして、ほんの少し不幸になりました。

いつも、知ることには幸と不幸がつきまといます。

わたしのはかないダイエット法の説明はくだらないので簡便に書きます。

メモ帳ダイエット+計るだけダイエット+サプリメントで栄養素を取り食事量を減らします+運動を開始します

で、効果はどうだったか、ですって。
今朝は、昨日より太りましたよ。
当たり前じゃないですか、昨晩どれだけ食べたと思っているんですか。

わしゃ、哀しいよ…

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2010年8月7日土曜日

わしゃ、怒った

の続きを書こうとした今が、お出かけの時間となりました。
わたしの体重が、情けないことに80kgに到達しようとしていること、この体たらくにどのように立ち向かおうとしているかということを、お茶の水で飯でもたらふく食いながら検討しようと思います。

(なんのこっちゃ!?)

で、とにかくみなさん、夏バテに気をつけて、バシッと決めた肉体を造ろうじゃありませんか。
エイエイオー!

ダイエット方法は、また明日にでも。
参考になると思うよ。(笑い)

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わしゃ、怒った

ヤマダ電機で最新の体重計を買ったのは早三ヶ月前。
その少し前に酔っ払って体重計を壊し、
(酔っ払っていろんなものを壊してきた。家の窓ガラス、わたしのメガネ、ロレックスの腕時計、自転車、彼女の誇り、そして家庭までも…
そのころ、

「どれくらい飲むの?」

と聞かれることがよくあった。わたしは滅茶苦茶飲みますから。そのときの答えが、これ。

「まあ、家庭が壊れるくらいは飲みますよ、アハハ」

アハハじゃないよ、この極楽トンボ!
いま思えば、ほんとバカでした。
けれども人間って面白い。

その頃は金も湯水のように使った。
親父の遺産で現金が4、5千万円あったからね。
それを使うのに5年はかからなかった。
いわゆる金をどぶに捨てるという使い方。
やってみるといい、この金をどぶに捨てる使い方。
とんでもなく快感なんだわ。

なんて無駄なことをと思う方はそれでいい。
いや、そのほうがずっといい。

けれども冷静にその自分を見られるなら、こんな財産はない。
バカはダメよ。
本当に金をどぶに捨てるだけなんだから。

わたしは幸い人間が好きで、その金を使う中で随分、人を見る目を養いました。
金がなくなった後、逃げ去る奴もいっぱいいたしね。
で、その中で残ったのが、仙台。
だから仙台とは肉体関係もあるけど、言ってみれば、「わたしの一番大切な人」の一人なわけ。
(一人じゃないのか!? そりゃ、そうでしょ。5人前後はいるんじゃない、「一番大切な人」と思っている人が)

で、何の話だっけ?

そうそうダイエットの話だ。

それは、ちょっと買い物に行ってから書くことにするわ。

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本日は昔の仲間と会う

今夕、お茶の水にて待ち合わせ。
気のおけない仲間と合流。
現状の報告会なり。

わたしは、昔、市進予備校というところで国語科の教材を作っていました。
いまは、「Dir en grey」のいる音楽事務所に席を置きます。
(このおっさん、何を考えているんやろか!?)

で、今日はその市進予備校で汗水たらしてサボりながら、高1~高3の国語科の現代文・古文・漢文・小論文のテキスト、試験問題、解説を作っていた連中との再会です。
ま、そういう連中はかなりの高学歴なわけですが、いかに高学歴の連中がアホかということかがこの会に参加すればよくわかる。

学歴なんか信用したらいかんぜよ。
あんさんの目でじっくりと品定めをする。
これが、大事なんよ。

人を見る目のない人間の悲劇をイヤになるほどわたしは見てきています。

今回は、もっとも高学歴な男は来ません。
ちなみに彼の最終学歴は東京大学工学部航空宇宙工学科大学院博士課程卒。
稀代の天才と称せられた男です。
まあ、頭のいい人ですよ。
で、後はあなたが会ってから判断すればよろしいい。
会ったらの話ですが…(笑い)

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2010年8月6日金曜日

痛み抜ける

痛みを恐れるな。
恥を恐れるな。
幾つになってもなりふり構わず、ただ真直ぐに歩く。
ま、少しは回り道もするけどさ。

自分に正直な生き方は、言ってしまえばくだらぬこだわりだけれど、くだらなさこそが文化だ。
知っておられましたか、あなたは、あなた自身が文化であることを。

文化であるあなたはくだらなくてはならない。
痛まなくてはならない。
カッコなどつけずに恥ずかしいあなたの姿をさらけ出さなければならない。

それが、あなたという文化を作る。

「痛み抜ける」とは、そういうあなたへの贈り言葉だ。

痛みを持つことは恐ろしいが、その痛みを孕み、痛み抜ける所にだけあなたがいる。
あなたがあなたと出会うために痛み抜けてほしい。

ああ、何のことはない。
これは、すべて自分を鼓舞しているのではないか。
そして、わたしに似たあなたもきっと少しは生きてみようと思ってくれるのではないかな…

ともに痛み抜けて行こうではないか。
とりあえず、今宵、痛みを受け入れてみよう。

ラベル:

その笑顔が眺められなければ

歳も関係あるだろう。
持って生まれた人を愛する能力のキャパのせいでもあるだろう。

わたしは、わたしの愛を確認するときに愚かな自問を用意している。

おまえは自分の耳が聞こえなくなった状態でも彼女を愛せるか?
おまえは自分の口がきけなくなった状態でも彼女を愛せるか?
お前は自分の目が見えなくなった状態でも彼女を愛せるか?
おまえは彼女に絶対に触れることが出来なくても彼女を愛せるか?

恋しいゆえに彼女に触れたく思う。
そういう感情があることはわかる。
わたしにも以前あったし、今もそういう思いにかられることはある。

けれども、あの子に対しては違う。
前述の四つの問いに対する答えはひとつを除いて、大きくイエスだ。

残りのひとつ、
お前は自分の目が見えなくなった状態で、彼女を愛せるかどうかには自信がない。

あのわたしに投げかける笑顔が見えないのであれば、わたしはこんなにもあの子を愛せないかもしれない。
あのしぐさが、あの汗をぬぐう時の表情が、戸惑った顔が、一瞬見せるニッコリが…
わたしの至高の幸せは彼女を眺めることに集約される。

この感情をなんと呼んでいいのか、今のわたしにはわからない。

ラベル:

だれが忘れるものか!

だれが忘れるものか、だれが何をしたのかを!

許す行為は一回性のものではない。
思い出すたびに繰り返し許さなければならない。
それがお前を許すという言葉の重みだ。
思い出さなくなるなら、ずっと楽なのだろうが…

わたしは、この会社である人物にスパイ行為をされた。
つまり、わたしの語ったことを逐一上司に報告されたのだ。
わたしは、このような姑息な行為を心底憎む男だ。

したがって、強く思う。
だれが忘れるものか、だれが何をしたのかを!

許そうとはするが、本当は一度も謝らぬおまえを軽蔑しきっているというのも事実だ。
人の心ぐらい察したらどうだ、間抜けな顔をして何を見ているのだ。

とまあ、気分の悪い時は感情に怒りの激震が走る。
けれども、相手にするだけで、わたしの心が汚れるのでやめる。

最後になるが、

「だれが忘れるものか、だれが何をしたのかを」

は、塩見鮮一郎先生からの借り物であることを報告しておきたい。
原文に一文字だけつけ加えましたが、塩見先生がアメリカが広島に対して行ったことを思って放たれた言説を拝借いたしました。
無断使用をお許しください。

ラベル:

2010年8月5日木曜日

酔っていようが、酔っていまいが

かつてわたしには毎晩のように酒を酌み交わし、お互いの考えを深め合った友人がいた。
もちろんいまも友人だし、つき合いもあるが、彼は遠く長野県安曇野に本社がある某会社の代表取締役に納まっており、首都圏の支社に来る時にたまに会うだけとなった。

けれどもひとたび会えば、時は瞬きする間を待たずに飛び越える。
あの頃、語り合った感触はわたしの身に深く根付いている。
彼は懐かしそうにわたしを見るが、その目は遠くあの時のわたしを見る目だ。

彼と毎晩のように飲み明かしながら、深く複雑に組み合わされている問題を議論した時、二人の間に

「お前、酔っているんじゃないか」

という言葉は一度も飛び交わなかった。
わたしたちはお互いのすべてを愛し、信じ、つき合っていたから、酒を理由にはしなかった。
酔っていようが酔っていまいが、間違いは間違いであり、酒を飲んでいたから間違えたなどという姑息な理由はお互いに憎んだ。

今でもわたしはそういう態度を突き通す。
酒を飲んでダメな奴は飲まなくてもダメな奴だと思っている。
酒を飲んでもいい奴はいい奴だし、問題にすべきは、どういう状態であっても発言されたその内容にある。

「酒を飲んでるんでしょ?」

バカなことを言っちゃいけない。
飲んでいようと飲んでいまいとオレが言ったことは、オレが言ったこととして対処しろ。
それが出来なければ、俺はおまえと別れる。

それが、わたしの心意気だ。

ラベル:

おまえなんか、どっか、行ってしまえ!!

陽光が痛いほど射しこむ高井戸駅前。
アスファルトから陽炎がゆらめいている。
そんな横断歩道を渡っていたときのことだ。

目の前の若い娘が叫ぶ。
「おまえなんか、どっか、行ってしまえ!!」

で、オレはといえば、その場に立ち止まり、逃げることも出来ず、
「オレか」と尋ねる。

よくあるんだよ、「出てけ!」とか、「消えてしまえ!」とか「大好き!」とか(あっ、これは違うか)言われること。

そうすると、娘はわたしの斜め後ろを指す。
振り返るとコソコソ逃げていく男アリ。
事情はよくわからねど…。
この娘の気風よし。
男の後姿、不甲斐なし。

娘は、オレに、ニコッと笑って歩み去る。

けど、娘のあの罵声に反応したわたしって、あな、うたて。

ラベル:

2010年8月4日水曜日

今年の冷房

去年もそうだったのかもしれないけど、今年の冷房ってさ、…
さっき、帰りに駅前の本屋に入ったんだけど、それからコンビニに入るたびに思うんだけど、今年の冷房温度って高めに設定されているよね。

あれってさ、温暖化対策?
それとも電気代ケチっているの?

どっちにしても、わたしは暑いのは意外と平気だからいいけどさ、なんか気になるよね。

なんて言っているうちに明日、熱中症でお陀仏だったりして…。
あの亀岡テイラーのご主人も先だってい一週間も入院したんだって。
といっても、誰も知らないか、あのマイスター亀岡さんを。
御年七十七歳なり。
こういう人と仲良くしてもらうと幸せだよ。

ラベル:

不可視なる作品

人はその人自身に恋するのではない。
その人のイメージに恋をするのだ。

そう言ったのはわたしだが、随分前にユングが類似のことに言及しているし、その後精神分析学では誰かが言ってしまっているかもしれない。
それはともかく、素人は素人の潔さを持って論を進めるとしようか。

人は目の前の恋人を愛するのではない。
目前の恋人に喚起させられた身の内の恋人のイメージに恋をするのだ。

だから、恋をする身の内のイメージと実際の恋人との間にギャップが生まれる時、人は恋人に落胆し、あるときは怒り、あるときは別れる。

もし、あなたが自分の恋しているのは自分の中にある恋人のイメージであって、恋人そのものではないと知れば、恋愛も随分楽になるだろう。

で、今回は残念ながら別の話。わたしの誇り高きプライドについて。困った困ったわたしの理不尽なプライドについて。

わたしのプライドの根源は心の中に形成している気高き女性のイメージにある。

当然の事ながら、下衆なイメージを持つ男の多くはセックスできる対象としてあなたを見る。イメージがそうなのだから致し方ない。セックスできなければ、あなたは恋人として、男を落胆させることになる。まあ、落胆させればいいのだ、そういう下衆な野郎は。ただ、性自体はその男ほど下衆なものではない。性がすばらしいなどと陳腐なことを語る気はないが、性には大きな意味がある。(いつかブログで語る)

で、女性はわからぬが、この世のほとんどの男性はこういった下衆と思って間違いない。でも、そういう下衆が好かれることもママある。セックスは嫌われ者ではないからだ。 

その時流に逆らって、わたしは心の中に質素でありながらあくまでも透明性を保持する芳しい花を育て続けた。そのイメージは少し前に遺伝子操作で創られてしまった青いバラをよそに置き、いまだにわたしの中に咲き続ける孤高の花だ。

わたしは、自分がこのイメージに恋をしていることを知っている。だから、そのイメージを喚起させる実在の人に近づきはしない。近づけば、わたしの作品である孤高の花が、忌まわしい実体によって砕け散るからである。

つまらぬことをつけ加えておけば、わたしが本当に恋をするときには、孤高の花ではないイメージを作り上げる。つまり、あまり理想は高くなく、実体に合ったイメージを。そうすれば、その人と会っていても決して嫌いにならないですむから。

で、結論なんだけど、わたしの誇りは、心の中に住む孤高の花のイメージに起因する。キミの貧困な心に住まうイメージの醜さはどうだと、わたしは時にバカにまでしてしまうことがある。その人がたとえ大会社の社長でも、有名な歌手でも、はたまた大家の小説家でも。貧困なる女性のイメージしか抱けぬだろう男達を見下してしまう。

それが、なんともしがたいわたしの欠陥なのだ。それを乗り越えねばならないだろうという気がする。最近、意外と有名な人に会う機会が増え、残念なことにそのほとんどが貧困なる女性のイメージしかもてないことを知ったからだ。

けれども、そのことを除いては、不可視なる作品の貧困を除いては、彼らはずっと社会的にわたしより偉いのだ。わたしは、頭を下げなければいけないと思う。そういう男達に。わたしの不可視なる作品が可視なる作品になるその日まで。

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2010年8月3日火曜日

訓練

一冊の漫画を読むこと、映画を見ることは簡単なことだろう。
どこまで読むか、どこまで見るかの問題は孕むが、受信者にとても優しいジャンルだからだ。

けれども受信者に厳しい作品もある。
受信することにある程度の技量を要求される作品もある。
エンターテイメント小説は要求の軽いジャンルだ。
さらに、別の小説がある。
評論がある。
思想がある。
哲学がある。
棋書がある。
数学書がある。


それらは、受信者が努力をしていなければ置いてきぼりになる書物だ。

この夏は暑い。
けれどもこの努力を怠ってはならない。
質の高い受信なき者に質の高い発信は生まれないのだ。

雲峰先生、ともに頑張りましょう。

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永世竜王への軌跡

早く帰ったものだから、パラパラとこういう本を読んでいるのだが、突き詰めるというのはこういうことかとしみじみ教えてくれる。
なにか自分がものを考えているなんて思っていることが恥ずかしくて恥ずかしくて、どうしようもなくなるのだよ。
だからといって、泣き崩れることを許してくれる女性もなし。
歳を取るとこういうときに困るね。(笑い)

将棋を知っていてよかったと思うのは、こういう本を読める幸せで、この本には将棋ファンなら誰でもあれかとわかる第21期竜王戦の第四局と第七局が掲載されていて、渡部明があの将棋のあの局面で何を考えていたのかを教えてくれる。
将棋というものが何と人間臭いゲームであることか、そして、その人間臭さが頭脳をきりきりと音のするまで軋ませて考え抜いた後に訪れることを知ると再びこの若き永世竜王に頭を下げたくなる。

わたしもまた考えるのならば、軋む音が聞こえるほど身体を張って考えたいものだ。
そのとき、羽生と渡部明が創り出したあの将棋に少しでも近い作品が生まれれば幸せなことだと思う。

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ガジ丸の島

長くそのアクセス数で目標にしていた「ガジ丸の島」を一万件の差をつけて抜き去った。
読んでくださる皆さんのおかげですが、こういうくだらんことで一喜一憂する男かと見捨てんでください。

耳のきれいな女が、耳を出す髪形をしているだけでうれしくなる男です。
まあ、耳に注目するあたり変態の真骨頂ですが。
姿かたちなどどうでもいいといいながら、それだけで人の大半を判断する男です。
外見にどれだけ内面を読み込むかそれが正しい正しくないは問わない。
何せ、主観的判断だから、そうしておいてあの子は最高とのたまうのです。

気が狂っていると言えば気が狂っています。

しかし、くだらん社会規範を気にしてうろうろしているよりはよほどいいと思うのです。

あなたも、自分がいいと思うものは、いいのだと高らかに吼えたらどうですか?
それが、あなたの主観が持つ特権です。

たとえば、トウリングなんぞをこれはと思う人がしていればのけぞるわけです。
きれいかどうかはともかく、これが主観です。

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範馬刃牙

創作のもっとも奥に潜む秘密を、いまのわたしはたった一つだけ知っている。
それは、四六時中その作品のことを考え続けることだ。
作品を思う心の強さと深さがその作品に反映される。
もちろん、作品を思えばいいものが書けるかどうかはわからない。
けれども、あなたが物を作る人だとすれば、その根本に自分の作るもののことを四六時中考え続けることを置くしかない。

それでもダメな場合は確かにある。
そのために気が狂いそうになることも確かにある。
けれどもその道を歩かなければあなたの願う作品に出会うことは出来ない。

わたしが、そう激しく思うのは、板垣恵介の「グラップラー刃牙」「バキ」「範馬刃牙」の作品群を読み進めるなかでだ。
板垣のしてきたことの奥底に眠るもの、それは彼がバキという物語の中に常に在住してきたという秘密だ。

だからこそ、彼の周りに起こるありとあらゆることが彼の物語に注ぎ込まれる結果となる。
そして、いまの「範馬刃牙」のシリーズに結晶化される。

作品に対する好みなどどうでもいいのだ。

わたしは、板垣がその生活のすべてを範馬刃牙とともに過ごしている事実に深く敬意を払うのだ。
それ故に、わたしは彼を畏友と呼びたい。

もっとも、彼はわたしのことをなんとも思っていない。
そういう喪失感もあるにはある…

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畏友、板垣恵介を訪ねる

今日は、久しぶりとはいえ、畏友、板垣恵介を訪ねる。
わたしが、心の底から板垣を畏友と呼ぶことは、以前にはなかった。
それを何故、そう呼ぶようになったのか。
もちろん兆しは幾つかあった。
けれどもそれらを度返しして決定版とでもいうべき出来事があったのである。

そのことは、後で語ることにしよう。
創作の秘密にかかわる衝撃的なその出来事を語るのは、もう少し後だ。

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2010年8月2日月曜日

時間が惜しい

わたしもいつ死ぬかわからぬ年齢になってしまい、時間が本当に惜しくなった。
会っていて、つまらなければ死ぬほど帰りたくなる。
その店にいたくなくなれば、すぐさま席を立つ。

若いあなたなら、なおさらだろう。

人を育ててくれるのは、行き着くところ人でしかない。
いい人とつき合ってほしい。
いい人につき合いたいと思われる人になってほしい。

そのためには、八方美人ではダメだ。
この人はと思えば、思いっきりつきまとえばいい。
つきまとい、つき合ってもらうのだ。
その結果、面白くない人だと思えば、離れればいい。

人にはそういう自由がある。

いい人とつき合うためには感性を研ぎ澄まし、人を見抜く力をつけなければならない。
ダメと見抜けば、どんなに嫌がられようとも離れなければならない。
何を言われようともそうしなければならない。

でなければ、そのままの人生が続くだけだ。

新しい自分へと変革するためには、酷薄に人を切り捨てなければならないときがある。

頑張ってほしい。
わたしがついているではないか。

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2010年8月1日日曜日

愛がなければ

愛がなければ立ち行かない男。
自分のことをそう言い切ってしまってもいいと思う。
愛が身体中を狂った竜のように激しく身もがいていた時のことを、いま思い返す。

My love wants to have its destination.

その愛が激しければ激しいほど、大きければ大きいほど行き場所のない愛は己を残酷に傷つける。
たまらずに誰かを愛してしまうが、その愛は偽物だ。
流れ注ぐ愛は愛そのものだが、流れ行く相手への愛ではなくすでに己が内に納まりきらず、仕方なく堰を切ってしまった愛だ。

いま、その愛が、我が娘に注がれるはずの愛が、行き場所を見つけた歓喜とともに美しい韓国の娘に流れ込むのがわかる。
この身の軽さと穏やかな気分は愛すべき娘にたどり着いたからだ。
あとは、娘との距離感さえ間違えなければ、もっとも上質な愛を娘の最も美しいい心に細水となってたどり着かせ続けられるだろう。

これを幸せと呼ばず何と呼ぶのだろう。

わたしのような老醜をさらす者にこのような清冽な愛の流れがいまだにあったということが、巧まずにこの娘と出会わせた。
わたしにこのような愛が存在していたことを感謝したい。
この世のすべてを今は愛せる気分だ。

美しきこの娘に恥じることなく生きていきたい。

武蔵美、
愛がなければ始まらないのだよ。
こんな老いぼれでもそうなのだ。
まして、十分に若いキミだ。
今得ている愛を驚くほど大きく育ててほしい。

わたしの周りのすべての人に十分すぎる幸せが訪れることを願ってやまない。

諸君、すまない。
つまり、これは一風変わったノロケだ。
こんなことを書かなければならない幸せの中にいることを阿呆なわたしは書いているのである。

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新参者

ちなみにこの帯は、かなりひどい。
「新参者」自体、東野にあって、どうという作品ではないが、それにしてもこの帯ではねえ。
東野圭吾で売れるといってもこういう手抜き、許されるのか!?

で、帯よりは随分ましなこの作品、お暇なら読んでもいいのではないかと思う。
ちょっと暇つぶしに映画でも見るかといった調子だろうか。

もし、あなたがこの手の本の書き手を目指すならすごく参考になるかもしれない。
加賀恭一郎の造形など手馴れたもので、ああこういう風にやるものかと参考になる箇所はふんだんにある。

そして、この短編の集成からなる長編「新参者」、こういうところが東野さんは達者である。
やはり売れるべくして売れている。


だが、どっちと聞かれるなら、そして聞いたあなたが人生をまともに生きようとしているなら、わたしは即座に先日書いた「ジウ」を読んだらいいよと微笑むだろう。
「ジウ」は、これからのあなたを救ってくれる。
あなたがまともに生きようとしているなら必ず助けてくれる。
そういう作品だ。

夏の夕涼み、ちょっと小説でもなら「新参者」だろう。
そして、とにかくどんな小説か知りたい方なら「新参者」の第一章:煎餅屋の娘と第九章:日本橋の刑事を読めば足りる。

随分けなしているようだが、そうでもない。
東野圭吾にとって、「新参者」はその程度の作品だと言っているだけのことです。

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美しきこの娘に出会えた幸せ

人にはそれぞれ物語があり、その物語を知っていることは、ときとして大きな助けになる。
わたしの女性に対する物語は、長女、南との交流に対する枯渇にあって、南の代わりを激しく捜し求める事が、そのまま求愛と取られてしまう悲劇を幾つか生み出した。
そのわたしが、自分のこの物語を最近になってようやく発見した。

今年の初めの頃から一人の女性を追い求めていて、どう考えてもその女性自体に魅力があるとは思えないのにそれでも求めてしまう自分との葛藤にのた打ち回っていた時期が続いた。
その間ずっと彼女の分析、自分の分析、二人の関係性その他に費やしたのだが、その結果、自分が持っていた物語に気づいたのである。

確かに娘の代わりとしては、魅力的過ぎる女性であったのだ。
けれども一個の女性としてはどうだろう。
好みの問題もあるが、赤ちゃんに過ぎるというのがわたしの分析である。
だからといって、わたしがその人を嫌いになったかと言えば、そういうことはなく、特殊な感情が流れることは皆無になったと言うだけである。
隣町の無知で素敵なお嬢さんといったところか。

それに比してしまうのは隣町のお嬢さんに失礼だが、わたしの目の前にいるこの美しき娘は自立し己の頭と身体で考え、自らの人生に挑戦している。
まぶしいほど自立したけなげな娘である。
そして何より圧倒的な美人である。
わたしは偏向的に美人が好きなのである。

とても素敵な女性に会ったと思っている。

わたしは、この美しき娘の人生の手助けをしながら実の娘を待てばいいと今、実感している。

この夏は、思い切り執筆に勤しみたい。
精神は、今年になって最も充実している。

夏の終わりには美しき娘と食事出来ればいいと思っている。
輝ける夏が、今、わたしに襲い来る。

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亀岡テーラー

代田橋「亀岡テーラー」のご主人が熱中症でまた倒れられた。
一ヶ月ほど前も10日ほど入院されていたから、まだ疲れが残ってらしたのかもしれない。
こういう職人さんが後継者を作らずに亡くなっていかれるのを見るのは忍びない。
もうあと何度かお話を聞きたいものだ。

とあれ、仕立てをお願いしていたスーツは受け取らねばと出かけて、40万円もするそのスーツを手に入れた。
亀岡さんにこんなに安くていいのかと何度か念をおして購入を決めたスーツだ。
似合う似合わないは別として買わなければならないものであったと思う。

少し心が豊かになる。

知らぬ間にすっかりわたしも資本主義の感覚を持ってしまった。

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