2009年7月31日金曜日

才能

「振り返れば奴がいる」の再放送をしている。

昼間なので、飢えて死にそうなわたしくらいしか見ることは出来ないだろうが、いい出来のテレビドラマだ。
不思議に思っていたら、三谷幸喜の初期のころの脚本作品だった。

才能ということをときに話題にする人たちがいるが、そうそう簡単に取り扱える話題でもないだろう。
もちろん、このブログでも大々的に取り扱うことは出来ないし、その力もなさそうだが、ひとつのことだけを語ってみたい。

その作品が売れるか売れないかは才能とは関係ない。
そのことだ。
とくに、それは、売れたときに起こる批判の中に潜む才能云々の話についてについてそうだ。

才能の一方の端には、どうすれば売れるかのパースペクティブも眠っている。
三谷氏の「振り返れば奴がいる」を見ていると勘所の捕らえ方にうならされる。

媚びもまた才能だし、どうやれば人の心が動くかなど見えない人間には一生見えないものだ。
逆に、作品を見ての人の心の動きなど無視して創り出したもので、そんなこととはかけ離れてそれさえも価値があるなどという芸当は、それこそ天才と呼べる人たちのもので、それをもって才能と称するなら、才能が普段の会話に登場するはずもない。

わたしは三谷さんのコメディが好きだが、この作品を見て本当にこの人はいろいろなものが見えている人なのだと思った。

もしかすれば、評価の低すぎる人なのかもしれない。

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2009年7月30日木曜日

おれは権現


久しぶりに司馬遼太郎の本を読んでみた。
短編集であったし、よく知った司馬さんの文体ではあったが、ひとつ意外なことを知った。

この人は冷たい人であったのだなあ、ということだ。

逆に言えば、この人はとても温かい人なのかもしれない。

その中に書かれる人々は、彼らしく、彼女らしく生きてはいるが、どこか無常感が漂う。
司馬さんの文章の中、達成感に意味が重く乗せられることはない。(この短編集では)

ただ、そういう風に生きたとだけ書いてある。

そして、それを読んだとき、ふと、わたしの肩の荷が下りた。

ただ、そういう風に生きさえすればいいだけのことで、人はそのようにこの世と交わり死んでいくものなのだという感じが、無常でありながら、そういうものかという説得感を持っていた。

司馬遼太郎の目がそこまで映し出していることは、わたしにはいままでわからなかった。

なるほど、ただそのように生きただけのことであった。

…ということか。

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あなたにとって…

日本に優秀なインタビュアーは少ない。
(胸をはれるのは久米宏くらいのものか、彼はよく勉強している)

多くのインタビュアーは、変わりばえのしない質問に終始する。
その中にあって特に目立つのは最後の質問。
インタビュイーのしているスポーツや仕事に対して、

「あなたにとって …… とは一言で言うとなんですか?」

と聞く締め方である。

聞くたびにこいつはバカではないかと思ってきた。

そして、その答えはたいてい

「……は、わたしの人生そのものですかね」

といった類の解答が集中する。

この解答にも、なんだかなという思いがあったがあったが、ようやくわかった。

それはそうなのだ。
彼なり彼女にとってそのことは人生なのだ。

これからはいつもの話。

白鳳は相撲によって自分の人生の虚構を組み立ててきた。
イチローは野球によって自分の人生の虚構を組み立ててきた。
羽生は将棋によって自分の人生の虚構を組み立ててきた。

それがなんであってもかまわない。
ひとは、ある眼鏡を通して人生を組み立てる。
その眼鏡がなければ、提供された人生に自分の軌道を合わせるしかない。
これを普通の生き方というが、この普通の生き方が愉快でなければその社会は歪になっているのだろうというのがわたしの見方だ。

それはともかく、一部の職人的な人々はあるものを通して自分の人生を組み立てる。
良くも悪くもそれが彼らの生き方であるし、そこに成功も失敗もない。
人はそうやって一生夢を見て生きてもいけるのだ。

その夢を見た彼らに夢を見させてくれたものがあなたにとって何かと問えば、それは人生そのものに決まっている。
その夢こそが人生を成り立たせてくれたものなのだから。

幸せな人生と呼んでいいのかもしれない。

インタビュアーの稚拙な質問ではあったが、あの最後の質問に対するインタビュイーの答に人生を少し垣間見たような気がした。

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2009年7月29日水曜日

川村カオリさんもか

川村カオリ(本名:川村かおり)が、左乳がんの再発の為治療しておりましたが、
本日平成21年7月28日午前11時01分、都内病院にて永眠致しました。
ここに生前のご厚誼を深謝し謹んでご通知申しあげます。
享年38歳。

ブログにはこうある。
先ごろこのブログでお知らせしていた若い母親と同じような逝き方だった。
たった一週間違いの。

人の死はいつも個人的な関係の上に悲しみを撒き散らす。
個人的な関係を結んでいなければ、だれでもいいからと殺したりもする。

人は生きていていいのだろうかとわたしはときに思うが、こういう個人的な死に出会うときに口は閉ざされてしまう。
個人的な死はいつでも理不尽だ。

だけれども、もしもその死が個人的な死ではなければ、だれもが特別の人として振り返らなければ、別の話になる。

人は関係性の上をすべるように生きていく。
関係性の上で特殊な好みを持ち始める。

それが第三者をいれずに個人と何かの関係においてのみで成立するならば、それは特殊ですばらしいことだ。
職人はそんなところにでんと座っているのだろう。

川村さんも一種の職人であったのだが、あまりに多くの人に愛されすぎたことが彼女の死に大きな波を打ち寄せさせることとなった。

この頃、やけにひとの死に目がいって困ってしまうよ。

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個人的感情と社会

個人的感情と社会は、別の動きをしている。

たとえば拉致問題がそうだろう。
個人の救済としてはなんとしても取り返さなければならないが、国際政治の中ではカードの一枚にしか過ぎない。

刑事事件の加害者の有利さもそうだろう。
被害者感覚に立てば、推定無実(疑わしきは罰せず)なんて、とんでもないと思うだろうし、加害者のプライバシー保護も過剰すぎると思うかもしれない。

けれども、それが国家権力に対する一つの防壁になっていることを考えると、存在意義はあるだろう。

たとえば、9・11以降のアメリカでは推定有罪であるかのような態度をとって、アラブ人をバンバン締め上げた。
軍隊においても同じような捕虜に対する扱いをした。
それを抑えるための推定無実だったが、壊れてみれば明日にでも自分が権力に引っ張られるか知れないとわかる。

今のアメリカはそのゆり戻しで推定無罪に向かっている。

被害者の個人的な感情を救済しなければならないのは言うまでもないが、無実の加害者を産み出すのも決して許されるものではない。

比較するものではないが、魔女狩りに代表される歴史は営営と繰り返され、そのなかに推定無実の発想は育った。

個人的感情とは別の次元だ。
さらにいえば、個人的被害感情は極めて哀しい場所に置かれている。
その救済をいかにするかは、残念ながら難しい。

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2009年7月28日火曜日

自殺者:上半期、1万7000人 過去最多ペース

警察庁は27日、6月の自殺者数が2822人だったと公表した。
今年上半期(1~6月)は昨年同期比768人増の1万7076人に。
このペースで推移すれば、統計の残る78年以降最多だった03年の3万4427人と同水準になる可能性がある。
昨秋以降の大不況で経済的要因での自殺が増えているとみられる。

これは公式発表だが、実際にはこの3倍は自殺していると見られている。
遺書もなく、これといったはっきりとせぬ死は、まだまだある。

この対策はといえば、経済的要因をその問題の中心と考えれば経済対策になるのだろうが、それが問題の本質には思えない。

問題は関係性の希薄さだ。
昔だって貧乏は多かった。
けれども、みんな貧乏だったし、関係性がそこには横たわっていた。

現代の貧富の差は単なる金を持っているかどうかの差ではない。
他者を侮蔑する構造だ。

貧しいもの同士が肩寄せあうように生きる世の中を幻想でもいいから作り上げなければ、自殺者の数は減らない。
商品経済に背を向けるような人間関係で生きていけるかという実験をどこかの村で出来ないものか。

農業が厳しいものだと話されるのをよく見聞きするが、それは資本主義の中へ一企業として入っていこうとするからだ。
ほそぼそと生きていくだけの農業ならば、ほかの可能性があると思うし、日本に必要なのは、その細々とした農業からの巻き返しであり、その積み重ねが自給率を支えるはずだ。
休耕田をもとの田畑にしていく。
その際のご褒美が自給自足だ。

それでもいいという人々は増えているはずだ。
出なければ一日に百人も死ぬはずはあるまい。

いまこの時代にもっとも歪になっているのは人間関係だ。
いじめの問題もまた、歪な人間関係を支える生け贄のようにも見えることがある。

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夜来香海峡


長く読み継いできた作家の本は、ついつい手にとってしまう。
圧倒的な取材力を誇った船戸氏もその影を潜めつつある。
それでもと思い、読んでいるし、ああ、船戸氏の名残は十分にあるなと思ったりもする。

それに何より彼は大作「満州国演義」を書き継いでいるのだから文句は言いたくはない。

上記の本を読むことはお勧めしないが、この中に出てくる新疆ウィグル地区のありようとそこに金のにおいを嗅ぎ取るマフィアや日本のやくざの抗争、そして、日本の農村地区にやってくる多くの中国東北部の女性たちとそれを食い物にする日本人と中国人、わたしの知らないところで多くのことが起こっている。

船戸氏にはそういう知らないことをずいぶん教えてもらった。

たとえ実際に閉じこもっていなくとも、人は多くのものから目をそらされて生きている。
それで何も困らない。
自分の身に降りかからなければ、そういった諸事情は存在しないも同じなのだからな。

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2009年7月26日日曜日

麻生氏の発言

麻生氏の発言が巷間、問題となっているが、わたしにはそれほどひどい発言だとは思えない。
前々から述べているが、この国の人口をもってどのように国が成り立つのだろうかという問題に触れているからだ。

「どう考えても日本は高齢者、いわゆる65歳以上の人たちが元気だ。全人口の約20%が65歳以上、その65歳以上の人たちは元気に働ける。いわゆる介護を必要としない人たちは実に8割を超えている。8割は元気なんだ。
その元気な高齢者をいかに使うか。この人たちは皆さんと違って、働くことしか才能がないと思ってください。
働くということに絶対の能力はある。80(歳)過ぎて遊びを覚えても遅い。
遊びを覚えるなら「青年会議所の間」くらいだ。そのころから訓練しておかないと、60過ぎて80過ぎて手習いなんて遅い。
だから、働ける才能をもっと使って、その人たちが働けるようになれば納税者になる。
税金を受け取る方ではない、納税者になる。
日本の社会保障はまったく変わったものになる。
どうしてそういう発想にならないのか。
暗く貧しい高齢化社会は違う。
明るい高齢化社会、活力ある高齢化社会、これが日本の目指す方向だ。
もし、高齢化社会の創造に日本が成功したら、世界中、日本を見習う。」

当然出てくる方向性の一つだと思う。
さらに出てくるとすれば、介護をしてまで寿命を永らえる必要があるのかという問題だろう。
もちろんこれは個人的感情に訴えればとんでもない発想だが、個人的感情に媚びては社会は運動していかない。
冷たいようだが、そのような発想はどこかで噴出すべきだろう。

それを麻生太郎がしたに過ぎない。

正しいか間違いかではなく、この発言は出るべくして出た発言で、選挙がらみのこの時期に出したことのマイナスはあるだろうが、避けて通れぬ問題であるのは確かだし、一つの方向性であるのも確かだ。

それは、人はただただ長生きすればいいのかという問いに似ている。

くりかえすが、ここで問題にしているのは個人的感情ではない。
マクロな話だ。

この文章を読み個人的に不快な思いをされた方がおられるとしたら、謝罪いたします。

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違う世界

精神が落ち込んでいくと、この現実とは違う世界に行きたく思う。
それは、テレビやラジオや読書によって飛び込んでくる情報についても同じだ。
なるべく現実世界とは関係ない情報を好むようになる。
(この場合の現実世界は、多くの人がそこで生きていると信じている世界のことだ。)

というわけで、いまのわたしが気楽に取り入れることの出来る情報は、スポーツや将棋や大きく現実から連れ出してくれるフィクションだ。
ゲームの世界に入り込むことを知っていれば、入り込んでいたかもしれない。

バーチャル、バーチャルといいにつけ悪しきにつけ、評されるが、わたしたちの見ている世界も大なり小なりバーチャルではないのか。
だって、現実をそのまま取り入れているわけではないのだから。

違う世界で遊ぶことは大切なことだ。
そのことが、生きている確かさを教えてくれたりもする。

現実世界は、そのようなものではない。
おとなしくみなさんと同じようにしていなくてはならない世界だからだ。
そのため排除されることもある。
そして、この排除は現実世界に住む場所がないことを意味したりもする。

けれども自分なりの仮想世界を持てば、ひとはそこで生きていける。
出来れば、その世界に仲間がいればもっと素敵だろう。

現実世界が唯一無二のものではない。
違う世界もまた現実世界以上に大切なものだ。

そういった意味で違う世界をしっかりと持っていることをだれかれなしに願ったりもする。

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2009年7月25日土曜日

ついこの間逝った人


ハレー彗星とともに来て、ハレー彗星とともに去った人としてもマーク・トウェインは有名だが、ふと思えば先ごろ逝った若いお母さんは、皆既日食の現象の日に来て皆既日食の日に去っていったようなものだったと気づいた。

月は人にもろもろの影響を与えるといわれており、満月の日に事件が多いことや朝方に子供が産まれることは潮の満ち引きに関連付けられて語られることもある。

太陽についてはその手の話をあまり知らないが、一時的にしろ太陽が月に隠されてしまうときに何かが起こってしまってもおかしくはあるまい。
その逝ってしまった若いお母さんは、多くの人が語るように確かに太陽の感じがするお母さんであった。

わたしは残念ながら満足な出会いが出来なかったが、多くの人に多くの喜びを与えた人なのだろう。

通夜にも告別式にも出席はしないわたしは思い出すことしかすることは出来ない。

彼女を思うとき、ああ、あれは皆既日食の日だったとこの頃ようやく腑に落ちた。

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2009年7月24日金曜日

世の中がどのようであろうと

世の中が実際にどのようであろうと、それとは関係はなく、その人がその世の中をどのように見るかでその人の世界は決定される。

それはそうだろう。
そのひとには、そのようにしか見えないのだから。

だから、ときとして言う「生きていればいいことがある」は、ある意味単なる可能性でしかすぎないので、実のところ何の説得力も持たない。
あれは生きていることにあまり疑問を持たない人の勝手な言い分だ。

誰かに生きていてほしいならば、「あなたがいないとわたしが困るのだ」とただひたすら願うことしかない。
この主張の中には相手は存在せず、ただただわたしのために生きていてくれることを願っているにすぎない。
けれども、この主張にはあなたが生きている意味が存在する。

そうか、自分が生きていると、この人が助かるのか、この感慨が生きている力になり、世の中が違って見える。
もともとは、家族というものもそういう存在だったし、人間関係の基本的な関係はそこにあった。

関係性が世の中を違って見せてくれるのであって、自分にとって意味のない世の中に生きていること自体には、やはり意味はなかったのだ。

関係性こそが人を助け、生かさせてくれる。

そのように思うにつけ、この世の中がどう見えるかに影響を与えるのは世の中をどう変えるかの視点よりも世の中の関係性のあり方がどう変わるかのほうがずっと大事に見える。

少なくともわたしにはそのように感じられる。

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心が動かない

若く、人々に愛された人が、思わぬ病に出合ってしまい、一昨日逝ってしまった。
そういう哀しい知らせを受けたのだが、心が動かない。

欝はそのように心の働きを止める。
その内実は外から見えないものだから、この場合は冷たい男としか映らないだろうし、また別の場合はうずくまっているだけの怠け者としか映りはしない。

とにかく外界との接触を避けたい、この一事だ。

このような状態のときは、何度となく眠りにつく前に、このまま目覚めなければいいと思う。
もう少し元気になれば、目覚めぬための新たな工夫をしようと考えるのかもしれない。

考えてみれば、人はほんのささやかなことで一喜一憂しながら生きているので、それに反応しなくなってしまえば、生きている甲斐さえないように思える。

人一人この世からいなくなったこともささやかなことなのかとなじられれば、いまはそうかもしれないと答えるしかない。

そう答えながらも、その若く、人々に愛された人がこの世から去ったことを悼む気持ちはある。
悼む気持ちはあるが、心が動かないのも事実だ。

犯罪者ものだといわれても仕方あるまい。

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2009年7月23日木曜日

世の中、うまい話はない

「ライフ・アップ」が問題になっていますが、「年金たまご」なんていいネーミングではないですか。
多くの人が金をつぎ込んだようですが、つぎ込みたくもなる今の世ではないですか。

世の中、うまい話はないとは言いますが、もしかしたらと思うのも人間。
そう思った人間のバカさをひと言で否定してしまうような「世の中、うまい話はない」は、どこか今の世の自己責任につなげる風潮が感じられます。

バカは死ねとでも言っているような。

確かに「世の中、うまい話はない」のですが、それでもうまい話に乗るところが、われわれあほな人間たちであり、そのあほな人間たちがうまい話に乗らないような社会を築こうと努力するのが、政治ではないでしょうか。

そうなると、マスコミはどの辺りにたっていればいいのでしょうね。

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草刈民代


知らないとは恐ろしいもので、バレエなど数えるほどにしか観たことはなかったが、NHKで草刈民代の踊る姿を観た。

そのなかで、ジゼルもすばらしかったが、素人目には「白鳥の湖」が圧巻だった。
確かに、数年間の間に草刈民代の白鳥は傷ついた白鳥そのものになっていき、人間的なものはどこにも見られなくなった。

その踊る姿の秀逸さは、まさに白鳥の傷ついた姿の象徴で、よくもまあここまでと感じ入った。
何かに賭けるということはこのようなものなのだと教えられる。

彼女はもう踊りはしないが、あの白鳥はあなたにも見てほしいものだ。
いいものを見せていただいた。

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2009年7月22日水曜日

皆既日食


世間では、皆既日食で大騒ぎだが、わたしにはどうもピンとこない。
好きなものが少ないというか、何かに反応する力が明らかに落ちているのだろう。
哀しいことかも知れない。

そんなわたしが、先の日曜日に環八沿いに虹を見た。
小さな小さな虹であったが、端から端までくっきりと見え、思わず心動かされた。

周りには携帯の写真に虹を収める人たちが何人かいたが、あれは感動を切り売りしてしまうのではないか。
まあ、他人様のすることにいちいち口を出すこともないか。

とにかく、久々に感じる自然からの贈り物だった。

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2009年7月19日日曜日

想像力のなかで生きる

あなたという存在は、あなたに相対する人間の想像力の中にある。
だから、あなたに相対する人間が変わればあなた自身も変わる。
なぜなら、あなたは相手の想像力の中でしか生きていないからだ。

この世に相対するその相手がいない人は、この世に存在しない人だ。
自分の生きるべき想像力がだれのなかもないのだから。

その場合、致し方なく自分の想像力の中に自分を生かしてみる。
しかし、その自分はあまりに頼りなくはないか。

人は、生まれたそのときより誰かに見られ、その想像力の中で生きる。
「いないいないばー」で笑う赤ん坊は、その相手が再び自分の前に現れた喜びで笑うのではない。
相手が見えなくなったときに自分が消失し、相手が現れることによりその消えてしまった自分が再び現れた安堵感に笑うのだ。

人は誰かに見られることで、その人の想像力になかで生きることができる。
言い換えれば、誰かに愛されることで、特別に思われることで、生きることができる。
(だって、しょうもない自分を相手に見て取ってもらったところでうれしくも楽しくもないでしょう)

そのようにお互いが、お互いに、お互いを、好意的に自分の想像力のなかで生かせることにより関係性は保持される。
それはとても個別的な関係だ。

この時代が危ういのは、その個別的関係が結びにくくなってきているからだ。
そのようにこの時代を見ることも出来る。

それは情報過多のなせる業かもしれない。

思ってみればいい。
いま、だれがなんと言おうとも自分のなかで評価できる人がいるだろうか?
多くは、社会の評価を踏まえて自分のなかでその人を生かせているのではないか。

人は想像力の中で生きる。
誰かを深く愛するということは、その人を生かしているということだ。
もっとまともな言い方をすれば、その人が生きる姿の背中に自分をぴったりと貼り付けてあげていることだ。

人が一人で生きにくいというのは、このように自分の手の中に自分がいないせいだ。
もちろん、自分の手のなかに自分をおいておくことを試みた人も多い。
けれどもこの試みは脆弱だ。

人は思っているほどには自分の存在を自分自身では支えることが出来ないのだ。

もし、物語に存在意義があるとすれば、そのひとつは読者をその中で支える行為にあるのかもしれない。
人は他者の鏡なしには生きにくい存在であり、その鏡の質が均一になりかけている現代は、ユニークなあなたにとって、とても生きにくい時代かもしれない。

わたし自身とともにお悔やみ申し上げる。

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2009年7月18日土曜日

知らない悲劇が覆う


評判になっているので「生きながら火に焼かれた」に目を通す。
そのなかで描かれる悲劇はともかく、いまだわたしたちの知らない悲劇がこの世界を覆っているのだという感を新たにする。

それは、差別された民族であれ、女性であれ、身分であれ、さらには動物であれ、森林であれ、構造的には同じで、差別する側には、差別する意識は薄い。
まさにそれは当たり前のこととして、まわりの同じ差別して当然の考えを持つ人たちに支えられている。

だからこそ、その差別する側の考えは相対化されなければならない。
その穴を開ける作業は、おそろしく大変な作業になるのだろうけれど。

この本は、その一例で、この本に書かれている状態をぎゃあぎゃあ騒ぐようなものではない。
そりゃあ、もう、ひどいものだが、このようなことが起こっているのだ。

新疆ウィグル地区でも何があったかわかったものではないし、この日本の社会で起きていることも悲劇として軽いものとは思われない。

この世界は、かくも多くの知られていない悲劇で覆われている。

さて、そこでわたしたちはどう動くか。
問題は、それらの悲劇とは別に自分が生きており、それらの悲劇のうちどれかと連帯するかどうかは自分に任されているということだ。

知ることは大切だが、動く体は一つしか持ち合わせていないというのが、わたしとあなたの現実だ。

はてさて…

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2009年7月17日金曜日

貧しさの共同体

こんな思いつきだけを書くのを許してください。

わたしが、次の社会に望むのは貧しさをみなで共有する社会です。
この貧しさを共有する社会の場合、物を売るという足かせ手かせがなくなるので、ずいぶんと楽になるはずです。

人より多く金を稼ぐという強迫観念を取ってしまえば、人はずいぶん楽になるはずで、貧しさを共有しながら生きていけるのならこんなにいいことはない。

富むことが貧しさより上だったり、長生きすることだけが正義であったり、人は多くのいらぬものを抱えてきました。
その抱えたものを放り出さずに生きていくためには、産業も発展させなければならないし、切り捨てるべき人も出てきます。

革命的な発想というのは、「貧しさを共有しながら生きていく社会」という提案だと思います。

みんなが貧しくなりさえすれば、いまの日本だってそんなに捨てたものではない。

けれども一端手に入れてしまった富を放出することが出来るほど人は自由ではない。
だったら、過疎化した村にそういう貧しさの共同体のような試みは出来ないものか。

日々生きるためだけの共同体は作れぬものだろうか。

日々生きるためだけに過ごす一日一日を、わたしはそれほど惨めな一日とは思わないのだが、それが惨めでないためには、平等の貧しさが必要となるだろう。

生産性が生まれるとき、悪ははびこり始める。

いやはや、つまらぬ殴り書きで、読み飛ばしください。

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センチメンタル・アドベンチャー


映画を見る目を養うためにわたしが見ているとすればクリント・イーストウッドの作品群だ。
(実際のわたしはそのように教養主義ではないので、こう書くのはじつは照れくさい)

そのような思いが若干あるためだろか、今度、出合ったのは「センチメンタル・アドベンチャー」(1982)というイーストウッド作品だ。
息子のカイル・イーストウッド と共演している飲んだくれのカントリー歌手のお話だ。

この話が、どこか「グラン・トリノ」に似ている。
細かい論評はおもしろくもないので避けるが、一人の人間を追いかけていると小説でも音楽でも絵画でも同じなのだろうが、妙な発見をするときがある。

それを隠れていた一貫性の発見などと名づけるのは芸がなかろう。

とにかく、あるときイーストウッドに出合う瞬間が訪れる。
それを醍醐味というならば、イーストウッドを見る醍醐味に違いないのだが。

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ワインを知るために

この話はワインだけに限ったことではないのだが、ワインを知るためには一本のワインを飲み続けるに限る。
そのワインは、あまり安手のワインではよくなく、ある程度の品質が必要だ。

そのボルドーなりブルゴーニュの一本のワインを飲み続ける中で、自分の中のワインの基準を一本引く。

そうすれば、次に飲むワインがその線より上か下かわかるようになる。

そうして、さらにもう一本線を引く。
何本かの線を自分の中に組み入れたとき、ワインがある程度判ったことになる。

広げれば、日本酒でも料理でも同じことだろうと思う。
問題は自分の中に一本の線を持つことだ。
その線を持たないかぎり、そのものの味はぼんやりとしかわからないし、評価は下しにくい。

さらに広げれば、これが、何かを知るときのコツだろうと思う。

映画もまた、同じかもしれない。

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いまだにマイケルが

マイケル・ジャクソンの報道はいまだに続いている。

それは遺産相続や撮影中の火傷や彼の思想性やいろいろとあるけれどもマイケル・ジャクソンの存在はそんなところにはなく、彼はとてもかっこよく歌い、かっこよく踊ろうとした、ただそれだけの存在で、その歌と踊りのコラボレーションが奇跡を産み出したというところにポイントはある。

そこに彼の奇跡が生じ、われわれはその奇跡に息を呑んだ。

そういう奇跡はめったに起こりうるものではなく、歌だけならばピアフもいたし、エルビスもいたし、レノンもいただろうが、踊りもまた同じように何人かの天才をわれわれは持つが、歌と踊りのコラボレーションはマイケルに始まりマイケルに終わっている。
(いまのところは)

そこにだけマイケルの奇跡はあり、軌跡もある。
もちろんマイケルにも思想性はあっただろうし、下らぬ三文ニュースの類は数え切れぬほどあったが、それらは話題にするほどのものではない。

そして、あなたがそれらに興味があればいくら追いかけてもいいのだが、マイケルは前述の奇跡をもって終わる。
そこにしかマイケル・ジャクソンはいないし、価値はない。

才能というものはしばしばそのような形態をとり、その人物の人となりを置き去りにする。
いい人だから、いい作品が産み出せるわけではないのだ。

当たり前のことではないか。
まさか手塚治虫に立派な人格を求めているのでもあるまいし。

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2009年7月16日木曜日

グチ

グチを言ったところで何も解決はしない。
新橋の焼き鳥やでグチを言う親父に新しい明日が来るわけではない。

それは正しい。

それは正しいが、そのグチを言うことで昨日と同じ明日を迎える諦観は生じる。

グチはあるとき、生きながらえる力になる。
それは、何も考えずに風景を眺めることに似ている。
似ているが、グチのほうがかなり下品だ。
かなり下品だけれども、惰性で生きていくときには、それも必要となる。

生きていくというのは、そのように不自然なもので、グチの一つも必要となるときもあるだろう。

そして、もし可能なら、あるとき力強く立ち上がり、歩き始めてほしい。
グチが日常化すれば、すでに何の魅力もない世界に放り出されているわけで、そのとき生きる意味があるかどうかは、難しい。

多分、意味のあるなしは人間関係が決めるので、それでもあなたを必要とする誰かがいるのならば、生きていくことは大切なのだろう。
けれども、なんらの人間関係もそこに持たないならば、はたして前に進む必要があるのかどうか。

それも含めて、人生はあなたの手にあり、グチも必要なときもある。
けれども、グチでは何も解決しない。
しないけれども必要なときもある。

無駄なものが無駄なものとして放擲されるだけのわけはないのだ。

考えてみれば、わたしなどは無駄の塊で、始終その事実に打ちのめされ続けている。

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2009年7月15日水曜日

美しさと好み

美しさは時代が決めるもので、その時代は何かといえば商業主義といってしまってもいいかもしれない。
あるいは、簡単に評判と読んでもいいのかもしれない。

けれどもそれとは別のところに個人的な好みというものがあって、これは時代の選んだ美しさとは異なる。
もちろん個人的な好みからその人に美しさを感じることはあるが、この美しさは厳密な意味での美しさではなく、好もしく感じた心が見る彼女の状態を美しいという言葉で表したに過ぎない。

まさにそれは時代とは別個の好ましさであって、そこに嗜好における個人差が現れる。
もちろんその嗜好は個人の持ったものであるだけで何の波及力も持たない。
持つと思ってしまうのは大きな誤解だ。

そして、時代が演出した美しさもじつは眉唾なもので、波及力を持たないのだが、それがありとあらゆる手練手管で、波及力を持ち影響力を持つ。
けれどもそんなものにあっちに振られこっちに振られしていても、楽しくはなかろうし、出来れば手前勝手な好みを持ちたいとわたしは願う。

ただ、おもしろいもので、この好みというものは行き着くところまで行き着くとある種の一致点を持つらしく、それをある場面で、ほう、この男見る目があるワイとなる。
もちろん、男が女に代わってもよく、この女いい目をしておるワイとなる。

とにかく時代の決めた嗜好が自分の嗜好と一致しているというのは、ときに危なっかしい状態であることは知っておいたほうがよかろうと思っている、わたしに限っての話ではあるが。

わたしにはわたしの好みがあり、あなたにはあなたの好みがあるというわけだ。

ラベル:

2009年7月13日月曜日

あなたに見えているもの

自分の目の前に見えているものが、他人も同じように見ているものだと思うことは眉唾だ。

自分の見えているものと他人に見えているものとは違っている。
だから、何が見えているかで他人と争わぬほうがいい。

煎じ詰めれば、あなたが見えているこの世界はあなたしか見えていない。
まれに、似たようなものを見ているのかもしれないと思える人が登場する。
そういう人は大事にするに限る。

また、自分の見ている世界と違う世界をあなたは見ているのかもしれないと理解している人も、まれに登場することがある。
こういう人も大事にしたい。

多くの人は自分の見ている世界が唯一無二だと思い、それを相手に強要する。
この強要する作業はとても大変なものだから、その前に同じような人種で徒党を組む。
ちょっとした企業に入ってみれば、この徒党の具合はわかるだろうし、生活している日常のなかにもそういうやからはたんといる。

けれども大事なことは、自分に見える世界は自分にとって大事な世界で、ないがしろにしてはならないということと、そしてさらに重要なことは、その自分の世界を少しずつ育てていくということだ。

その育成過程で、自分の見る世界が唯一無二の世界だなどとほざいている、思っている、人間はあまり相手にしないことだ。

素敵な人間というのは、ある食べ物を前にしたときに、

「じつはわたしは、この食べ物があまり好きではないのだが、あなたがこの食べ物が好きなことはなんとなくわかるし、そのことを大切にしてほしいとも思う」

そんなことが言える人だ。

食べ物意外に関してもね。

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武器の整理

物書きであれば、その武器は資料であるのだから、その代表とされる書籍の整理、つまり書斎のごときものはしっかりとさせておきたい。
(まあ、人目から見てめちゃくちゃでも、自分の使い勝手さえよければいいのだけれど)

そのように、鍛冶屋には鍛冶屋の大工には大工の書家には書家の整理の仕方があるのだが、こと書斎に関して考えれば、その書斎の様子で大体のその人の感じはわかる。

わたしはといえば、ひっちゃかめっちゃか。
それが最近の一番大きな反省。
猛省といってよいか。

いらぬ書籍は捨て、資料は大切に、愛着ある書籍を絞り、こじんまりとした書斎を作っておきたい。
多くは、図書館に頼る。
それが、貧乏人の知恵というものだろう。

とにかく、いらぬものを捨てなければ、自分のなかの大切な書籍たちが泣き出しそうだ。

そういうことをふと思った。

こういう流れの中にイチローの野球道具の手入れがある。
イチローの技の秘密が、その道具の手入れに潜んでいるようだ。

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東京都議選民主圧勝

都議選は期待通りの結果にはなったが、その結果、どれだけこの社会が動くかは難しい。

そうわたしは思っている。

いまや不況の中に日本はいるのだが、この不況の脱出は以前のように再び、大きく、何かを売るということではなく、それぞれの個人の生活の縮小にあると、わたしは考えている。

何かを売るといって、エコカーだ、家電の買い替えだと煽っても知れている。
問題は、われわれの生活の消費規模を縮小し、こじんまりとやっていく意識革命にあると、わたしは考えている。

だから、民主党もまた生活の規模の縮小とそのためにどのような道を通ればいいのかを考えなければ再生への道は厳しい。

農業に人がいつかないのは、農業で儲けようとするからで地産地消の中でこじんまりした生活をしていくような共同体をイメージすれば、可能性がないわけでもない。
もうけようとするからいらぬ負担がかかる。

生産レベルからも消費レベルからも弱小国になってもかまわないから、新たな生活ビジョンとそれに対する多くの国民からの賛同、そしてそのシステムチェンジへの道を示すことが出来れば、明日は開ける。

そのために奢侈品産業の多くはとても困ったことになるが、それが一種の柔らかな革命であって、社会変革までも必要とされるいま、一部の人の困った事情は必要になってくる。

これは、ほぼ夢のような話だから、この道に進まない可能性は大きい。
けれども以前と同じような生産拡大、消費拡大を夢見ているとしたら、道は暗い。

この国ほどの人口が生きていくためには、もっとひそやかな暮らしが必要だと思う。

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2009年7月12日日曜日

麻生不信任案

民主党が、麻生に不信任を出すと、自民はこれを拒否する。
一端拒否してしまえば、(麻生支持ということになるので)自民から麻生をおろす選択肢は消える。(自己矛盾だから)

駆け引きというのはこういうものなのだろうが、そういう説明を聞いていると、なにやら今日の選挙、バカらしくもなってくる。

政局遊びはいつまで続くのだろう。

そういえば、政局に乗せられた宮崎県知事は落ち目のご様子。
いくら正論を言っても、乗せられた側には弱みが走る。

政治の世界の暗闇は厄介なようだ。
できれば、明日を見る違う視点が生まれるといいのだが。

さて、本日の選挙に出かけるものかどうか、いま思案しているところだ。

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2009年7月11日土曜日

単一民族

日本が単一民族でないことは、よく知られた事実だが、その日本国内での民族間のあり方は、中国やアメリカやロシアとは大きく変わっている。
もちろん、ゴスニア・ヘルツェゴビナとも違う。

海外の民族紛争には宗教の問題や差別の問題が横たわり、日本よりも過激かつ複雑になっている。
だからといって、日本が過激でなかったかといえば、歴史的にはそんな単純なことはないのだろう。

張亜中・台湾大学教授 によれば新疆ウィグル地区の暴動は発生の背景に三つの要因を挙るという。

まず新中国成立以来の共産党政権の辺境政策、民族政策の矛盾だ。

共産党政権は新疆の石油を極めて低価格で買い上げる一方、工業製品を高価格で売りつけ(辺境を搾取し)た。政治犯収容所や核実験場も設けた。
さらに漢族の入植を大々的に進めた。
1949年には新疆ウイグル自治区の漢族人口は全体の4%だったのにいまは41%に増えている。
これらが新疆のウイグル族の不満や不安を拡大した。

次に91年のソ連崩壊でタジキスタンやウズベキスタンなど(トルコ系民族国家)が独立したことが、同じトルコ系ウイグル族の独立心を鼓舞した。

さらにグローバル経済の進展が中国の民族間所得格差を拡大し、矛盾を増幅している。西部大開発で漢族は大きな利益を得たが、ウイグル族はそれほどでもないからだ。
9・11米中枢同時テロ以降は(イスラム教徒の)ウイグル族に対する内外の警戒・差別が強まり、彼らの孤立感・喪失感を強めた。

その背景を下に暴動のきっかけとして、広東省広州の玩具工場における漢族とウイグル族のトラブルが起こった。
工場経営者は政府の少数民族政策に沿って、1万人の工員中600~800人のウイグル人を雇用していた。しかし南方の広東人とウイグル人では考え方や生活習慣に差がありすぎた。

どちらにしても起こるべくして起こった暴動であり、ひとつの民族が他の民族をがむしゃらに搾取し、勝手放題することは出来なくなってきているのだ。

あの独裁国家中国でさえ、チベットに続いてウィグルなのだから。

では、日本はといったとき、それは自殺の問題として所得格差が吸収されているにとどまる。
大きな暴動は起こらず、無目的な無差別殺人が起きる。

いまのところはそうだが、これは徒党を組んだ暴動に発展するのだろうか。

日本に暴動が起こらないことに関しては、今後、議論する価値があると思う。

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なんとも切ない毎日が

なんとも切ない毎日が過ぎています。

一瞬、一瞬には愉快な時間が過ぎ去ることもありますが、少し離れて眺めてみれば、どの角度から見てみようがなにやら切ないものがうごめいています。

おそらく見る側の癖なのだと思います。

もしも同じような眺めを自分の周りに持っている人がいるのならば、それは自分の目の癖でそのように映るのかもしれない、そう思ってみてください。

ときには、美しい鳥や花や蝶が飛び交います。
花札のように。

それよりも何よりもこの世は恐ろしい速さで進んでいます。
少しサボったと思えば、あっという間にブログが追いつかなくなる。

いくつか書いておかなければならないこともあるのですが、見る側と見られる対象が自分の気分を醸成させるのであって、この世がそのようにつまらないとばかりはいえないのだということをあなたとわたしで確認しておきましょうね。

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2009年7月7日火曜日

七夕の陽

午前中は、陽の光が射しているが、夜には雲が空を覆うのだろうな。

船戸与一の満州国演義の5巻を読む。
なにやら、いまの時代を映しているような本だ。
敷島四兄弟の4つの視点を使ったその手法は、技術の問題でここには取り上げるまい。

それより何よりあのころの満州から世界戦争への道だ。
恐ろしいほど単純で、しかもその流れの中で渦巻く人間たちはそれぞれが十分に複雑である。
時代の流れが、それを怒涛のように流していく。

大阪のパチンコ屋の火事。
犯人はこのごろよくある妙な動機を語っている。
奈良の友人刺殺(?)の少年は何を思っていたのか。

個人の動機でありながら、社会が深く入り込んできているように見える。
それを社会だけで論じるのは片手落ちだが、個人だけに起因させるのはさらに無茶だ。

少なくともいまは、社会のありようを考えたほうがいい。

昔、日本には満州があり、そこに多くの不満を吸収させた。
いま、日本はこの社会に渦巻くわけのわからぬ、解消できぬ不満をどのように裁こうとしているのか。
集団性がないことが救いのこの犯罪は、さらに続いていくのだろう。

もはや、人を殺すのに、人に暴力を与えるのに理由は必要としなくなっている。
刑務所に入ればいいだけのことだからな。

恐ろしい時代に突入したことだけは、お互いに確認しておきたい。

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2009年7月6日月曜日

スイカ


スイカの季節になった。
梅雨があければ、まさに本格的な季節だ。
わたしはどういったものかスイカが好きで、これを食すときには至福の喜びを感じる。

好き嫌いというものはその程度のもので、あまり根拠はないのだろう。
だからこそ大事にもしていたい。

根拠のあるものは、その根拠が揺るげば遠ざかることもあるだろうが、根拠なく好きなものは離れようがない。
人もそうであって、根拠なく好きというのが一番上等ではないのだろうか。

そういえば…、ふと思い出したが何年か前に台湾を旅したとき、花蓮という町にスイカ専門店があった。
スイカをジュースにしたり、切って売ってくれたりしていた。

その店の名が「西瓜大王」

あの国は派手な名前をつけることがあるが、この「西瓜大王」の看板は見るたびに笑った。
そうして、微笑みながらその店でいくつもの西瓜を食したのだった。

思えば、幸せな時間だった。

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2009年7月4日土曜日

社会の状態と犯罪についての関係を考えるとき

この社会との関係性における犯罪考は、おそらく複雑な問題だから、複雑なまま捕らえていかざるをえないように思う。

それには、小説という方法があるが、この方法は捕らえたようでいて捕らえていないかに思える欲求不満が残ることが多い。(それは欠点ではない)

わたしたちは何かを考えるとき、シンプルな答えを求めがちだ。(切れ味さわやかな解答といったものだ)
だから、この世界は複雑だなあという感慨で終わる小説にはあまり感動しなかったりする。

けれどもこの世界の複雑さを一つの物語を通して見せてくれるというのは、それだけで評価すべきことであると思う。
少なくともわたしは。

たとえば、解決策はないとか解決するには困難すぎる道を歩かねばならないという結論であっても、その取り出し方が納得させる作品もある。

思っているよりずっとこの社会の病理は深いとわたしは思っている。
それに何度か書いたようにこの地球で生活するのには、もはや人類は大幅にその人口をオーバーしているという前提が提示されていたとしたらどうだろう。

そりゃあ評論家のようにああだこうだといってまとめるのは心地よいが、大切な問題の中にはとても複雑で気のきいたコトバからするりと逃げ出すものも多くあって、いま起きている犯罪もまたそういった種類の問題かもしれない。

その場合は、決してまとめようとはせず、その複雑さを丸抱えするような立場で相対さなければならないのだろう。
ほんの少しすっきりしただけで、問題が浮かび上がることもあるのだ。

日本の試験でもあるまいし、なんにでも正解があるわけなどないのだ。
そういう保証は、この社会の問題では一般に成立しない。

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なんやらかんやらと犯罪が…

鬱陶しいこの時期にも、殺人をはじめ、あいも変わらず多くの犯罪が起きています。
と書くよりは、殺人が起きていると書いてもいいほど人が殺されていきます。

この事象は、必ずや犯人の非道さが主題にされますが、同時に犯人のメッセージ性もあるのだということを考えなければならない時期に来ていると思います。

だれでもいいから…
死刑になりたかったから…
殺してでも金がほしかった…

を代表とする理解しがたいメッセージは、犯人の問題もあるけれども、社会がわたしたちを押しつぶしてくることへの反逆でもあります。

犯罪が日常性を切り裂く個人の持つもっとも大きな武器だとすれば、その極限は殺人であります。
人が人を殺すとき、何も考えずには殺しません。
考えていないようで考えているものです。

では、何をか?
その発想は、自分とそれほどに遠いものなのか?

自殺と殺人がとても近くにあることを考えれば、自殺者の数の異常さは殺人事件のこれからの増加を十分に推測させます。

犯人の非道さは置くとして。

いま住んでいるこの社会は、われわれを殺人までに追いやろうとしているのではないかと考えてみてもいいのではないかと思います。
一罰百戒などといっている状態はとっくに過ぎているのではないでしょうか。

犯罪自体を掘り下げることでこの社会から何か見えてくるのではないでしょうか。

問題提起の一端として、自分も含めて、忘れないように、ここに記しておきます。

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2009年7月3日金曜日

さらに、マイケル・ジャクソン

マイケル・ジャクソンの奇跡は観たし、感じたが、マスコミの乱痴気騒ぎとそれとは関係ない。

彼の奇跡は、エンターテイナーにおける奇跡で、その奇跡の後処理は(その奇跡による金儲け)マイケル・ジャクソンの得意なジャンルではなかろう。

また、わたしにしても、そのことに関心がないのは今までどおりだ。(遺産配分があるのなら、悪くはないが…)

けれども、マイケルのあの才能の結実としてのダンスは見ておいてよかったと思う。

乱痴気騒ぎに惑わされ、知らずに終わるところだった。

本物もまた見えにくい世の中だ。
偽者が本物に見える世の中でもあるのだが。

加えてしまえば、人に対する正確な評価というのは、評価するその目によるので、これは評価する人間への信頼が重要だ。
けれども、マイケル・ジャクソンのそれは抜けている。(別格ということだ)
というわけで、わたしにも彼のダンスのすごさがわかった。

こういうことはあまりない。

誰にだって、羽生善治がわかるはずはない。
ジャンルによっても、こういう話は違ってくる。

ただ、金にうるさい連中は、そんなことには関係なく、金のにおいをよく嗅ぎわけて集まってくる。
集まってくるが、それは、その才能の持ち主の欠点ではない。
弱点ではあるだろうが…

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2009年7月2日木曜日

ビリージーンを観る


「you tube」ではあるが、ビリージーンを観る。
http://www.youtube.com/watch?v=p2nTSbHfJvk

これは恐ろしいものだった。

ある知人が、マイケル・ジャクソンを軽くみてはいけないと教えてくれたからのことであるのだが、なんとも、もはや、わたしはマイケル・ジャクソンを知らなかった。

あのビリージーンの映像だけで、マイケル・ジャクソンの恐ろしさはわかった。
彼の個人史は知らないが、大変失礼な言をここに書いた。

マイケル・ジャクソンは恐るべき人間であった。
それが、彼の幸せにつながろうが、人間的な尊厳につながろうが、そんなことはどうでもよかった。
彼は、奇跡をやって見せた。

こういう人間が、たまには現出するのだということに、まことにもって、恐れ入った。
そして、マイケル・ジャクソンの死を奇跡の消滅のような感じをもって悼みたく思った。

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イチローくらいになると

イチロー選手くらいになると、ノーヒットであったことがニュースになる。

むかしの噺家に今年の十大ニュースに親孝行の息子が現れたなんて出たら、世も末ですな、などというマクラがあったが、イチローのこのノーヒットがニュースになるというのも考えれば、すごい。

それと、なぜにわたしがここまでイチローを思うかというと、おそらくイチローの日常がわたしの思う日常と違う位相にあるだろうからだ。

違う位相に行くことが出来るならば、人は違うように生きられる。
それが、ある種の人々の願いだ。

毎度、書くようにこんな考えにとらわれず、にこやかに生きていければ、こんなすばらしいことはないのだが。
そういう人々はどのくらいいるのだろうか。

ふと「トニオクレーゲル」を思いますね。

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つゆ

鬱陶しい日が続く。
梅雨が本格化し始めたのだ。

「アメリカには梅雨(つゆ=汁)はないそうですな」
「え、ほんとうですか?」
「……スープだそうです」

ただ、それだけの話なのですが、こんなに解説が付いてはおもしろくありませんな。

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復習するは我にあり


「復習するは我にあり」は、第74回直木賞獲得の佐木隆三の犯罪小説で、5人を殺害した西口彰事件を題材にした作品である。
映画化もされており、緒形拳主演で評判を呼んだ作品でもある。
今村昌平監督はこの作品で、ブルーリボン賞と日本アカデミー賞を受賞している。

まあ、それはそれとして、いつものようにこのところ力が抜けて、そういう本をまたぞろ本棚から引っ張り出してきて読んでいるが、どうしたものか主人公、榎津巌に偏った読み方をしてしまう。

彼が悪い奴とは思えぬのだ。(悪いことをしているのはわかるのだが、どこか胸の奥に共感があるのだ、困ったことに)
つまり、どちらかといえば、同類だという意識が。

わたしの精神の病みもあるのだろうが、困ったものだと思い読んでいる。
それでも少しずつ本が読めるというのはうれしいものだ。

それは少しずつ書けることにつながるような幸せな雰囲気もどこかにうっすらとある。

先日、「書」を続ける人と少しお話をした。
それは、その人が「書」をやっているということだけが理由ではないのだろうが、この人は妙に曇りがない声を出す。
声だけでもまぶしい。

わたしはといえば、スリガラスが体中にまとわりついているようなものだ。

生きるということは、あるひとにとってはなんと明るく、輝いているのだろうかという幻想を抱いてしまう。

明るい人はその振る舞いの中だけでも明るさを発し続ける。
それは、一種の人の世の功徳のようなものだ。

そうやって考えていってみれば、榎津巌とわたしがなぜに同類かも次第にわかってくる。

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