2009年7月29日水曜日

個人的感情と社会

個人的感情と社会は、別の動きをしている。

たとえば拉致問題がそうだろう。
個人の救済としてはなんとしても取り返さなければならないが、国際政治の中ではカードの一枚にしか過ぎない。

刑事事件の加害者の有利さもそうだろう。
被害者感覚に立てば、推定無実(疑わしきは罰せず)なんて、とんでもないと思うだろうし、加害者のプライバシー保護も過剰すぎると思うかもしれない。

けれども、それが国家権力に対する一つの防壁になっていることを考えると、存在意義はあるだろう。

たとえば、9・11以降のアメリカでは推定有罪であるかのような態度をとって、アラブ人をバンバン締め上げた。
軍隊においても同じような捕虜に対する扱いをした。
それを抑えるための推定無実だったが、壊れてみれば明日にでも自分が権力に引っ張られるか知れないとわかる。

今のアメリカはそのゆり戻しで推定無罪に向かっている。

被害者の個人的な感情を救済しなければならないのは言うまでもないが、無実の加害者を産み出すのも決して許されるものではない。

比較するものではないが、魔女狩りに代表される歴史は営営と繰り返され、そのなかに推定無実の発想は育った。

個人的感情とは別の次元だ。
さらにいえば、個人的被害感情は極めて哀しい場所に置かれている。
その救済をいかにするかは、残念ながら難しい。

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