2009年7月24日金曜日

世の中がどのようであろうと

世の中が実際にどのようであろうと、それとは関係はなく、その人がその世の中をどのように見るかでその人の世界は決定される。

それはそうだろう。
そのひとには、そのようにしか見えないのだから。

だから、ときとして言う「生きていればいいことがある」は、ある意味単なる可能性でしかすぎないので、実のところ何の説得力も持たない。
あれは生きていることにあまり疑問を持たない人の勝手な言い分だ。

誰かに生きていてほしいならば、「あなたがいないとわたしが困るのだ」とただひたすら願うことしかない。
この主張の中には相手は存在せず、ただただわたしのために生きていてくれることを願っているにすぎない。
けれども、この主張にはあなたが生きている意味が存在する。

そうか、自分が生きていると、この人が助かるのか、この感慨が生きている力になり、世の中が違って見える。
もともとは、家族というものもそういう存在だったし、人間関係の基本的な関係はそこにあった。

関係性が世の中を違って見せてくれるのであって、自分にとって意味のない世の中に生きていること自体には、やはり意味はなかったのだ。

関係性こそが人を助け、生かさせてくれる。

そのように思うにつけ、この世の中がどう見えるかに影響を与えるのは世の中をどう変えるかの視点よりも世の中の関係性のあり方がどう変わるかのほうがずっと大事に見える。

少なくともわたしにはそのように感じられる。

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