2009年7月17日金曜日

貧しさの共同体

こんな思いつきだけを書くのを許してください。

わたしが、次の社会に望むのは貧しさをみなで共有する社会です。
この貧しさを共有する社会の場合、物を売るという足かせ手かせがなくなるので、ずいぶんと楽になるはずです。

人より多く金を稼ぐという強迫観念を取ってしまえば、人はずいぶん楽になるはずで、貧しさを共有しながら生きていけるのならこんなにいいことはない。

富むことが貧しさより上だったり、長生きすることだけが正義であったり、人は多くのいらぬものを抱えてきました。
その抱えたものを放り出さずに生きていくためには、産業も発展させなければならないし、切り捨てるべき人も出てきます。

革命的な発想というのは、「貧しさを共有しながら生きていく社会」という提案だと思います。

みんなが貧しくなりさえすれば、いまの日本だってそんなに捨てたものではない。

けれども一端手に入れてしまった富を放出することが出来るほど人は自由ではない。
だったら、過疎化した村にそういう貧しさの共同体のような試みは出来ないものか。

日々生きるためだけの共同体は作れぬものだろうか。

日々生きるためだけに過ごす一日一日を、わたしはそれほど惨めな一日とは思わないのだが、それが惨めでないためには、平等の貧しさが必要となるだろう。

生産性が生まれるとき、悪ははびこり始める。

いやはや、つまらぬ殴り書きで、読み飛ばしください。

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