2009年7月15日水曜日

美しさと好み

美しさは時代が決めるもので、その時代は何かといえば商業主義といってしまってもいいかもしれない。
あるいは、簡単に評判と読んでもいいのかもしれない。

けれどもそれとは別のところに個人的な好みというものがあって、これは時代の選んだ美しさとは異なる。
もちろん個人的な好みからその人に美しさを感じることはあるが、この美しさは厳密な意味での美しさではなく、好もしく感じた心が見る彼女の状態を美しいという言葉で表したに過ぎない。

まさにそれは時代とは別個の好ましさであって、そこに嗜好における個人差が現れる。
もちろんその嗜好は個人の持ったものであるだけで何の波及力も持たない。
持つと思ってしまうのは大きな誤解だ。

そして、時代が演出した美しさもじつは眉唾なもので、波及力を持たないのだが、それがありとあらゆる手練手管で、波及力を持ち影響力を持つ。
けれどもそんなものにあっちに振られこっちに振られしていても、楽しくはなかろうし、出来れば手前勝手な好みを持ちたいとわたしは願う。

ただ、おもしろいもので、この好みというものは行き着くところまで行き着くとある種の一致点を持つらしく、それをある場面で、ほう、この男見る目があるワイとなる。
もちろん、男が女に代わってもよく、この女いい目をしておるワイとなる。

とにかく時代の決めた嗜好が自分の嗜好と一致しているというのは、ときに危なっかしい状態であることは知っておいたほうがよかろうと思っている、わたしに限っての話ではあるが。

わたしにはわたしの好みがあり、あなたにはあなたの好みがあるというわけだ。

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