2009年7月17日金曜日

いまだにマイケルが

マイケル・ジャクソンの報道はいまだに続いている。

それは遺産相続や撮影中の火傷や彼の思想性やいろいろとあるけれどもマイケル・ジャクソンの存在はそんなところにはなく、彼はとてもかっこよく歌い、かっこよく踊ろうとした、ただそれだけの存在で、その歌と踊りのコラボレーションが奇跡を産み出したというところにポイントはある。

そこに彼の奇跡が生じ、われわれはその奇跡に息を呑んだ。

そういう奇跡はめったに起こりうるものではなく、歌だけならばピアフもいたし、エルビスもいたし、レノンもいただろうが、踊りもまた同じように何人かの天才をわれわれは持つが、歌と踊りのコラボレーションはマイケルに始まりマイケルに終わっている。
(いまのところは)

そこにだけマイケルの奇跡はあり、軌跡もある。
もちろんマイケルにも思想性はあっただろうし、下らぬ三文ニュースの類は数え切れぬほどあったが、それらは話題にするほどのものではない。

そして、あなたがそれらに興味があればいくら追いかけてもいいのだが、マイケルは前述の奇跡をもって終わる。
そこにしかマイケル・ジャクソンはいないし、価値はない。

才能というものはしばしばそのような形態をとり、その人物の人となりを置き去りにする。
いい人だから、いい作品が産み出せるわけではないのだ。

当たり前のことではないか。
まさか手塚治虫に立派な人格を求めているのでもあるまいし。

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