2009年7月19日日曜日

想像力のなかで生きる

あなたという存在は、あなたに相対する人間の想像力の中にある。
だから、あなたに相対する人間が変わればあなた自身も変わる。
なぜなら、あなたは相手の想像力の中でしか生きていないからだ。

この世に相対するその相手がいない人は、この世に存在しない人だ。
自分の生きるべき想像力がだれのなかもないのだから。

その場合、致し方なく自分の想像力の中に自分を生かしてみる。
しかし、その自分はあまりに頼りなくはないか。

人は、生まれたそのときより誰かに見られ、その想像力の中で生きる。
「いないいないばー」で笑う赤ん坊は、その相手が再び自分の前に現れた喜びで笑うのではない。
相手が見えなくなったときに自分が消失し、相手が現れることによりその消えてしまった自分が再び現れた安堵感に笑うのだ。

人は誰かに見られることで、その人の想像力になかで生きることができる。
言い換えれば、誰かに愛されることで、特別に思われることで、生きることができる。
(だって、しょうもない自分を相手に見て取ってもらったところでうれしくも楽しくもないでしょう)

そのようにお互いが、お互いに、お互いを、好意的に自分の想像力のなかで生かせることにより関係性は保持される。
それはとても個別的な関係だ。

この時代が危ういのは、その個別的関係が結びにくくなってきているからだ。
そのようにこの時代を見ることも出来る。

それは情報過多のなせる業かもしれない。

思ってみればいい。
いま、だれがなんと言おうとも自分のなかで評価できる人がいるだろうか?
多くは、社会の評価を踏まえて自分のなかでその人を生かせているのではないか。

人は想像力の中で生きる。
誰かを深く愛するということは、その人を生かしているということだ。
もっとまともな言い方をすれば、その人が生きる姿の背中に自分をぴったりと貼り付けてあげていることだ。

人が一人で生きにくいというのは、このように自分の手の中に自分がいないせいだ。
もちろん、自分の手のなかに自分をおいておくことを試みた人も多い。
けれどもこの試みは脆弱だ。

人は思っているほどには自分の存在を自分自身では支えることが出来ないのだ。

もし、物語に存在意義があるとすれば、そのひとつは読者をその中で支える行為にあるのかもしれない。
人は他者の鏡なしには生きにくい存在であり、その鏡の質が均一になりかけている現代は、ユニークなあなたにとって、とても生きにくい時代かもしれない。

わたし自身とともにお悔やみ申し上げる。

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