2008年11月29日土曜日

赤めだか


「赤めだか」立川談春著

談志を含め、談志一門のことに目が開かされるいい本である。
先ほどの「型」のこともその中に触れられる。

談志は極めてわかりにくい噺家で、その部分で大きく好き嫌いは変わるだろう。
そのわかりにくさをだいぶ解いてくれる作品である。

談志は「ゆらぎ」そのつど激しいからそばにいる人間はやりにくいだろうし、弟子はわからないまま付き合っているととんでもない目に会う。

それでいて、魅力的であるのは彼の持つ芸のためである。

芸談を話させれば、当代一の落語家といっていいかもしれない。
わたしもずいぶん教えられた。
しかし、それと話とはまた別で小三治の味は談志には一生でないだろうしその線を狙ってもいないだろう。
だが、小三治の味は捨てがたく、彼の話との向かい方も捨てがたく、わたしは強く小三治を愛する落語ファンである。
そして、小三治の高座を目の当たりにすると安心する。

談志ではこうはいかない。
ある種の緊張感が漂う。

どちらをよしとするかは客の嗜好の問題であろうし、その規約の嗜好も揺らぐ。

とにかく今回「赤めだか」を読んで、わたしは少し談志がわかった気がした。

ラベル:

「型」の出来ていないものが、自分の工夫で好き勝手やっていると「型なし」になってしまう。
「型破り」とはある種ほめコトバだが、こうなるためには、しっかりと「型」を作らなければならない。

あらゆる創作で通用する話だろうが、ピカソのデッサンや熊谷守一のデッサンを思うときに得と納得する。

また、落語などの話芸にしてもへたくそが型破りにやっている舞台は見るに忍びない。
「型破り」ではなくてしっちゃかめっちゃかな「型なし」になっているからだ。

それだからこそ、芸事のはじめは模倣から始まるのであり、無駄に型ばかりを押し付けているのではない。

魅力的なオリジナルを創出するために通らなければならない道なのだろう。

ラベル:

2008年11月28日金曜日

長井 秀和

久しぶりに見た長井秀和がテレビで謝っていたが、どうやらかみさんと別れた件らしい。
別に謝ることでもないだろう。
女出入りがあってとのことだが、そういうこともあるだろう。

男とはまことに間抜けな動物で、それがたまたま世間に認められるようになるかどうかだけのことで、間抜けであることは一部の例外を除いては「間違いない!」(なあ、長井くん)

長井を取り上げるならば、2007年の9月にアメリカにわたり、翌年の4月からはニューヨークでのライブがそこそこ成功していることを取り上げるべきで、マスコミのニュースバリューのセンスの悪さはきりがない。

長井の誤っている姿を見て全くもって情けなくなってきた。
世間の間尺に合わせなくてもいいのだよ、芸人くらいは。

所詮、河原こじきではないか。

ところで、タイやインドで大騒ぎだが、日本は内定取り消しや自動車会社で一万弱の季節工の首切りを行使したが、血しぶきは舞わずに静かに野垂れ死んでいくのかねえ。

せめて過疎の田舎にひと冬暮らせるような簡易住居を国が作り、農業にてこ入れしたらどんなもんだろうかな。

穀物がどんな状況になってきているか。
ウクライナの穀物買占めくらいは検討しているのでしょうな。

まあ、平和な国なことで…

ラベル:

渡辺勝つ


第21期竜王戦第4局
大逆転で渡辺勝つ。
只者ではなかったわけだ。

将棋では、あきらめないという要素ははなはだ大きく、(まあ将棋に限ったことではあるまいが…)この将棋も大きな逆転劇であった。
後1、2局楽しませてくれるかもしれない。

こういう勝利が大きい。

いやあ、立派なものだ。

ラベル:

2008年11月27日木曜日

第21期竜王戦


本日は第21期竜王戦第四局が戦われている。
ここまで、羽生の3連勝。
渡辺は一勝も返していない。

こういうことは羽生将棋にはよく出現する。
羽生に悪気はない。(大山との違いだ)
ただいい将棋を指そうと目指すだけである。
その結果、3番棒に勝つ(5番勝負で3-0の結果)、4番棒に勝つ(7番勝負で4-0の結果)という番勝負が数多く現れている。

これをやられる側はきつい。
その結果、羽生には勝てないのではないかという強迫観念にとらわれたりもする。

それでもと佐藤康光や森内俊之はやってきたし、羽生に格付けをさせなかった。(もちろん羽生のどこにもその意思はない、いい男なのだ)

佐藤、森内は確かに羽生は強いが、かならずしも負けると決まったわけではないとしてきた。

渡辺が今回4-0で敗れれば羽生に対して初めての経験になる。
渡辺明、まだまだ途上の棋士である。

誇り高く胸を張って生きていってほしい。
厳しき勝負の世界の中で。

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ちゃんぷる亭20周年

23日夜は、武蔵境にて、ちゃんぷる亭20周年に参加した。
参加するべき人間でもなかったが、参加すれば、20年の重さを感じる。
参加すべきでもなかったと思うのは、わたしがちゃんぷる亭とともに歩いたのは20周年の永木に渡ったからではないからだ。
わたしが歩いたのはせいぜい7,8年ではなかろうか。

多くの見知らぬ顔があり、時折、見慣れた顔も目にする。

こういうことが生きていくことなのだろうかとも思った。
最近、巷間に「みのたけの春」という名作が登場したとも聞く。
何も誰もが大志を抱く必要もない。

そこにそうして生きていればいい。
そして、そういう人々の結び目となるような店があれば十分だろう。

そういうことを感じた夜であった。

その後はなだれ込むような夜となったが、それも致し方なかろう。
身から出た錆というか、錆だらけのこのわたしである。

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23日、那由多さんとの会話

那由多さんは塩見さんの長男坊だ。
漢字が間違っているかもしれないが、それはあらかじめ謝っておくことにする。

彼は鉄道に詳しく、二、三教えてもらった。
いい青年だ。

南千住は刑場の関係でそのあたりには多くの人骨が出たりしていた。
事実、コツ通りなどという名前もあるし、土地の値段も安かったのだろう。
そこに当時の国鉄は大きく土地を買いあげ、貨物駅を作った。
俯瞰すればかなり広い場所にある貨物列車が乗り入れる空間は壮大な景色だった。

ここに、たとえば北海道のジャガイモなどは一挙に搬入され、仕分けされる。
輸送貨物が大量になると国鉄貨物列車は威力を発揮し、運送の安さと二酸化炭素の排出量の少なさで、いまや徐々にその価値は見直されているらしい。

そういう動きがあることを露とも知らなかった。

なるほどと納得させられた。

ちなみに貨物専用の時刻表というのがあって、それは特殊な場所に行くと手に入るものだが、少少お高いらしい。
物を知っていることのよさを、那由多さんから教わった。
なにやらすがすがしかった。

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23日の散策での塩見さんとの会話

散策の折、ふと話が横道にそれ「律速」について話した。
そのことをここにメモしておきたい。

「律速」とは、化学工学などの反応速度を論じる分野で使われていることばです。 「全体の反応速度を決めているのは何か」という問題を扱うときに使います。

素人考えでは、あるものがその複合反応速度を決定するときにその反応速度を決定しているそのものに焦点を当てる考え方です。

一般的には、
生協で長蛇の列ができているとき、それを複合反応速度と見立てて、
おぼんが足りない → 『おぼん律速』
おかずを分けるおばちゃんが足りない → 『おばちゃん律速』
レジのお姉さんの仕事が遅い → 『お姉さん律速』
などと理系の訳知り顔のお兄ちゃんやお姉ちゃんがたまに使います。

問題になっている「律速」を排除しなければ全体は動かないし、律速を問題外にして他がいくらがんばっても滞りは増えるばかりで、何の解決にもなりません。

そこで「おばちゃんに律速」とか掛け声を出して反応速度を調整したりします。

反応速度の速さでけを正義と見ない、自分たちに見合った速度を見抜いていこうという姿勢で、わたしは好感を覚えます。

もちろん反応速度を上げたければ、「おばちゃん」の部分をてこ入れすれば、律速は変化します。

長くなりましたが、わたしが言っていたのはこういうことで、オーディオもパソコンも律速している部分に手を入れなければ、その処理されるものの質は上がりません。

スピーカーだけよくしてもいい音は流れ出さないわけで、そこに律速という概念を知っているかどうかの面白さがあると思います。

追加しておけば、

律速段階
逐次反応において最も遅い素反応(過程)を律速段階(りっそくだんかい、rate-determining step)と呼ぶ。あるいは律速過程とも言う。それは最も遅い素反応(過程)が、複合反応の反応速度に対してつよい影響を及ぼし、その反応の振る舞い決定づける為である。

律速は、化学工学などの反応速度を論じる分野で使われていることばです。 「全体の反応速度を決めているのは何か」という問題を扱うときに使います。

ラベル:

23日の散策


この日は、塩見鮮一郎氏らと南千住から北千住までを歩いた。
現代の町の中に垣間見える歴史を話して頂いていたものだから、街がまるで違って見えてきた。
重層的に見えたというわけだな、と思う。
そういう目を人は忘れていく。
「三丁目の夕日」という映画はまさにそのあたりをついたのだろうが、塩見さんの話とは決定的な違いもある。それは塩見さんの本を読むことで見えてくるわけだから、彼の著作に譲るとする。

写真は小塚原刑場跡にある延命寺の首切り地蔵だ。
このあたりだけからも江戸の暮らしがほうふつと開いてくるところが、不思議だ。
人は実社会以外にも多くのものを見ることが出来る。
そこに花開く文学や絵画やマンガや映画…がある。
それはときとして、実社会以上の力をもつこともある。

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2008年11月23日日曜日

バンディッツ



いい映画かどうかはどうでもよかった。
ケイト・ブランシェットが出演していたから見た。
「バンディッツ」はそういう映画だ。
もちろん映画としてもそんなにひどい映画ではない。

しかし、問題はケイト・ブランシェットだった。

そういうことはある。

あるのじゃないかな、あなたにも。

いいの悪いのと言っていられない。
評価の前に来るもの。
評価以前に自分の態度が決まってしまうもの。
いいから進め、悪いから止まれではなく、その前に決定的に自分に語りかけてくるもの。

それをひいきといってもいいのだが…

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切り取りまとめる

「切り取りまとめる」

それがこの世界を語るときに人の使う手法だ。
もう少しやわらかく具体に言えば、それが人を語り、出来事を語るときの人の使う手法だ。

この手法には致し方ないところがあり、手法自体を批判することは出来ないが、そういう手法を自分が採用していることを自覚することはとても大切なことだ。

誰かを思うとき、人はその人のすべてを受け止めてその人の全存在を思うことはできない。
批判するときも愛するときもだ。

そのとき人は自分の中に「仮想のその人」を作る。
このブログではその作業を「切り取りまとめる」と荒っぽく言い換えた。

人が誰かに対するとき全的に対することはない。(特殊な場合を除いては)
自分が作り出した「仮想のその人」と切り結ぶのだ。
したがって、「仮想する力」によって、そこに立ち現れるその人はそれぞれの人によって違う。

最も重要な要素をぱらぱらと乾いた砂のように落としながらその人を仮想する人もいれば、ただひとつだけのその人の美的要素を後生大事にしながら仮想する人もいる。

問題は、向き合ったその人は、その出来事は「あなたが作り出した仮想の人であり出来事」であるという認識だ。
もちろん仮想は現実と無関係ではなく十分関係を持っている。

だから、ときとして人は自分の相対するものが現実と思うかもしれないが、そこには多分に「仮想」という要素が入っている。

もちろんすでにこのことをご存知の方も多かろうが、自戒の意味も込めてここに記しておくことにします。

ラベル:

メタファーではあるのだが

日本では、鍵やコンセントについて男女の関係を使った下卑た比喩がある。
それはそれでいい。

タイやインドネシア…すべて調べてはいないが東南アジアでは違う。
たとえばタイではこうなる。

南京錠でいえば鍵を差し込まれる側を「メー・クンチェー(カギの母)」と呼び、鍵のほうを「ルーク・クンチェー(カギの子)」と呼ぶ。
では、父はどこへ行ったのかといえば、そこら辺でフラフラ遊んでいるわけで、きわめて影が薄いのだ。
そういう国が東南アジアにはいくつもある。

というか、それがアジアのあり方だったのかもしれない。

男とは本当にだめなもので、祭りや戦争となると深く考えずに急にがんばったりする。
単純な動物だなア、と思う。

生活ということがどういうことか、それを支えるということがどういうことか、よくわかっていない。

日本も同じ状況なのだが、どういう加減だか、男も働くようになった。

男なんぞはそういうものではないのだ。
あっちへフラフラこっちへフラフラ――まことにもってどうしようもない生き物なのだ。

なぜそのように断言できるかといえば、かく言うわたしがまぎれもない男だからである。

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2008年11月22日土曜日

PASONA

農業への労働力流入という視点を何回か述べたが、すでに大手派遣会社の「PASONA」が動き始めているらしい。

考える人は考えているということだ。
もちろんこれまでにも農業という分野をビジネスに変えようと取り組んだ企業はあるが、うまくはいっていない。
それは労働力をいかに過疎の村に導入するかという視点とは別のところでの動きだからだろうというのがわたしの見解だ。
(まあ、何もやりもしない人間のいうことではないが)

「PASONA」の場合は人を送るというところに特化しているのでこれまでのファーストリテイリングたちとは少し違う。

けれどもこの試みは政治をどうしても巻き込む必要があり、そうでないとあまりにもスムーズにいかないのだ。
お上からの認可をあまりにも多く必要とするからなのだが。

たとえば、そのうちのひとつは耕作するにはその土地を所有していなければならないというのがあるが、これなどは大きな障壁になっているのだろう。

詳細については、さらに調べていかなければならないが、とにかく農業への特化は緊急課題だ。
これは決して机上の空論として論じられる問題ではなく、その意味では、こういう場所に書いているのは自家撞着そのものだが、鍬持つ手が語る話なのである。

ラベル:

どんな人間も、孤島ではない

実体経済のことを書いてきたが、それまで振り回され続けてきたのは、そしてわれわれが今も振り回され続けているのは仮想経済である。
そしてこの現実にはありもしない経済はわれわれの思っているよりはるかに難物で、起こりうるかもしれない夢を見させてくれるし、目覚めて現実に戻ることにより、現実という場所で結果としての負債を受け取ることにもなる。

ところで、これは経済の話だが、話をさらに広げれば「仮想」というものは経済に限らずわれわれにさまざまな影響を与えている。
その一端は、本屋に並ぶ無数の小説たちを眺めてみればわかるだろう。
小説の世界はすべて仮想の世界である。
ただし、現実とまったくはなれたところにあるかというとそうでもないところが、さらにことを複雑にしている。

「雑魚は群れる」と書き、しかしながら群れることはそうそう悪いことばかりではないと主張したのは、群れることによって「仮想世界」に生きることが容易になるからだ。
ひっくり返して書けば、それほど現実世界は直接に向き合うに傷つけられやすい世界だともいえよう。

しかしながら、帰るべき場所は現実であっていつまでも「仮想世界」にいられるわけではない。
ところが、もう一度書くが「仮想世界」は、現実世界とまったく別のところにあるかというとそうではなく、その関係性は対峙しているわけではなく、ある場合には現実世界に対する観照のよすがともなる。

そういう仮想世界を自分の中に持つことは生きていく上でときに必要になってくる。

「雑魚は群れる」でいいではないか。
そうすることで自分が少しでも生きやすくなるならば群れてしまったほうがいい。

ただ、雑魚にもいろいろいることは知っておく必要はあるだろう。

いらぬことを書いておけば、「オレオレ詐欺」もまた「仮想世界」を老人の前に現出させて、老人の現実の金を自分の懐に入れるテクニックからなっている。

ラベル:

2008年11月21日金曜日

麻生太郎の読み間違え

麻生氏の読み間違えの話が巷をにぎわしていたが、あの殺人事件で忘れられていくようだ。
あの殺人事件は重要な出来事であるが、麻生氏の読み違えも彼を首相として抱くわれわれとしては重要な話だ。

もう少しはっきり書けば、読み違えたことが問題ではない。
読み違えなど誰しもある。
わたしも長く「順風満帆」や「快哉」を正確に読めなかった、というよりは間違って覚えそれを信じきっていた。
だが今は違う。
その間違いを教えられたからだ。

麻生氏もいい年のオジサンなのだからマンガばかり読んでいたとしてもあの間違いはどこかで指摘されていたのではないか。
にもかかわらず、そのまま間違い続けた。
問題は、読み間違えたことではなく、読み間違え続けたことである。

これは決定的に違う。
間違いを変更できない人間は世間にあまたいる。
そういう連中は、すべて自分のもち札でことを解釈しようとする。
そしてまずいことにすべてのことはたいてい自分のもち札で解釈できてしまう。
その解釈の質を問わなければの話だが。

どうやらわれらが総理大臣は、自分のもち札で物事を解釈する御仁のようだ。
それもかなり貧弱なもち札で。

総理大臣などとという役職はいわば「将の将たる」役職で「兵の将たる」役職ではない。
したがって、有能な奴を見極める力こそ重要で、後はそいつらに任しておき、しかる後に責任をとればいい。
別に本人が万能である必要などどこにもなく、薄ぼんやりしていたほうがよいくらいのものだ。

今回のいい間違えの問題は、あのお坊ちゃんは自分が有能だと自覚するほどに阿呆らしいというところにある。
間違いを間違いとして認めるのはきわめて高い自己認識能力と判断能力によるものでそうそう人が持てるものではない。
多くの人に期待はしないが、総理大臣くらいには期待したかった。

けれども今回もまったくだめらしい。

もはや政治家に人物はいないのかもしれない。
最も政治家ばかりの話でもないのだが…

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ドバイ

ドバイと言えば、2003年以降の発展は特に凄まじく、2004年の後半から続く原油高がその発展を更に後押ししている。2005年度の経済成長率は16%と高い成長率を見せており、2007年の実質GDPは1980億ディルハム(約6兆円)にまで達している。人口も220万人を超えたドバイは摩天楼の連なる幻惑的な都市国家として中東でも随一の繁栄を誇っている。
その都市開発も恐るべき力量で世界のクレーン車の三分の一はドバイに集まったなどとまことしやかに語られた。
砂漠に咲いたあだ花だ。
そのドバイ政府が以下のごとく声明を発表した。

ドバイ政府、金融危機対応で委員会 資金逃避の阻止ねらう
 アラブ首長国連邦(UAE)のドバイ首長国政府は、金融危機がドバイ経済に与える影響を調べ、対応策を立案する委員会を設置した。ドバイでは不動産部門を中心に景気減速への懸念が急速に広がっている。委員会は政府系デベロッパーや証券取引所のトップなど政府・経済界の要人6人で構成。包括的な対策を打ち出すことで資金逃避を食い止め、信用を回復する狙いがあるとみられる。

 ドバイ財務局幹部が講演で明らかにした。地元紙によると、委員会は不動産や金融部門が抱える借り入れの状況を調べ、ドバイの政府機関や政府系企業の債務への対応をまとめる。一連の対策をムハンマド首長に提出したうえで公表するという。

かような面にも実体経済の破綻は見える。

繰り返しておくが、ドバイは現在もっとも大きく発展を遂げている都市である。(あったか…)

ラベル:

雑魚は群れたがる

「雑魚は群れたがる」は談志のよく語る言だが、まことにそういうものであり、同時にそれはそれでなかなかに精神的によろしい。

まず第一に群れていれば孤独感にさいなまれない。
自己の生き方に自信がもてる。(何の根拠もないが)
このようなことは生きていくうえではとても重要で、群れていないと、群れることが出来ないと、その恩恵に浴せない。
浴せなければおのれ一人でその孤独や不安を処理しなければならないが、そこが問題だ。

最初に出した談志とて立川流というものを打ち出し、擬似的に群れを作る。
どこかに何某かの群れを作ることはとても大事なことだ。

しかし、同時に雑魚のように群れては哀しい。

このあたりの加減をしてその人の生き方というのだろう。

というわけで、胸を張って群れて生きようではないか。
お互いに弱者なのだから。

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ガソリンスタンド

 【ニューヨーク=米州総局】20日朝のニューヨーク・マーカンタイル取引所(NYMEX)で原油先物相場は続落した。WTI(ウエスト・テキサス・インターミディエート)で期近の12月物は一時、前日比3.71ドル安の1バレル49.91ドルまで下落した。50ドル台を割り込むのは2007年1月中旬以来、約1年10カ月ぶり。今年7月に最高値(147.27ドル)を記録した後、4カ月で約3分の1の水準に落ち込んだ。

ガソリンスタンドの業界団体、全国石油商業組合連合会(全石連)は十八日、人口減に伴う経営難などで全国的にガソリンスタンドが減少した結果、青森、長野、奈良など三十二都道府県の百五十三町村が、今後、スタンドがなくなる恐れがあり、対策が必要な“スタンド過疎地”になっているとの調査結果を発表した。全石連は自動車が生活に欠かせない山間地などで支障が出る可能性があると警告している。

クルマに乗っている人間なら、いや、そうでなくても家の周りを見てもガソリンスタンドが減り続けているのはわかるかもしれない。

経営にはフローが重要で、金が流れないと立ち行かないのだ。
そのフローが原油の大幅な上げ下げでの消費者の右往左往で左右されれば、資金力のないガソリンスタンドなどはひとたまりもない。
それに場所を借りているとすれば、ガソリンスタンドの場所は一等地だからあっという間の青息吐息。

都会ならまだしも田舎では地獄のような話だ。
実体経済の破壊は洪水のように押し寄せている。

建築業界が倒産するのもこの伝で、売れてはいるが入金が即入るわけではないので金が回らない。
フローが焦げ付き黒字倒産する。
こういう時、いままでなら銀行が貸してくれていたが、今では貸し渋りに貸しはがし。

本当に末世になってきている。

だから、大幅な舵取りの転換が必要なのだ。

わたしは間違いなく、そのひとつは農業に大きく投資することだと思っている。
素人考えではあるが。

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星野学校

通常「星野学校」と呼ばれるナイロビの私塾にわたしは通っていたことがある。
最近の海底での生活の中でふととった本に「いくたびか、アジアの街を通りすぎ」(前川健一)という講談社文庫がある。

この中で星野学校の生徒が批判されていた。
といってもナイロビとモンバサで彼の会った2,3人の生徒だったが。
しかし、批判は批判。
それぞれ痛いところがついてある。

ひとは自分の直接見たもの聞いたものに対し、物申すことが出来る。
そういうことを前川氏はしたわけだ。

もちろんだからと言って星野学校全体の批判にはならないし、学生全体への批判にもならない。

しかしながら、直接体験からにじみ出るような批判は耳に痛いもので、読みながら苦笑した。
長くその地に住む人の文章が、薄っぺらになりがちなのは、長く住むうちに直接見たり聞いたりする力が薄らいでしまっているからだ。

何かを見、聞き、感じるには、努力が要る。(つまり個人差が生じるのだ)

前川氏の旅行記は立派な旅行記だった。
少し耳の痛いものではあったのだが。

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年金テロ

18日午後6時半ごろ、東京都中野区上鷺宮2の元厚生事務次官の吉原健二さん(76)方玄関付近で、妻靖子さん(72)が宅配便業者を装った男に胸などを刺され、重傷を負った。同日午前には、さいたま市南区別所2の元厚生事務次官、山口剛彦さん(66)方玄関内で、山口さんと妻美知子さん(61)が刺殺されているのが見つかっており、警視庁と埼玉県警は、2人の元次官が同じような経歴を持ち、手口も似ていることなどから関連があるとみて捜査。警察庁は両警察本部を集めて19日午前、合同捜査会議を開く。

もしもの話だが、これが年金テロだとしたら、年金に対して吉原氏にも山口氏の妻にも何の責任もなかったという説明は意味を持たない。
何の責任をも持たない数え切れない老人たちを貧困や死に追いやった年金政策に対するテロにおける報復は基本的には見せしめという意味が大きく、なぜに世界貿易センターだったかという問題を立ててもいたし方ないように見せしめは誰であってもなんであってもよかったのだ、テロならだが…。

要は、そこまで追い込まれた人々がいて、そのなかの誰かが発火点が非常に低く暴発したに過ぎない。
そのことに正当性があるかどうかではなく、なにがそこまで追い込んだかが最も重要なポイントなのだろう。

なにがそこまで非道な行為をさせるまで彼らを追い込んだかだ。
はじめから正義などはありはしないし、もともと社保庁は正義などはじめからほっぽりだしていたではないか。
それをいまさらなにが正義だ。

社保庁に属するすべての人間がそうではなかった。
それはそうだろう。

しかし、そうであれば、そうではなかった人間が社保庁に対し積極的に過激に批判的な振る舞いをとったかといえばそうでもあるまい。
被害者が理不尽な怒りにまで及んだとき、そういう理屈は通用しない。
テロとはもともとそういうもので、力なきもののとる最も非情な手段だ。

マスコミはテロは絶対に許してはならないとはいうが、それでは逆にそこまで追い込んだ社保庁に対してどこまで過激にマスコミは追及したのか。

テロは許してはならないだろう。

しかし、追い込んだ人間をあっという間に警察権力で保護できるこの国は(社保庁は)、ちんたらちんたら多くの老人が死んでいくのをよそに作業してきたのだ。

あまりにやすやすと問題をすり替えなさんなよ。

他国ならすでに暴動が起こっているのだよ。

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2008年11月20日木曜日

われ、浮上しつつあり

深海に沈潜していし十日あまり、申し訳ありませんでした。
現在浮上しつつあります。
お見捨てなくもう少しお待ちください。

しかし、人間というのはまことに習慣の動物で、日々寝込んでいれば寝込んでいるような状態になり、日々働いていれば働いている状態になる。
どちらがいいかはともかく、自分自身が選び取っていることは知っていた方がいい。

わたしの今回の沈潜はまいった。
食欲もなかった。

何せ、海の底だったから空気もないのだ。(食う気もないのだ)

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2008年11月8日土曜日

魔女の盟約



第53回江戸川乱歩賞受賞作「沈底魚」を絶賛したのは大沢在昌だったが、(「職業として公安刑事を務める男たちの描写が秀逸である。近年の乱歩賞にはなかった良質のスパイストーリーだ。」)彼の近作「魔女の盟約」を読んでみるとその膂力の違いは明らかだ。

小説の醍醐味は紡ぐところにあるもので(小説ばかりではないのだが)、標語を並べ立ててもそれは梗概以上の何ものでもなく、デッサンとさえ呼べないものになってしまう。

もちろん「沈底魚」はあるレベルを超えたものだが、それがどのくらいのものかはこの二つの作品を読み比べればわかる。
ともに眼目はこの現実の世界の暗部を明らかにするところにある。
つまり、実はわれわれの住んでいる隣ではこういう世界が動いているのだよ、と書いているのだ。
しかし、単にこれを書いたところで、「あっ、そう」で終わるわけで、何の臨場感もない。
そこで虚構を虚構として産声をあげさせる作業に入るわけだ。

この作業は決して急いてはならない。
「沈底魚」の性急さがその稚拙さのおおもとだ。

紡ぐ行為は遅々たる行為だ。
そこに登場する人物に息吹を与えねばならないし、われわれの知らないすぐそばで起こっている世界も徐徐に露にしなければ、読み手の心に落ちてはいくまい。

思うに大沢氏は人物造形に長けた人ではない。(もちろんプロのレベルの中での話だ)
そのことは人物造形を中心に置いた「新宿鮫」以前の作品のレベルの低さに見える。
これはまた改めて書くこともあるだろうが、「新宿鮫」シリーズはわれわれのそばに横たわる未知なる邪悪な世界を書いた作品群で鮫島警部を書いた作品ではない。
そこにあのシリーズの成功がある。(例外としてあのシリーズの中で最も人物を描ききれたのは第二作「毒猿」で、この作品のキャラの立ち方はすばらしい)

にしても「沈底魚」と比較すればその人物造形のうまさは際立つ。(当たり前の話で曽根さんを責めているわけではないからね)
それはおそらくところどころに出てくる警句が大きく影響しているように思える。

と、また長くなりそうなのでここで切り上げるが、エンターテイメントの作品比較として興味のある方がおるやも知れずと思い、余計な一文をここに添えさせていただきました。

二つを読めば、何やら見えてくるものがあると思います。

ラベル:

対日姿勢に変更は?

オバマ氏の当選以来、今後のアメリカの対日姿勢変更について物議をかもしていますが、直感的にはそういう問題ではないように思います。

オバマ氏は短期的にも中長期的にも将来に対して対話できる相手を探しているようです。
それは米国内でも米国外でも。

したがって、アメリカの顔色を窺うだけの国に対しては何ら興味を持たなくなってしまう可能性があるように思うのです。

問題は、

「今後対米姿勢をどう舵取るか?」

というように主体的なものであって、このような視点からの切り込みでないとどうにもならない状態に追い込まれるように感じますが、どうでしょうか?(幼稚な意見ですが…)

かといって、このような問題設定を立てアメリカに物申すのは責任が生じますから、そのような政治家が今の日本にいるかどうかとなると心もとなく、それは政治家というよりはこの国のありようの問題です。

事なかれ主義の時代は過ぎ去り、ある程度のリスクを意識しながら、選挙対策だけに右往左往することなく、右顧左眄することなく、われわれも考えていかなければいけない時代と相成りました。

傍観者ではいられない当事者の時代が来たわけです。

それは、若年者の死亡原因、自殺が第一位などという社会から脱却すべきときを示唆しているようでもあります。

といいながら、わたしもときとして消えてなくなりたく思ってはいるのですが…

ラベル:

2008年11月7日金曜日

泰葉と小朝

テレビの特性を書いたついでに言っておけば、泰葉の扱い方がテレビの象徴的なタレントに対する扱いで、注目されるうちは(=おもちゃに出来る間は)十二分に使っておき、飽きられたら(視聴率に影響がなくなったら)捨てる。
そこには泰葉に対するなんらの感情もない。
ただ数字だけが乱舞している。
もちろんテレビとはテレビに関係する人々システムあれやこれや混ぜたすべてのこと。

このロジックにはむかえば、干される。
(干されるの怖いものねえ)

これをもってテレビによる消耗という。

小朝は小利口だから泰葉関係に対してテレビには登場しない。
登場すれば消耗されるのを知っているし、無駄な浪費だ、くらいに考えている。
だから他の番組には出るし、泰葉のことには一切タッチしない。
それくらいテレビに代表されるマスコミは怖いし、馬鹿ではそれを乗り切れない。

ああ見えて、さんまなんぞは本当に計算ずくで頭がいい。(逆にそこまででしかないと言えば言えるのだが…)

小朝と泰葉のテレビに対する距離感に人間性を超えて、芸の何たるかテレビの何たるかを知っている差が歴然とする。

哀れなような切ないような。

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テレビの特性

寄席の芸能とテレビの芸能の違いを以前このブログでも書かせていただいたことがあるが、再び記憶のために書いておきたい。

テレビの特性は流れていくところにあり、さらに重要な特性は流れていきながらわかった風にさせ、視聴者を毒していくところにある。
本当に何かに触れるという交感はそこにはまずない。
まずないと書いたのはまったくないわけではないからだ。

プログラムの中には物事を丁寧に伝えようとしたり、物語をつむいでいこうとしたりするものもあるにはある。
しかし、それを期待してみるにはその数は少なすぎる。

というわけで、テレビで受けている芸人は基本的にテレビ芸として受けているので、そのことを熟知していなければ、単なるおもちゃとして使い捨てられていく。

ところで、コメンテーターはどうかというと、これは代替可能なケースが多く、この人はという人物はテレビには向かない。
なぜなら彼等は標語のようにキャッチコピー(ひどいねえ、信じられないなあ…程度の)を語ることを好まず、事細かに物事を語ろうとする。
しかし、テレビのほとんどはそれを放映するほどの時間的余裕もなく、実際に生じた社会現象を視聴者に伝えようという意思もない。
したがって、かような良心的な識者は排除されることになる。
もっとも、もともと彼らはテレビを好まない。(村田クンじゃないからね)

で、ここまでは仕方のないところだが、そこから先だ。
テレビは確かに基本的なところまでは教えてくれる。
くれるがそれは、安直に与えられたエサのようなもので、そこから先が重要なのでそれはテレビではまかなえない。
なにによってまかなうかといえば、しっかりした内容を持つラジオであろうし、インターネットの世界であろうし、書籍であろうし、その他さまざまな媒体だ。

テレビの発言は標語だから、よく考えてみれば「それがどうしたの?」「So what?」ということになる。

かくしてわれわれの思考力は落ち、巷間にテレビの二番煎じの議論がはびこる。

寄席は演者にも伝統があったが、聞き手にもそれを引き継ぐ伝統があった。
テレビの視聴者に引き継ぐべき技はいらない。

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月亭可朝


吉川潮という作家がいて、この人の書く本には佳品が多い。(題材は基本的に芸能、特に落語によっている)

「月亭可朝のナニワ博打八景」は痛快であった。(もちろん芸能好きにはの但し書きが入るが)
この本の視点で、枝雀も見直せたし、談志も見直せた。
薄々感じておられたかもしれないが、わたしは談志も評価するが、志ん朝を上としたい気分があった。
ところがこの本でうならされた。

談志には自他ともに許されるであろう日本一の芸能ファンというところがあり、その一面がこの本には強く出てくる。
こういう総合力でいけば、やはり愛すべき実力者談志であるし、魅力的でもある。

ライトの当て方次第で人はいかようにも変わる。

自分の人物評の薄さも教えてくれたこの本をここに紹介しておきたい。
月亭可朝、えらいバイタリティや。

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実体経済いよいよ動く

トヨタが2009年3月期の連結営業利益を1兆円下方修正したが、このことをきっかけに世界的な景気悪化懸念が強まっている。

マネーゲームではなく、いよいよ目に見えて実体経済が動き出した。
資産経済といわれるものがあり、これは実体経済における金利や利益から派生して成り立つが、金融経済、マネーゲームはさらに実体経済から乖離しているのだろう。
乖離しているから実際にどのくらい生活に影響があるかの実感もないが、実体経済は賃金カットやかく首につながっていくし、世界的な視点からは保護主義経済ということも考えなくてはならないし、ダイレクトにわれわれに実感できる。

いよいよ時代は本格的な冷え込みを見せ始めている。
今年の冬は経済的にはいつまでたっても春を呼ぶ気配はない。

そもそも人は、どうしてもほしいものなどずいぶん前からなくなってしまっているのだから、もはやいくらあおっても内需拡大は望めない。(とわたしは思う)
だとしたら都会で困っている人々は頭を下げて農村へ受け入れをお願いしてみてはどうだろうか。(というのが前々からのわたしの思いだ)

何かを売ろうではなく必要なものを作るという発想に替えていかねばなるまい。
よくよく考えてみれば、各メディアに踊らされなければ欲しいものなど食料以外にはあまりない。

小さな住む場所があり(それがウサギ小屋だとしても)、食べるものがあればいい。
それで楽しむことが出来る人間として自立できればこの冬も乗り切れるが、妄想癖の政治家が内需拡大や経済成長といっても最終的には無理な話だ。(私見だが)

とにかく日本のもっとも大きなもの作り産業のひとつである自動車産業がこけかけている。
もちろんアメリカでもそうだ。

改めて書かねばならないが、そのときには売ろうとせずに売れるものに十分な付加価値をつけて売ることがひとつの大きな戦略だ。
その戦略物資が食料だ。

気づいているなら国を挙げて食糧生産に目を向けなければなるまい。

ともあれ、実体経済にひびが入りだした。

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2008年11月6日木曜日

9・11倶楽部


馳星周の最新作「9・11倶楽部」は、あの石原知事が音頭を取った新宿浄化作戦に焦点を当てた作品だ。

あの作戦で多くの違法入国外国人労働者たちが強制送還を喰らった。
マスコミでは、風俗産業に焦点を当ててこの問題を取り扱ったが、実は別の視点から光を当てることも出来、(そのほうが重要だったのかもしれないが)、そこには日本に取り残された戸籍のない子供たちがいた。

これに対して東京都は細かな対策は打っていなかっただろう。
というより、新宿浄化作戦自体がめちゃくちゃなもので、いうまでもなく中国マフィアまでには手が届かず、形容矛盾に近いが律儀な違法入国者(中国料理店などをやっていた)を直撃した。

ここにわたしの思う核家族ではない擬似家族が生じる契機がある。(彼の小説の中で)
図らずもこの小説の中、わたしの思う擬似家族維持の難しさや彼らがたどり着くしかない連帯を眼にすることになる。

この作品で、わたしの教えられてきた新宿浄化作戦の嘘とあの作戦の乱雑さとその中で生きていこうとした擬似家族の不可能性と不可能性を求めるが故の小説的な美しさを味わった。

ただし残念ながらこの感慨は作品だけではなく、作品とわたしのもっている嗜好の出会いがもたらした面も強くあり、この作品のみを大きく押し出すことは出来ない。
押し出すことは出来ないが、政治がいかに個々の人々を見ないかはよくわかる。
そのことでわたしは早急に政治を責めはしないが、(政治はもともとそういうもの<=個々を見ない>だろうからだ)なんとも非情なものだ。

「笑加」という少女が登場するが、わたしに人を愛する力がまだ残っているのかもしれないと教えてくれるほど可憐で薄幸な少女だった。
彼女と出会うだけで読む価値があるのは、書き付けておいていいだろう。

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惰眠を貪る

「惰眠を貪っている」と書けば無駄をしているばかりに聞こえるが、そうばかりでもなくて、わかってくることもある。

何事にも量から質に転換するときはあるということだ。

眠りというのは普通、睡眠量やあるいはあいまいなコトバだが浅い深いで片付けられるが、はっきりとこの眠りが違うと実感するときがある。(これは大量に眠ったから識別できるようになったからではなく、その人の感性のありようかもしれないが、ここでは大量の惰眠の結果としよう。愉快だからね)

その眠りは表面的なコリを指圧でほぐすのではなく、体や精神の一番奥のところにころころとあるコリをほぐしてくれる感じがあり、睡眠剤では決して得られるものではない。(経験的には)
では、何によって与えられるのかとなるとそこがわからない。
不意に訪れてくるのだ。

そして、その眠りの後の爽快感は、群を抜いている。

比喩でしか書けなくて申し訳ないが、本当に体の中心にあるころころした肉体的精神的コリをほぐすのが眠っているただ中でさえわかる眠り、そういう眠りを実感できることがある。

これを惰眠の効果といっておきたく思う。 

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2008年11月5日水曜日

判断能力

先ほどのブログに続いてだが、判断するのに最も重要なのは情報だろう。
したがって、各国が、あるいはこの国が情報集めに躍起になったり、マスコミがある情報を国民に流そうとしないのは当たり前の判断だ。

十分な情報をこの手に得られたらば、後は情報処理能力を問われるだけで、ここでは個人の能力の問題になる。
組織の強さはもっている情報量の強さがメインで、次に情報処理能力の問題となる。
情報量のない人間と話しても埒が明かないのはこのプライオリティのためである。(組織の人間の強さはおおむね情報量の多さに端を発する)

さて、この国で十分なる情報量を確保している政治家、官僚がぼけた政策を選択しようとしているならば、それはおそらく個人的な能力のなさのためだ。

幸いなことにわれわれにはインターネットという武器があり、ある程度の情報が手に入る。
十分に利用して、それぞれの想を練ろうではないか。

情報収集に関してはネットワーキングが必要なことはいうまでもない。
いい加減な情報でものを言うことに慣れている人間とあまり真剣にかかわる必要はないということだ。

なかなかにしんどい作業だが情報収集とネットワーキング、互いに手を取り合いたいものだ。

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アメリカ大統領選

これが怖くて早期解散を言い出していたのであったが、とうとう終わってしまった。
今後の対日変化はいろいろと予想できるだろうが、自民党に有利な可能性は少ない。
それでも総選挙は延ばしたほうがよかったのだろうか。

不思議に思っている。

もちろん不利な条件は次々に出てきてしまい、総選挙を延ばしたくなるのもよくわかるのだが…

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2008年11月4日火曜日

しばらく間が空きました。

時々あるのですが、寝込んでしまいます。
読んでくださっている人には大変失礼しました。

いろいろな夢を見てうなされました。
ここがどこかわからず奇妙なものに迫られる夢を見ましたが、体が動きませんでした。
金縛りのごときものでしょうが、少し金縛りを理解しました。

それから小田実とも数人で呑みましたが、これもしっちゃかめっちゃかでした。

一人で寝ているのに誰かが足を触ってくるので困ったこともありました。

それでもいまのところ、眠るというのはわたしにとっては一番の快楽です。

性欲、食欲は減退しても、睡眠にだけは貪欲です。

とにかくぼちぼちブログも書いていきますので、よろしくお願いいたします。

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