2008年11月8日土曜日

魔女の盟約



第53回江戸川乱歩賞受賞作「沈底魚」を絶賛したのは大沢在昌だったが、(「職業として公安刑事を務める男たちの描写が秀逸である。近年の乱歩賞にはなかった良質のスパイストーリーだ。」)彼の近作「魔女の盟約」を読んでみるとその膂力の違いは明らかだ。

小説の醍醐味は紡ぐところにあるもので(小説ばかりではないのだが)、標語を並べ立ててもそれは梗概以上の何ものでもなく、デッサンとさえ呼べないものになってしまう。

もちろん「沈底魚」はあるレベルを超えたものだが、それがどのくらいのものかはこの二つの作品を読み比べればわかる。
ともに眼目はこの現実の世界の暗部を明らかにするところにある。
つまり、実はわれわれの住んでいる隣ではこういう世界が動いているのだよ、と書いているのだ。
しかし、単にこれを書いたところで、「あっ、そう」で終わるわけで、何の臨場感もない。
そこで虚構を虚構として産声をあげさせる作業に入るわけだ。

この作業は決して急いてはならない。
「沈底魚」の性急さがその稚拙さのおおもとだ。

紡ぐ行為は遅々たる行為だ。
そこに登場する人物に息吹を与えねばならないし、われわれの知らないすぐそばで起こっている世界も徐徐に露にしなければ、読み手の心に落ちてはいくまい。

思うに大沢氏は人物造形に長けた人ではない。(もちろんプロのレベルの中での話だ)
そのことは人物造形を中心に置いた「新宿鮫」以前の作品のレベルの低さに見える。
これはまた改めて書くこともあるだろうが、「新宿鮫」シリーズはわれわれのそばに横たわる未知なる邪悪な世界を書いた作品群で鮫島警部を書いた作品ではない。
そこにあのシリーズの成功がある。(例外としてあのシリーズの中で最も人物を描ききれたのは第二作「毒猿」で、この作品のキャラの立ち方はすばらしい)

にしても「沈底魚」と比較すればその人物造形のうまさは際立つ。(当たり前の話で曽根さんを責めているわけではないからね)
それはおそらくところどころに出てくる警句が大きく影響しているように思える。

と、また長くなりそうなのでここで切り上げるが、エンターテイメントの作品比較として興味のある方がおるやも知れずと思い、余計な一文をここに添えさせていただきました。

二つを読めば、何やら見えてくるものがあると思います。

ラベル: