2008年11月7日金曜日

テレビの特性

寄席の芸能とテレビの芸能の違いを以前このブログでも書かせていただいたことがあるが、再び記憶のために書いておきたい。

テレビの特性は流れていくところにあり、さらに重要な特性は流れていきながらわかった風にさせ、視聴者を毒していくところにある。
本当に何かに触れるという交感はそこにはまずない。
まずないと書いたのはまったくないわけではないからだ。

プログラムの中には物事を丁寧に伝えようとしたり、物語をつむいでいこうとしたりするものもあるにはある。
しかし、それを期待してみるにはその数は少なすぎる。

というわけで、テレビで受けている芸人は基本的にテレビ芸として受けているので、そのことを熟知していなければ、単なるおもちゃとして使い捨てられていく。

ところで、コメンテーターはどうかというと、これは代替可能なケースが多く、この人はという人物はテレビには向かない。
なぜなら彼等は標語のようにキャッチコピー(ひどいねえ、信じられないなあ…程度の)を語ることを好まず、事細かに物事を語ろうとする。
しかし、テレビのほとんどはそれを放映するほどの時間的余裕もなく、実際に生じた社会現象を視聴者に伝えようという意思もない。
したがって、かような良心的な識者は排除されることになる。
もっとも、もともと彼らはテレビを好まない。(村田クンじゃないからね)

で、ここまでは仕方のないところだが、そこから先だ。
テレビは確かに基本的なところまでは教えてくれる。
くれるがそれは、安直に与えられたエサのようなもので、そこから先が重要なのでそれはテレビではまかなえない。
なにによってまかなうかといえば、しっかりした内容を持つラジオであろうし、インターネットの世界であろうし、書籍であろうし、その他さまざまな媒体だ。

テレビの発言は標語だから、よく考えてみれば「それがどうしたの?」「So what?」ということになる。

かくしてわれわれの思考力は落ち、巷間にテレビの二番煎じの議論がはびこる。

寄席は演者にも伝統があったが、聞き手にもそれを引き継ぐ伝統があった。
テレビの視聴者に引き継ぐべき技はいらない。

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