2008年11月21日金曜日

麻生太郎の読み間違え

麻生氏の読み間違えの話が巷をにぎわしていたが、あの殺人事件で忘れられていくようだ。
あの殺人事件は重要な出来事であるが、麻生氏の読み違えも彼を首相として抱くわれわれとしては重要な話だ。

もう少しはっきり書けば、読み違えたことが問題ではない。
読み違えなど誰しもある。
わたしも長く「順風満帆」や「快哉」を正確に読めなかった、というよりは間違って覚えそれを信じきっていた。
だが今は違う。
その間違いを教えられたからだ。

麻生氏もいい年のオジサンなのだからマンガばかり読んでいたとしてもあの間違いはどこかで指摘されていたのではないか。
にもかかわらず、そのまま間違い続けた。
問題は、読み間違えたことではなく、読み間違え続けたことである。

これは決定的に違う。
間違いを変更できない人間は世間にあまたいる。
そういう連中は、すべて自分のもち札でことを解釈しようとする。
そしてまずいことにすべてのことはたいてい自分のもち札で解釈できてしまう。
その解釈の質を問わなければの話だが。

どうやらわれらが総理大臣は、自分のもち札で物事を解釈する御仁のようだ。
それもかなり貧弱なもち札で。

総理大臣などとという役職はいわば「将の将たる」役職で「兵の将たる」役職ではない。
したがって、有能な奴を見極める力こそ重要で、後はそいつらに任しておき、しかる後に責任をとればいい。
別に本人が万能である必要などどこにもなく、薄ぼんやりしていたほうがよいくらいのものだ。

今回のいい間違えの問題は、あのお坊ちゃんは自分が有能だと自覚するほどに阿呆らしいというところにある。
間違いを間違いとして認めるのはきわめて高い自己認識能力と判断能力によるものでそうそう人が持てるものではない。
多くの人に期待はしないが、総理大臣くらいには期待したかった。

けれども今回もまったくだめらしい。

もはや政治家に人物はいないのかもしれない。
最も政治家ばかりの話でもないのだが…

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