切り取りまとめる
「切り取りまとめる」
それがこの世界を語るときに人の使う手法だ。
もう少しやわらかく具体に言えば、それが人を語り、出来事を語るときの人の使う手法だ。
この手法には致し方ないところがあり、手法自体を批判することは出来ないが、そういう手法を自分が採用していることを自覚することはとても大切なことだ。
誰かを思うとき、人はその人のすべてを受け止めてその人の全存在を思うことはできない。
批判するときも愛するときもだ。
そのとき人は自分の中に「仮想のその人」を作る。
このブログではその作業を「切り取りまとめる」と荒っぽく言い換えた。
人が誰かに対するとき全的に対することはない。(特殊な場合を除いては)
自分が作り出した「仮想のその人」と切り結ぶのだ。
したがって、「仮想する力」によって、そこに立ち現れるその人はそれぞれの人によって違う。
最も重要な要素をぱらぱらと乾いた砂のように落としながらその人を仮想する人もいれば、ただひとつだけのその人の美的要素を後生大事にしながら仮想する人もいる。
問題は、向き合ったその人は、その出来事は「あなたが作り出した仮想の人であり出来事」であるという認識だ。
もちろん仮想は現実と無関係ではなく十分関係を持っている。
だから、ときとして人は自分の相対するものが現実と思うかもしれないが、そこには多分に「仮想」という要素が入っている。
もちろんすでにこのことをご存知の方も多かろうが、自戒の意味も込めてここに記しておくことにします。
それがこの世界を語るときに人の使う手法だ。
もう少しやわらかく具体に言えば、それが人を語り、出来事を語るときの人の使う手法だ。
この手法には致し方ないところがあり、手法自体を批判することは出来ないが、そういう手法を自分が採用していることを自覚することはとても大切なことだ。
誰かを思うとき、人はその人のすべてを受け止めてその人の全存在を思うことはできない。
批判するときも愛するときもだ。
そのとき人は自分の中に「仮想のその人」を作る。
このブログではその作業を「切り取りまとめる」と荒っぽく言い換えた。
人が誰かに対するとき全的に対することはない。(特殊な場合を除いては)
自分が作り出した「仮想のその人」と切り結ぶのだ。
したがって、「仮想する力」によって、そこに立ち現れるその人はそれぞれの人によって違う。
最も重要な要素をぱらぱらと乾いた砂のように落としながらその人を仮想する人もいれば、ただひとつだけのその人の美的要素を後生大事にしながら仮想する人もいる。
問題は、向き合ったその人は、その出来事は「あなたが作り出した仮想の人であり出来事」であるという認識だ。
もちろん仮想は現実と無関係ではなく十分関係を持っている。
だから、ときとして人は自分の相対するものが現実と思うかもしれないが、そこには多分に「仮想」という要素が入っている。
もちろんすでにこのことをご存知の方も多かろうが、自戒の意味も込めてここに記しておくことにします。
ラベル: 日常 考察
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