2009年12月31日木曜日

年末になってしもうた

辛く厳しい年もとうとう終わりになってしもうた。
今年の暮れまで生きたか。
来年も生きられるのか。
そう、気持ちを確かめる。
確かめるより先に動けか。

わたしはいったい何を考え、遂行してきたのか。
さ迷い歩く人間はさ迷っていることを知るのがこわい。
ただ歩いているだけなら、さほど怖くはないのだ。

生きたければ、歩くに限る。

よいお年をお迎えください。

ラベル:

2009年12月30日水曜日

それは、鬱ではない

鬱になれば、何もする気がなくなりますが、本当になくなってしまっているかどうかは難しい。
鬱という言葉が強烈で、われわれは少しその言葉に甘やかされている。

本当の欝はもっと強烈なものだ。
絡めとられて、身動きが取れないくらいだ。

気分はからだの動きが作ると書いたが、あれはほんとうだ。
なんにしろ、動くのが億劫になったり、何もする気がなくなったときには、無理にでも散歩をしてみるに限る。
少し長めの散歩の中で、風景を眺めたり人と話すことがあったりして、気分がほぐされることがある。
いや、歩いているだけで気分は随分変動するものだ。

それが、散歩をしているのが苦痛で、自宅に戻ってさらに気分がすぐれず身動きが取れなくなっているようであれば、それは鬱かもしれない…、おそらく鬱だろう。
であれば、さっさと薬を飲んで症状を抑えることだ。

気分転換とは言っても、酒はいけませんぞ、あれは気分は晴れるが、一時的なものだから、もう一度、症状は厳しくなって戻ってくる。
それでも、と、酒を飲むなら、依存症を覚悟で飲むことです。
アル中もまたいいかもしれません。

個人的には、わたしは好みませんが、それは、UP TO YOU、ということです。

ラベル:

年始の挨拶は失礼します。

年始の挨拶の年賀状を書く気力、体力が失せ、今年は、おそらく来年以降も賀状はなしで済ませることとなるように思います。

お世話になりっぱなしで心苦しいのですが、お許しください。

山本とんぼ丸 拝

ラベル:

いい書き出しだと感心する


「御年さんのことを記したいが、御年さんのことをよく知らない。」

これは『遠景』の書き出しだが、色川武大氏の姿を語ってもいるようで吸い込まれてしまう。
作品の中では、よく知らないわりにはいろいろなことが記されているが、記されているからよく知っているわけではないのだろう。
そういう人との距離感を色川さんは感じさせる。
逆に、よく知らないけれども記すことは出来るのだろうとも思わせる。
色川さんにはそういうことに頓着しないところがある。
頓着はしないが、ぷすぷすと頭のなかでいろいろなものがめぐっている気配がする。
その気配がうまい具合に小説となるには七面倒くさい過程が存在するのだろうが、それらのものを身体の内に溜めて色川さんはぎょろりと大きな目をこちらに向ける。
その目の映すものに何やら恐ろしいやら、見てみたいやらの気持ちとなって引き寄せられていくのだが、それが彼の作品群だ。(『怪しい来客簿』などにわかりやすく見られる)
その手口が、先の書き出しの一文に見られるように思ったのだ。
そう思ったから、ここに書いてみた。

ラベル:

満足な会話

会話に質を求めるのならば、満足な会話にはめったに出会わない。
飲み屋で上質な会話に当たるには飲み屋を絞るしかないし、絞ったあと、その人の得意分野を小出しに話してもらうのがいい。
そのとき控えめだと随分助かるな。

たいてい酒に酔った人は、何の根拠も下調べも(このときの会話のためにではなく、あるとき今からしゃべることを考えたことがあるという意味の下調べ)してはいないし、いつもにもまして思いつきをしゃべる。
思いつきが面白いということは稀有なことで、特におしゃべりにこの傾向はない。
ただ漠然と日ごろの生活と考えたことを話をしている。

それが飲み屋の会話だとわかっているから、わたしは飲み屋を好まない。
いい相手が見つかったときにその人と飲むだけのことである。

しかし、そういう相手はなかなか見つからない。
こうまで見つからないのは、わたし自身に問題があるせいだろうとも考えている。

ラベル:

2009年12月29日火曜日

邪魔

哀しいことにこの本もすでに読了していた。
読み進むごとに前に読んだ記憶がはっきりとなってくる。
今年はこの手の勘違いが多い。

「処刑の方程式」のあとでは、何かもの頼りなく感じる本だが、ページターナーが内容を重くさせるわけにもいかない。
けれどもいくつかの事件を組み合わせていく技量は奥田英朗氏はうまい。
これは初期のものでユーモアに欠けるが、それは精神科医・伊良部シリーズにある。

構成の妙とスピード感のある進行であった。
再読してうまさを知る。

ラベル:

慣性の法則

身についたものは、なかなかに離れにくく哀しい行く末もある。

普段出ないものでも何かの拍子で飛び出してしまう身体に残った記憶に驚かされる。
酒に酔ったときなどはその好例だろう。

主に悪習ほど身体から離れないもので、とんと困ってしまう。
その悪習に身をゆだねれば、行き着く先は通りなれた道の果て。

新たな記憶を身に刻み付けるためには地道な毎日を送るしかない。
地道な毎日の底には意志が宿っている。
侮ってはならない。

地道だから平凡というわけでもないのだ。
その平凡にも見える地道さだけが悪習に対抗できる力を持っているように思う。
悪習には根深い慣性の法則があり、それが厄介なのだ。

ラベル:

2009年12月27日日曜日

気分は作られる

気分がそこにあるのではない。
気分はからだが作る。
からだの動きが作る。

で、よってしてからにして、昨夜は塩見組の忘年会へと東中野に向かう。
行けば行ったで、気分は生じる。
いい感じであった。

こういう風に気分を作りながら人は生きていっているのだろう。
仲間は大事だなあ。

からだを動かして、気分を作ってください。
出来た気分が心地よくなければ、からだを別の動かし方に変えてください。
気分はからだの動きが作ってくれます。

動くことが肝心だと自戒しております。

ラベル:

2009年12月26日土曜日

処刑の方程式

作家とは古い建物のようなものです。
支えとなるたくさんのつっかい棒が必要だからです。
そんなわけで、わたしの支えとなってくれた……、みんなには本当に感謝しています。
ありがとう。

上は、本作冒頭に掲げられたマクダーミドの謝辞の最後の部分である。

作家が古い建物ならば、その古い建物から生み出される作品にも多くのつっかい棒が必要だろう。
「処刑の方程式」は過剰なほど補整の手が加えられており、それを建物として改めて眺めてみれば、どこをどうしたところで倒れはしない重心の低い建造物に見える。

それは、表現というところで見てみれば、丹念に細部を書き込むという作業に目がいく。
細部とは、自然描写であるとか、建物の内装であるとか、服装だとかである。
そういったもろもろの細部を書き込むことでこの作品は密度を増し、速度を十分に落として物語が流れていく。

まさに、ローギアを長く保ったまま山道をぐいぐい登るクルマのようだ。
そのクルマがスピードを上げるのは半ばあたりからだが、そのスピードが最も上がるラストの部分まで来ても無茶なスピードではなく、そこまでの旅を振り返るようなスピードで読者を運ぶ。

そうして、最後まで読み終わったとき、過剰な補整を施された建造物が実はきわめて脆いものであり、あの補強はしかるべくしてとられた補強だと知る。

お手軽な読み物ではない。
けれども、書き物における速度に思いを走らせてくれる小説だ。

じっくり読んでみる気がおありなら、手にとってはいかがだろうか。
作品としてどこに出しても恥ずかしくはない手間がかかっている。

作品の細部の書き込みとは、このような効果を生むことを教えてもらった。
しかし、効果が現れるまでには大変な苦労がいる。
作るという作業には何であれ、こういう地道さが必要なのか。
作品との出会いに感謝したい。

ラベル:

2009年12月25日金曜日

大腸内視鏡精査

二年の間、ほったらかしにしていた大腸の検査に行ってまいりました。
奇跡的なことに、良性も含めて一個のポリープも発生していませんでした。

まだ、生きろということだと思いますが、そう問題を立てれば俯いてしまいます。
なんとも意気地のないことで。

気ままに生きれないのです、振り返ってみれば。
まあ、何とかかんとか、あっち、こっち、ふらふらしながら歩いてみます。

野垂れ死にへの道は、はなはだ遠し。

ラベル:

2009年12月24日木曜日

やねだん

昨日扱った「やねだん」のとてもいい話もマスコミに載れば、特にテレビが取り上げれば干からびた話になっていくのは、テレビはテレビの持つ物語の中でしか「やねだん」を扱わないからだ。

「やねだん」の取り組みはとても心温まる、人の可能性を思い出させる話だが、それを見本にしたり、そのまま一個の村落共同体として発展していく話ではない。
「やねだん」が「やねだん」のやり方で活性化した話であり、そのなかで人はどのように活性化していったかが愉快なのである。

その愉快さは教訓とは無縁でありたい。
教訓とした途端に、「やねだん」ではなくなるからだ。
そこにある効率性でないもの、合理性ではないものを見逃してしまうことは致命的で、その致命的なことを追求した結果が都市である。

都市の抱えた問題点は、都市の抱えた成功の中に潜んでいる。
「やねだん」の抱えた成功はその不完全さといい加減さの中にある。
そして、そのことは、わたしが今まとめたようにまとめてはいけないのだ。

しょうがなくまとめてしまったが、これをいかにまとめずに受け止めるかが、「やねだん」に対する適当な接し方だと思っている。

ラベル:

2009年12月23日水曜日

特養42万人の入居待機者

いまは老人ホームとは言わない(差別用語になっているかな)。
特別養護老人ホームと呼ぶ。
そこに入れないで自宅で待っている人たちの数が42万人ということだ。
これはどう考えても多いだろう。

都会は人間の作り出したもので、そこには人間以外は住めないのが原則。
したがって舗装をめぐらし、地面と出会うことはまずない。
出会ったとしてもしっかりと管理された庭であったり、○×農園だったりする。
自然に近い地面には管理しきれない人間以外のものが住むと恐れるからだ。
管理する側はいつも怖がっている。

というわけで、老人や病人や障害者たちも都会には住めないことに徐々になりつつあって、それははっきりとは言えないので、あまり表に出ないことでお茶を濁している。

その象徴が、この42万人の待機で、彼らは特養に押し込められに行くのである。
老人がこう多くなってはどうしようもないのだが、さりとて殺すわけにもいかないので、ほんとうにわかっている人は、老人問題は解決策がないと思い始めている。

それは、野垂れ死にできなくなったことと大きく関係しているが、長生きすればいいと思っているうちは何も見えてこない。

やねだん(鹿児島県鹿屋市串良町の柳谷集落の通称)の村おこしを今宵のテレビは扱っていたが、あれが今ある最も快適な老い方の一つだと思う。

都会が人工物でそこには取り決めがあり、どうやら生老病死は隔離されるらしい。
これは誰かが決めたことではなく、わたしたちが決めたことだ。

残念ながらこの「わたしたち」のなかには野垂れ死にも許されない「わたし」も入っている。

ラベル:

揚げ物に惨敗

昨夜の夕食にトリのから揚げとカキフライを食す。
それが、長く腹にとどまり、眠りまで妨げた。

長く揚げ物など食べていなかったので、拒否反応をしたというのか。
食生活は習慣性が強いが、こういう身体になっていたことは知らなかった。
いまだに揚げ物を好んだ過去の記憶は強い。

そう言えば、老人の怪我に、出来ると思ってやってみたら…の結果も多い。
昔出来たことが出来なくなっていたわけだ。

人間も直線的に継続的に変化したわけではないし、よしんばそうであったとしてもその変化を地道に検証してきたわけではない。
気づいたときにはそうなっていたわけで、それは新たな自分との出会いだ。

だが、この出会いすべてが楽しいわけでもなかろう。
なかに、思わぬ出会いがあればいいなと思う。

ラベル:

2009年12月22日火曜日

テレポリティクス

悪くも悪くも、今の政治に対する世論はテレビを代表とするマスコミが引き回していて、大衆というものの意見はどこを探しても見つからない。
多くの人はテレビで言っていることを繰り返すばかりだし、タクシーの運転手さんがしっかりとしたことをしゃべるのはラジオをよく聴いているからだろうと思う。
(テレビよりラジオがいいというのはわたしの個人的な感想です)

そのテレビの中で繰り返す主張には偏向があって、見る側はその偏向を見抜かねばならない。
このところの民主党批判のコーラスは、自民党の意志があるのかどうか。
つまり、自民党は最後の牙城としてマスコミだけは握っているのだろうか。

植草一秀氏は、

日本テレビ「太田総理」
読売テレビ「ウェークアッププラス」
テレビ朝日「TVタックル」
テレビ朝日「サンデープロジェクト」
テレビ東京「週刊ニュース新書」

を偏向番組のトップとしてこれらを上げ、自民党の影を見るが、本当か。

とにかく、自分の意見を形成するときテレビの影響をどう処理するかは大きな問題になる。
良くも悪くもテレビはわれわれの身近にある。

そして、テレビという箱の中で語られていることは、熟慮されていることだけではない。
振り回されることだけは避けたいものだ。

ラベル:

2009年12月21日月曜日

再読の効果

少し前に自分が変わることによって、同じ本が同じように読めなくなることがあると書いたが、そのことで追加したい。

「自分が変わる」の中には「その本を読むことによって自分が変わった」ことも含まれる。
それは、読んだ直後にもう一度読んでみても再読のイメージが変わっていることからも推測できよう。

その変化は再読の場合に増えるであろう注意深さだけでなく、最初にその本を読んだときにもたらされたあなたの変化にもよる。

そういうもろもろのあなたの変化を受け止めてくれる再読に足りうる本がこの世にはある。

ありがたいことだ。

ラベル:

肩こり

「肩こり」の話を聞いたことがある。
「肩こり」という言葉が出来る前には「肩こり」という症状はそれほどなかったという話だ。

「肩が凝る」というのは漱石の造語だが、それまでは「肩こり」の人は目立たなかった。
言葉によって自覚する人間が増えただけのことか、それとも症状自体が増えてきたのか。

「鬱病」についても同じ疑問がある。
とにかく、最近「鬱病」は多いし、医者も何でもかんでも鬱病にしたがる傾向がある。
けれどもこの病気の場合、どこまでが病ではなくて、どこからが本格的病かの判断は難しい。
手っ取り早く、みんな「鬱病」ということで、といったところだろうか。

それで助かった鬱病の人々も知っている。
けれども何でもかんでもこの病名に逃げているのは得策ではない。

「鬱病」の存在を認識したのは結構なことだが、それが、単なるファッションや隠れ蓑として形骸化したのでは、病としての鬱を持つ人間も困ることになる。

鬱気質と「鬱病」は違う。
「鬱病」とは思っているよりずっと過酷な症状である。

ラベル:

非正規レジスタンス

心の調子がよくないと、ついついこの手の本に手を出してしまう。
同列には論じられないだろうが、昔あった大衆小説がそうだった。

大衆小説は寝転んでうつらうつら聞いていても大体ついていける。
注意を散漫に払っているだけでずっと読み続けられる。
読者にやさしい文体だ。

その結果、何も得ないかというとそうでもない。
知らず知らず大衆小説の寄って立つ価値観は伝わる。

この石田衣良のシリーズは、さらに価値観がはっきりとしていて、声高にならないところがいい。
まあ、実際は声高になっているが、ぞんざいなマコトのセリフの中に声高さを押し隠している。

それにしてもだ、標題の「非正規レジスタンス」はぼんやり生きていれば見えてこない。
この作家、思っているよりずっと取材をしている。
というよりは、銭を取れる小説というのはしっかりと取材しているものだ。
その取材が小説のなかにうまい具合に内包されているのが妙というものだろう。

けどねえ、繰り返すが、「非正規レジスタンス」を読むと大変なことになっているのがわかる。
一生懸命生きている貧困者の存在は、それは、社会が産み出したものだろう。
その状況に対して、だれが、声を上げるのだ。

そういうことが気になっている。
加勢しますぜ。
だんな。

ラベル:

2009年12月20日日曜日

再読の効果

わたしの記憶力は最近とんと信用が置けなくて、前に読んだ本をまた読んでしまうことがある。
それでも読み出すと、うん?、これ前に読んだよな…、くらいは気づくのである。

人でもものでもそうだけれど、本もまた、そこにドデンと居座っていて、いつ行っても前と同じ本に出合えるというものではない。
本の内容は変わらないが、こちらが変わっているかもしれないからだ。
そういうとき、自分の変化を意識するのは、わたしにとっては意外と楽しいものである。

出合いは、相手や自分に属するのではなく、二つのものの間にその度にぷかりと浮かび上がるものだというのは、そういった意味である。

「上野千鶴子なんかこわくない」上原隆著(毎日新聞社刊)は、前に読んだ記憶があったけれど、何か気になって取り上げた本である。
この本が、いたく切なかった。

タイトルの上野千鶴子に関しての洞察よりは、どのような事情で上原さんが上野千鶴子と向かい合わなければならなかったのかが、まことに身につまされる。
端的に言えば、夫婦のすれ違いがその原因だが、そのところの事情が、第一章「私の事情」と「あとがき」にやわらかい書きっぷりながら、細々としたそのときの心の動きも含めて、読み手に伝わるように丁寧に書き込まれている。

その底には、著者ははっきりさせていないが、理詰めで何かを、誰かを追い詰めていく方法に決定的な落とし穴があることを予感させる。

その落とし穴ははっきりさせたほうがいいものだが、その落とし穴の指摘も強力な理詰めという武器に返り討ちされそうだ。
わたしの期待するのは、いまは、ほぼなくなってしまった村の長老の知恵のようなものだろうか。

長老の知恵は、天の啓示にも似て信じるところに発生する。
その知恵を疑い、理詰めで反駁したところで何かすばらしいものが出てきたためしはない。

もしも、長老の知恵を理論的に検証したときに矛盾があっても、捨て去るには大きすぎるわれわれにとっての助けがその中にはあったと思う。

上原さんのこの著書は、理詰めに対し理詰めで対抗しようと思ったものだが、その底に、

「理詰めだけじゃだめなんだよな」
「でも理詰めしか認めてくれない人もいるしな」
「もっと、やわらかに、あたたかく、ことは進まないものだろうか」

という声が聞こえる。

わたしとこの本の今回の出会いには、前と違って、この本の底からそういった声が聞こえるようになっていたことだ。

ラベル:

2009年12月19日土曜日

パラドックス13

「パラドックス13」は今年度出版された東野圭吾の著作だが、それほど大きな評判を呼ばなかった。
今年に限って言えば、「新参者」が彼の代表作となる。
いや、今年に限らなくても「新参者」は、彼の代表作だろう。

で、話は「パラドックス13」だが、これは時間に関するSFもので、この分野は東野氏は得てではないようだ。

北村薫に時と人三部作があって、「スキップ」「ターン」「リセット」、これらと比べればそれははっきりとしてくる。
しかし、こういう得て不得手は誰しもあるもので、そのことをわざわざ取り上げて、勝ち誇ったように言うようなことではない。

むしろ、不得手なこの分野でもこれくらいまでの作品に仕上げることが出来る力量をほめるべきだろう。
いかに不得手であっても、それを出来の悪さの口実には出来ない。
それでは「東野圭吾」の名前が泣くというものだろう。

このやっかいな対象を彼なりにうまく仕上げていることに心を留めておきたい。

東野圭吾という名を背負い書き続けている人間の苦労のわかる作品である。
ここに繰り返すことは、わずかに心痛むが、この「パラドックス13」という作品は、何と言うこともない作品である。
ただ、これだけの題材にリアリティを与えながら、あれだけの長さに仕上げたのは書き続けてきた人気作家の矜持のなせる業であった。

なんのかんの言われようとも、なかなか立派な姿勢であることは間違いない。

ラベル:

2009年12月18日金曜日

灰色のピーターパン

昔通っていた喫茶店のマスターの話を思い出した。
何の拍子だったろうか、マスターがコーヒーの入れ方についてぼくに話した。
それは、うまいコーヒーの入れ方ではなく、毎日開けている喫茶店のコーヒーの入れ方だった。

一番大きなポイントは、変わらないことにある、とマスターは言った。
毎日のように来るお客さんは、うちのあのコーヒーを飲みに来てくれるのだから、あのコーヒーを出さなくてはならない。
あのコーヒーからぶれてはいけない。

それは、上にも下にもだ。

下にもはいいだろう。
まずいものは出せないと言っているわけだから。

上にもはわかりにくい。
うますぎてもいけないと言っている。
うまいに越したことはないが、たまたまうまく作られたコーヒーもよくないとおっしゃっている。
もちろん、うまいのはいいことだろう。
けれども、そのうまいコーヒーが毎日のように出せなければ、結局、客の落胆を呼ぶと説明する。

それが、変わらないこと、という意味だ。
同じものを提供することに隠された小さなひとつの秘密は、おいしすぎてもいけないという、上にもぶれない心がけだった。
もちろん、再現可能なおいしいコーヒーがいれられるようになったら、それを提供するのに問題はない。ここでは、うまいコーヒーが問題ではなく、再現性が問題になっている。

石田衣良の人気シリーズIWGPを読んでみた。
いつもの池袋の若者の世界が描き出されている。
マコトはクラシックを聞いて、果物屋の店番をしているし、その当時流行った若者のファッションも丹念に描かれる。
池袋の町の変わり具合がこの時代の流れを映し出すこともある。
それと登場人物の内面もときどき闡明にされる。

問題は、そのあとだ。
この小説はあるレベル以上に書かれようとはされていないことに気がつく。
それが、上にもぶれてはいけないということを石田衣良が知っていることを教える。

石田衣良は、こんなものかではない。
IWGPは、石田衣良にとっては毎日開ける喫茶店の連作だ。
したがって、喫茶店のマスターの心得が必要となる。

それ以上のものはといえば、べつの作品で試せばいいだけのことである。
試すか試さないかは石田衣良の勝手だ。

そういうことはさておいて、喫茶店のマスターとして、彼は十分にしたたかだということだ。

ラベル:

2009年12月17日木曜日

すた丼


渋谷の街では、牛丼ではなく、牛めしでもなく、すた丼を食べた。
このすた丼は、いまのようにチェーン展開する前に、畏友K氏に連れられて国立で食べた。
その最初のときは、圧倒的な量に驚かされた。
それから、すた丼を食べることはなくなったが、このようにチェーン展開しているとははっきりと知らなかった。
先代橋本省三氏は、今は亡くなってしまい、早川秀人氏が社長として事業展開する。
味はもちろん変わっている。
おそらくわたしの記憶による変容以上に変わっているだろう。
チェーン展開は、チェーン展開でいいのだが、基本的に味は画一的になる。
うまい、まずいの話ではない。
味にも画一的な味というものがある。
それをあえて言葉にすれば、食い物としてそれを眺めたときに胸に響く温度が下がるとでも言うか、温かみは薄れるのである。
それも致し方ないことか。
その代わり、すた丼は、今やどこでも食べられるようになった。
すた丼一杯600円。
生卵と味噌汁が付いている。
飯の量と味は、牛丼家をはるかにしのぐ。
味付けは若者向けに辛めか…
それがどうした? と問われると困る。
ただ、それだけのことである。
チェーン展開した伝説のすた丼屋の話をしたまでである。

ラベル:

渋谷センター街を歩いてみれば

用があって出かけたのだが、その帰り渋谷の街に寄ってみる。
センター街を歩いてみれば、すき家、松屋、吉野家と牛丼、牛めしチェーン店が見える。
センター街を離れ、そのあたりを回遊すれば、吉野家の店舗数が圧倒的に多い。

渋谷の街を歩くと吉野家にぶつかる。
こんなにも多かったのか、吉野家は。
これは渋谷だけなのか、それとも吉野家はもともと東京のターミナル駅には店舗数が多いのだろうか。(全国店舗総数ではすき家が吉野家を抜いたはずなのだが)

と、まずは吉野家の多さに驚く。
ついでに中を外からのぞいてみると、吉野家、松屋、すき家の順に客が多くなっていく。
すき家なんぞは昼飯時を遠く離れていたのに、センター街では席が空くのを待っているセンター街然とした女の子3人ほどいた。

なるほど、この順は、まさに値段順である。

つい最近、すき家は280円と牛丼一杯の価格を一挙に50円も安くしたのであった。
そして、この業界は値段に激しく反応して、値段どおりに客が入る傾向がある。
もっとも、すき家は以前に少しだけ値下げしたが、(このあたりはっきり覚えてはいないが、350円から330円へという感じかな)このときの反応は薄かったらしい。

で、今度の50円安。
これには客が大きく反応した。

この世界には味がどうのこうのはないのだ。
とにかく安いが一番。

うまい、安い、早い、なのである。

ラベル:

2009年12月16日水曜日

歯医者

このところ入れ歯がよく取れる。
あちこちガタがきているということだろう。

それで、近くの歯医者に出かけたが、要もないのにレントゲンを取る。
こういうところで、何のためにレントゲンなんぞ取るんだと喧嘩でも出来れば、オレの人生も変わっていたのだろうが、歯医者も稼ぐのに大変なんだろうと、見当違いなことを考えながらレントゲンを取られている。

こういったように、オレはいままでずいぶんレントゲンを取られ続けてきたのだろう。

たまには言わんかい、腹の底に湧き上がったことを。
皮肉まじりに自分の主張のなさを歯医者で思う。

何と言うこともなく今年も暮れていく。
クリスマスから正月、この時期の喧騒がわたしにはつらい。

ラベル:

2009年12月15日火曜日

袋小路の男

絲山 秋子「袋小路の男」を読む。
まったくもって力が抜けていて、それでいてセンスは随所に出る。
川端賞というのは、こういう作品が好きだなと、あっという間に読了するが、この手の作品は実際に書くとなるとそれはもう大変で、もともと書くという作業は精神のどこかに力が入るもので、その力を虚脱させるわけだから…
この人は精神を病んでいるらしいが、もういまは治ったのかな、「北緯14度」でも思ったが、なかなかにいいスタンスをしておられる。
ああだこうだと社会批判を怒鳴り散らす影さえ見えないところもいい。
結局のところ、虚脱だな、精神の作業で大事なのは。

ラベル:

藤沢秀行

藤沢秀行は気になる人であった。

その真っ直ぐさと真っ直ぐであるが故の多くの軋轢を酒とともに乗り越えて行った碁打ちである。
彼の幸せは自分の周りに理解者(彼を理解しようとしていた人々)を持っていたことと彼の碁打ちとしての一途さとその才にある。

先日、再放送で藤沢秀行をテレビが取り上げていた。わたしはそれをラジオで聞いた。(基本的にわたしはテレビを見なくなってきていて、今後もそれが続くと思う)
そのなかで何人かが、藤沢秀行のような人はもう出ないだろうし、出てきてもらっては困ると同じようなコメントを述べていた。

出てきてもらっては困るというところが、正直なコメントでうれしかった。
そばにあまりにも真っ直ぐに生きようとしている人にいられては困るのだ。

秀行先生は存在する資格を十分にお持ちで、十分に愛された人であったが、それでもその人と接するのは大変だったのだろう。
隠し立てもなく自分を曝け出すように生きようとしたその姿は傍で見ていたくもあり、離れてしまいたくもあり。

秀行先生、その借金と浴びるように飲んだ酒を通して無頼派として名高い。
けれどもそのくくりでは捕らえきれまい。

彼は、激しく人を愛した人だと思う。
その愛し方がはたから見ていて、よくわからないものだったのだろう。
ふらふらしながらも真っ直ぐに生きた藤沢秀行は、多すぎる迷惑と暖かすぎる愛を受けて身罷った。

人は、もう秀行先生に出てこられては困るといっている。

ラベル:

2009年12月14日月曜日

真夜中の瀧の音

推敲の余地はあるとはいえ、ようやく形になった。
明日、さらに細かい推敲をして、編集者に送ることになる。

実際に作品を仕上げてみれば、ときに粗が目立ち、ときにそうでもないかと思ったりもする。

とにかく、作品を書くことがどういうことか実感できた。
編集者への橋渡しと再三の進捗のチェック、機会を与えてくれた友人に感謝したい。

ラベル:

暗くて明るい未来

内田樹氏は希望が入った2010年のイメージに、

「若い人たちは第一次産業に向かいます」
「贈与モデルに基づく新しい経済活動が始まります」
「仏教の僧侶たちがあらたな文化的指南力を発揮します」
「道場や寺子屋的な学び場を軸として地域共同体の再構築が始まります」

といったものを上げているが、わたしの希望と似通ったところがある。

わたしは経済活動における需要の掘り起こしの限界を今の時代に見ているので、これからの時代にも当然のごとく需要に対する安易な活況の訪れを見ていない。
したがって、多くの産業は成り立ちにくくなっていくだろうが、第一次産業は生産されるものが必需品であることから需要が枯れる恐れはなく、第一次産業だけはしっかりと立て直しておかねばならないと思っている。
だからと言って具体的な政策をイメージできないところが情けないのだが…
ただ、若い人たちの目が第一次産業に向かうのは健全だと思う。

そして、今までとは違う時代を迎えつつあるなかで、新たな価値観の形成が社会的に行われなければこの国はもたないと思っているから、仏教や地域共同体への期待も大きい。
その具体化に自分も参加できればと考えている。

二番目に上げられた贈与モデルはわかりにくい概念だが、中沢新一「純粋な自然の贈与」あたりがそのことをうまく説明してくれるかもしれない。

思ったよりずっと難しい時代を迎えている。
過去に習って生きていくことからなかなか離れられないものだけれど、どうやら離れなければならない時代になってきている。

さて、どう動いていくのか。
同じ船に乗ってるものとして大いに気になる。

ラベル:

2009年12月13日日曜日

少しお行儀が悪い

本屋をぶらりと歩いていると新書のコーナーで「自死という生き方」の新刊を見つける。
(写真は双葉社からの単行本)
単行本も売れていない本ではなかったが、新書版の新刊になるとは驚いた。
そこまでして人の目に触れさせるような本かどうか。

自死とは極めて主観的な問題でかように客観的を目指して本にするのも大人気ないと単行本に接したときも思っていた。

須原さんの行った自死と自死に関する考察を本にすることは別物ということをはっきりしておきたい。

「自殺であれ、自決であれ、自然死でないというだけで否定するのは、それはお行儀の悪いことだ」
「(他人の)主体的判断領域に属することに関して声高に肯定することも否定することも慎まなければならない」

上はともに須原一秀さんの書かれた言葉だ。
こう書かなければならないほどの雑音があったことは十分に想像できる。

それにしてもだ。
こうやってこれでもかと本にするのはどうだろう。
新書を見ながら「少しお行儀が悪い」とわたしには感じられた。

ラベル:

2009年12月12日土曜日

早起き早寝

この前、心療内科の医者と話していたときのこと。
わたしの不眠の話になったのですが、そのときそのお医者さんはいろいろと情報をくれました。
話術もなかなかのもので、そのなかでいろいろと印象深いところがありました。
そのひとつが、

「早寝早起きじゃない。早起き早寝なんです」

だった。

人は努力して寝られるものではない。
努力とは覚醒に通じるもので、その逆にあたる睡眠はぼんやりした状態で待つしかないというわけです。

その点、早起きはできる。
睡眠不足を覚悟して早起きをし続けていることで「早寝早起き」にたどり着くことがコツだと話してくれました。
それで、「早起き早寝」という造語と相成ったわけです。

けれどもそのお医者さんの言うには、うまく眠りにつくためには眠るだいぶ前から準備しなければならないようで、コーヒーに代表されるお茶類は8時間前から飲むのを控えるとか、8時間以上前でも大量に飲んではいけないそうです。
さらに眠る前には自分を覚醒させてはいけない、運動もだめ、入浴もだめ、読書も基本的にはだめ、ただ薄暗くし、ぼんやりと眠りを待つのだそうです。

なるほど、一日の目標を眠りに置けばそうなのでしょうが、それでは生きている甲斐がないようにも感じます。

ただ、参考になることも言っていました。
酒は躁状態になると思っている人がいるが、あれは酩酊という。
酒は醒めたときのことを考えればわかるように最高の鬱をもたらす飲み物だ。
酒を飲めば眠れるというのも間違いで、あれはただ身体を興奮させているに過ぎず、眠っているようには見えるが眠りとは程遠いものだ。

どこに重きを置いて彼の話を聞くかがポイントですが、それはさておき、常々思っていたことですが、ぼんやりした状態でいるのはとても難しい。
もしもあなたがぼんやりした状態でいられるのならば、それはとても幸せなことだと思うし、とてもうらやましい。

それにこの世の中はぼんやりできないような喧騒に満ち満ちている。
その喧騒も実のあるものは少なく空騒ぎのようなものに終始している。

ああ、ぼんやりしていたいなあ。

ラベル:

2009年12月11日金曜日

落語の話

久しぶりにある人と落語の話を交えた。
そのときは、小三治の話をしたのだったが、ふと思いついた。

わたしが、惹かれるのは(話のうまい下手の評価とは別に)小三治、枝雀だが(もちろん彼ら以外に、あの人は好きだ、この人が好きだはあるが、たとえば真打なり立ての三三師匠とか)、この二人へのわたしの思いはどこからくるのか考えてもみなかったが、あっ、これかもしれないなということに気がついたというお話だ。

小三治、枝雀ともに根は暗い男である。
根は暗い男がお客さんに楽しんでもらおうと噺を練ってくるのである。
それは技巧だけではなく、もっと大きく自分という人間の有り様まで含めたものなのだが…
小三治師匠などは、自分のことが暗くてあまり好きじゃないと言っているし、面白みのない男だとも言う。
それをどのようにお客さんの前に出すかが彼の問題だ。
小三治の師匠小さんが「おまえの話は面白くない」と断定したのは嘘もホントもなく心からそう思ったことだろう。
それを潜り抜けての小三治がある。

枝雀もまた同じような道を潜り抜けては来たが、最後の最後に潜り抜け損ねた。
根暗のわたしもずっと笑っていたら本当の笑顔になるのではないかとは今思えば、枝雀の切ない呟きだ。

わたしもまた決定的に根暗である。
この根暗をいかんせんと生きてきたが、その前を前述の二人が歩いてくれていたということだ。
それは惹かれるわけだ。

枝雀亡き後、小三治もいつまでもとは行くまい。

わたしもわたしで自分のこの暗さとのつき合いをもう一度本格的に考えなければなるまい。

あのおふた方に深い感謝を捧げながら。

ラベル:

自分の前に現れるものしか見えない

たとえ、その地に何年住んでいようが、たった一週間の通過であろうが、その長さに関係なくわたしたちの前に現れるその場所は、出会ったそのものとしての形をとる。
長ければ正確にその地を知ることが出来るというのは単なる思い込みで、残念ながら何の保証もない。
ただ多くの雑多に情報が流れ込むに過ぎない。(選び取るのはあなたに任されている)

たとえば、長くこの日本に住んでいるあなたが日本をどれくらい知っているかといえば、それはあなたの前に現れた日本を知っているに過ぎない。
これを悲観的にとってもらっては困る。

ひとは自分の知るものとしてその対象物に出合うのであって、出合ったそのものが見間違いであったり、洞察力なき観察の結果なのは往々にしてあることで、それでもこれがわたしの出合ったものだ自信を持って語ってほしい。

わたしたちが出合えるのは、おのおのが出合ったそのものでしかなく、それ以外のものには出合えないというのが定めだからだ。

人だって、そうだろう。
長くつき合ったからといってその人の本当の全体像が浮かび上がってくるわけではない。
所詮、わたしと向き合うあなたしかこちらには見えてこないのである。
うまい具合にすれば、別人に成りすまし詐欺を働くことも出来る。

とにかく目の前に現れる現象を自分がどのような偏見をもって眺めているかよく知り、同じ場所、同じ人であっても会うたびに新しく驚きをもってその場所、その人を知っていけばいい。

いずれにしても目の前に立ち現れているその場所、その人こそがあなたにとってのすべてであり、そのことはたとえ間違って見えていたとしても覚悟してこれがわたしに見えるものだと語ってしまってかまわない。

たとえば、その国に三日いたとしても三ヶ月いたとしても三年いたとしても、同じようにあなたの前に立ち現れるその国があるだけで、その国の本当の姿かどうかはわからない。
そもそも、「ほんとうの」と語るだけでうそ臭いではないか。

見た人だけの知った人だけのその国がある。
マスードを知っている人と知らない人にアフガニスタンが大きく違って見えるのはそのようなことだ。

ラベル:

2009年12月10日木曜日

学問は貧乏人の暇つぶし

「学問は貧乏人の暇つぶし」とは談志師匠の戯言だが、本人半分は本気だろう。
そして、生身の人間が日々生きていくことを第一と考えれば、これに納得もいく。

漠然と言えば、進歩は今日食べていくためには必要ない。
今日一日食うという努力が楽になるような技術革新ならばともかく、そうでない進歩は緊急時にはいらない。
進歩発展とか文化は日々生きるだけに焦点を当てて考えれば、そういうことになる。

毎日毎日のおまんまを第一に考えれば、予算にも早々余裕はないものだ。

若手研究者育成事業もそんなにもこの国が苦しいなら後回しにされるだろう。
「米百俵」の話もあるから、大事は大事だろうけれど、今日食う米がなくて本当に餓死する人を抱えている国であれば、若手研究者に回す金はないだろう。

あの事業仕分けではそんな金はないといっている。
ただし、現状がどれくらい深刻かという大事なポイントを語っていないから、それぞれの立場から文句が出るのは仕方ないだろう。

で、どうなんですかね、この国はあとどれくらいが無為に死んでいくと何とか定常状態が保てるのですか。
この国の軟着陸の地点が見定まっていなければ、あれこれ予算について論議もしにくかろうに。

ラベル:

苫米地 英人の本は売れる

苫米地 英人の本は思っているよりずっと売れている。
しゃべり方や風貌からいけ好かない野郎だと思っている方も多いだろうが、実はわたしもその一人だが、彼の著作や発言内容といけ好かない感じは直結していない。
もっともいけ好かない感じが滲出して発言や著作内容までに到っているのなら注意しなければならない。

その危険性はあるにしてもやはり彼の言うこと書くことは彼の他の諸要素とは別個のものとして捕らえていたい。
性格の悪い奴の正しい意見もあれば、性格の正しい奴の妙な偏見もある。

広く言えば、産み出される表現とその人柄は違う。
何度もここで取り上げたが、手塚治虫や松本清張はその性格のなかに強烈な悪を持っていた。
ここでの悪とはひとを気分の悪さの極へ引きずり込むようないやらしさだ。

だからといって、彼らの作品には文句はつけられないし漫画史、推理小説史に残した彼らの功績になんら批判すべき点はない。

作品群をかれらから離したとき、どうも傍にいられたら気分が悪くなるような人であった、ただそれだけのことである。

読み取るべきものは読み取っていってほしい。
その作者の性格がどうのこうのと立ち止まるのは愚の骨頂である。
いい作品は隔絶としてそこに立っている。

ラベル:

2009年12月9日水曜日

一日に食べるもの

山下大明さんは屋久島の写真家として名高いが、彼の写真集をぺらぺらめくっていて、その解説のようなところに長く屋久島の森に入るときの彼の食事について書いてあった。

もちろん、写真を撮るための長距離、長期間の森の移動であるからには運ぶ量から食事の量も削りたい。
そこに記されていたメニューは

朝―――コーヒー、ビスケット数枚
昼―――飴玉数個
夜―――一合の米の飯と目刺

里へ降りてからの生活は知らないが、山の中の彼の食事はこのようである。

人というのは思っているよりずっと食べなくても大丈夫なのかもしれない。
それとも屋久島の森が特別なのか。
目を見開かされる思いであった。

ラベル:

2009年12月8日火曜日

配偶者の携帯を見るかどうか

そんなテーマでラジオでしゃべっているが、こういうことがテーマになるのだな。

残念ながら、わたしは他人の携帯の中身に何の興味もわかないのだが。
妻でないほかの人ならばどうかというと、これもまったく変わらない。
携帯だけではなく、その人の秘密自体に何の興味もないのだな。

これは好奇心の衰えで、人間として危ういことになっているのかな。
なにか興味があるのかと問われれば、これといってないのだが、もし何かに興味を持つようになったとしても人の携帯の中身には興味はいかないだろうな。

目の前の人間から忖度できないのだったらそれはそれでいいかと思っているし、これは変わらないのじゃないだろうか。

そういえば本当に人の秘密に何の興味もないな。
う~ん、問題かな。

ラベル:

日の丸が売られている


日の丸とは、戦時中に出征兵士が知人や隣人や親兄弟に励まされ戦地に持っていったあの日の丸のことである。
その日の丸が戦後65年も過ぎようとしている今、アメリカで売り買いされていると言うのだ。
もともとは太平洋戦争当時アメリカ兵が戦死した日本兵が持っている奇妙なものとして持ち帰ったのだろう。
それが、今は商品として流通していると言うのだ。
嘆かわしいと出演していたコメンテイターは語っていたが、それが商品というものであって、商品の価値はもともとそれがどういうものであったかではなく、最終結果としてエンドユーザーがそれに価値を見出せばこのように商品となる。
それがどのような価値があるのかは知りたいところだが、どうやらテレビを見ているかぎりでは美術工芸品的な感じであった。
そう言われればそうかとも思うが、関係者はやっていられまい。
振り返って多くの場合われわれも人を労働商品として売り買いしているのだが、あるいは自分を売り買いされているのだが、こちらもお腹立ちでしょうか?

ラベル:

当事者と傍観者

当事者と傍観者、この区別は大切だ。

けれども、区別するだけでなくその先となると、当事者になっていく道は思ったよりもずっと深い覚悟がいる。
それは前回紹介した本の中で、マスードと接しながら長倉洋美が自分に対して傍観者の姿が根強く残っていると感じ、指摘するときにもはっきりと現れる。

荒っぽく言えば、当事者であるなら何に対しての当事者でもかまわない。
とにかく当事者になっていく道は険しい。

その代わりといってはなんだが、選び取った場所で当事者になっていくときにわれわれは居場所を見つけられるかもしれない。
それがわれわれの当事者になっていくときの希望だ。

居場所なき存在で安住できるのは傍観者の特権だ。
その傍観者である自分に気づき、傍観者であり続けることに耐えられない気分を抱くのならば、あなたは当事者への道を選ぶべきだろう。
それがどのような居場所を提供してくれるかはわからないが、その場所が期待にこたえてくれることは想像できる。

くりかえすが、どのような対象にかかわるにしろ当事者たらんとするとき、その道はなだらかではない。
それは、当事者の対象が自分の人生である場合も同じだ。
自分の人生の当事者になる場合も当たり前に険しい。

だとしても、いま自分が当事者であるのか傍観者であるのかは意識していたい。
当事者への道の険しさにはじめて気づくわたしの思いです。

ラベル:

2009年12月7日月曜日

仕上げないといけない…

窮地に立たされていて、どうしても仕上げなければならない小説を書いているのだが、ようやく仕上がる目処がついた。
よくわかっていなかったが、作品というのは書けば書くほど瑕疵が見えてきて困ってしまう。
その瑕疵を隠してしまおうとすると、その下世話な浅知恵がまた大きな泣き所となる。
過不足ない作品にしようとああだこうだと苦労しているうちに結局、長い小説になってしまうというのはよくわかる。

なるほど上出来の短編というのは名人技だ。
磨き上げた玉は、振り返れば小さいほど磨くのが難しい。

もっとも以上のことは長い短いだけで決まるほど作品の世界は簡単ではないことを承知しての話なのだが。

ラベル:

アフガニスタン敗れざる魂

長倉洋美の目を通してマスードの生きたアフガニスタンの姿に接してみれば、「青い鳥」がどうのこうのと言っている自分がとんでもない甘いところにいる気がしてくる。
実際甘いところにいるのだろう。

この日本にいるかぎり身の内に戦いを抱えていなければ、やはり甘ちゃんへ流れていくのは自然のことだ思う。
この日本であっても限りなく真剣であるためには戦いが不可欠かもしれない。
実際の戦争をわたしは望まないが、戦いの日々に思いを寄せる人の気分はわかる。
それは、ある種の山登りのようなものだろう。

そういうことを離れ、ただ生きていることの中に剣が峰の危うさをもつ生き方があったとしよう。
そのときにアフガンの戦いの中にあったマスードの笑顔はわれわれのどこかに存在するのだろうか。

マスードの姿をもって戦っていきたい。
この平和のようなものが蔓延する場所であっても。

ラベル:

コトバの裏腹

まあいい加減でいいんだと、あえて書くのは、いい加減では求めるその場所にたどり着けないことを知っている人に向かってだ。
ひたむきさはたどり着く場所を夢見ている人には必ずつきまとう。
いたしかたないことだ。

その致し方ないことを揺らしてみたかった。
たどり着く場所は己だけが知っているささやかな場所にしてほしい。
たどり着くための努力は大向こう受けしない鄙びた田舎のあぜ道を夕陽を背に負ってとことこと歩く、ゆっくりとひたむきに歩く、そんな姿であってほしい。

決して大向こう受けはしない。
その代わりにしっかりとした仲間がいる。
そんな風であってほしい。

人生、いろいろある。
軽口で書いているのではない。
ほんとうに、人生、いろいろある。

ラベル:

2009年12月6日日曜日

桃太郎

「桃太郎」というお話への疑問。

桃太郎の家来は犬とサルとキジなのだけれど、あれはレベルを同じに言えば、犬とサルと鳥にならなければおかしいと思うが、キジだけ詳しいのはなぜだろう。

よく考えれば、犬とサルには人がそれぞれ彼らに結びつけた精神的属性があるが、鳥には飛ぶという属性はあっても、精神の属性はない。
そこでキジまで降りてきて勇気という属性をつけたのだろう。

これで当たっているだろうか。
調べてみれば、サル目、キジ目、イヌ科となっており、イヌだけが特別なようでもある。

まあ、暇な人間のやることには罪がないもんで…

ラベル:

宗教だとか思想だとか

たとえそれが幸せを感じさせるものであったとしても貧相なものを大切にするにはやはり力がいるだろう。
宗教だとか思想ならば、そのささやかなものの大切さを信じることで教えてくれるだろうから、それに頼るのに何の不思議もない。

けれども少なくとも日本に宗教は広く流布していない。
無理に動くことをしなければどうしても自分を頼るしかなくなる。
といって、それほど自分は頼りにもならない。

で、どうするかだが、思ってみるに、幸せだってそんなにたいしたものではなくて、ただそれを育てていく過程とか空間を満たせばいいだけのことだから、あんまり急く必要はなさそうだ。

だめならだめなままじっくりとあきらめて、歩くしかない。
「人生ちょぼちょぼ」というのは別の意味で当たっているわけです。

なんかしょぼい話になっていますが、もともと人生や幸せはしょぼいもので、その中にどこか納得できるものを見出していくのが力ではないでしょうか。
見出したものを表現した音楽や絵画や文学が美しかったり心動かしたりするのは、そこに力が介在しているからでしょう。
力の介在が美しく見せているだけでそれらの表現対象自体がどうしようもなくすばらしいと考えるのはどうでしょうか。
すばらしいかもしれませんが、それがだれでも見られるというのは眉唾にも思えます。
まあ、ゆっくりと気ままに、自分の周りのガラクタの中に幸せを探そうではないですか。
見つかれば自分にとって、あのガラクタがまんざらでもなかったことに気づきます。

ラベル:

青い鳥の話

メーテルリンクの「青い鳥」のなかでは、青い鳥が家にいて、これを「幸せは身近なところにある」、もっと言えば「だから、その身近にある日々の幸せを大切にしよう」というメッセージと解釈するようになっています。 

けれどメーテルリンクの「青い鳥」の原作戯曲ではその話に続きがあり、家にいた青い鳥も結局逃げてどこかへ行ってしまうところで話が終わります。

これをどう解釈するかは自由で、みなさんにお任せしますが(意外と舞台ではそのような終わり方のほうがよかろうという趣向なのかもしれない)、わたしがここで書こうとしている話は別のところにあります。

身近にあるまではわかるけれど、今の段階のわたしにはその青い鳥はずいぶん貧相な姿をしているのではないかと思えるのです。
貧相な姿はそのまま貧相な日々の幸せと読み替えてもらってかまわない。

ああ自分の身近にこんなにステキな日々の幸せがあったではないかでなく、見つけた幸せはかなり貧相なものだったのではないかと思うのです。

ここでつかんでおきたいのは、わたしたちにとって幸せは貧相であってもかまわないということです。
幸せはいつもステキなベールをまとっているという都合のいいことはなく、多くの場合、そのベールは日々の幸せとさえ呼べないようなみすぼらしいものかもしれない、そういうことだ。

それを幸せとして育てていく過程(=多くの場合は家庭)に幸せが宿るのかもしれない。
宿るかもしれないが、取るに足らない姿であっても驚かないでいること。
幸せとはもともと自分がそこに幸せがあると見るだけで、他からもまた幸せと呼ばれるかと言えばそれは疑問で、もともと幸せに他の視線は関係していないからそれでいいのだ。

幸せに出会うのはひとえにそのみすぼらしさの中に(多くの場合みすぼらしい姿をしているのではないかと思う)幸せを見て取り、その幸せと思われるものを育んでいくことに日々を賭けてみる中に薄明かりのような頼りなさで浮かび上がり、いつしかそれが実感となっていくようなことだと思う。

くりかえしているのは、幸せというのは実はとてもつまらないもので、だからこそ多くの人には見えないのだが、そのつまらなさを大切に育ててみれば、その育てる中に幸せが宿るのだろうという思いです。

問題は「一見つまらなく見えるものを楽しむ心がもてるかどうか」と「どのつまらなさを選ぶかという自分に向けられた刃」です。
大切なものは他のだれでもなくあなたにとって大切なもので、それを多くのガラクタの中から選びつかんでともに生きていってもらいたいものです。

「青い鳥」で家に帰って見つけた幸せは、とても貧相な姿をしていて、それを見て「ああ、わたしの大切なもの」と思い、そして思い続けられるか、それとも「いや、やはりどう見ても貧相だ」と途中で思ってしまうか、初めから思えないか、そういうもののような気がします。

幸せというものは実はとても貧相なもので、それを育ててどうなるのでもないのですが、たぶん育てる中であなたにとってかけがえのないものになる可能性は十分にあると思うのです。

というのも、何しろこの話が、かけがえのないあなたなについての話だからです。

ラベル:

2009年12月5日土曜日

私の男


筆力(表現力のうまさではなく書き進む力と考えてほしい)のある作家だ。
その筆力が作品を仕上げていく圧倒的な速さにつながっているのだろう。
「赤朽葉家の伝説」出版後、一年も経たないうちに上梓したこの作品で直木賞をとる。
「赤朽葉家の伝説」と比較するとこちらのほうがずっとコンクになっている。
一組の男と女に絞り込んだからだろう。(「赤朽葉」は三代の女の人生だから)
その一組の男と女はお父さんと娘と呼び変えてもいい。
それがいかなる関係かをこの小説が明らかにしていく。
それは単なる種明かしではなく、まさにその関係を書き込むことだけでこの小説は成り立っている。
したがって、特殊なこの関係を書き込むために他の登場人物や住処や情景は描かれる。
狙い定めた小説だ。
これくらいの内容を書くにはこれくらいの量が必要なのだということも教えてくれた。
長く書けばなんとなく説得力も生じるものだ。
逆に説得力を生じさせるにはある程度書き込んでいかなければならない。
もちろんぼんやりとしたものにならぬような注意は肝心だが。
その着地の仕方をこの作家はよくご存知だ。
作品にはこれだけの手間隙をかけねばならないのだ。
そういうことを教えてくれる。
その手間隙を書けた作品を桜庭一樹というひとは次々と産み出す。
その世界はそれほど派手なものではないが(たとえば東野さんのように大向こう受けはしないが)丹念に書き込まれたものであるのは確かで、こういうものが作品なのだと教えてくれる。
この作品で言えば、一組の男女を書くのだが、最終的にはその関係性を抉り出していくことになる。
男がどうしたこうした、女がどうしたこうしたもあるが、行きつく先は男でも女でもなく「関係性」、人と人との特殊なありえない関係のあり方を差し出して見せる。
ほら、こんなふうにねと。
それから後は読み手側の問題だが、どうやらそれぞれの読者がそれぞれに自分のやり方で受け取っているようだ。
で、そのそれぞれの読者の総計だが、これが結構いるらしいのだ、うらやましいことに。

ラベル:

2009年12月4日金曜日

ブログと作品の違い

ブログと作品の違いは明らかに気構えだな。
だから作品を一方で書き続けていないとブログを書くことは作品に何の影響も与えない。

作品とブログ。
この両者のスイッチを持っていない人間にとってブログ自体がブログ以上の意味を持つことはない。
もちろんそれでいいわけだ。
ブログなんだからな。

そのブログに何がしかの期待を描いているところがわたしの中に少しあって、いま非常に反省しているところです。

作品を書きかけているのですが、それが進まんのですよ、あまりに下手すぎて。
少し書いて読み返すと泣きそうになる。
ま、しかし、書き上げるしかないのですが。

作品は大変だ。
他者も巻き込んでしまっているからブログのように中途半端にほっぽり出せない。

作品にしていく人に改めて頭が下がります。

ラベル:

2009年12月3日木曜日

片山原子(アトム)先生と再会

大腸ポリープの有無を検査せんと新宿JR病院に赴く。
もちろん内視鏡担当は片山先生を指名させていただいた。
本日は予約のみ。
検査は25日。
わたしのクリスマスは大腸内視鏡精査をもって祝される。
めでたいな、めでたいな、あ~らめでたいことで祝される。

しかし、久しぶりに会ったアトム先生は前と変わらず落ち着いた対応であった。
いまは外科のお医者さんになっておられました。
片山さんは手術が好きだからね。

好きでやっているというのはいい、権威もへったくれもないから。
好きで腕がいい、これに尽きる。

それで失敗したらごめんね、てなもんである。
そういうもんだ、医者から見た患者さんは。
その程度がいい。

あまり深く患者の生死に医者が自分の精神を煮詰めてしまうと思わぬことが生じる。
それが、ときに弊害も生じさせる。
前も語ったように医者の死は一般性を持つが患者の死は個別特殊性を持っているから所詮医術だけでは対応しきれないのだ。

それをしたいのなら名田庄村の中村先生になるしかない。
あの人は医者を辞めて名田庄村の村民として生きている。
そこに個別特殊性への細い道がほの見える。

片山先生は違う。
はじめから個別特殊性を見ない。
自分の好みと腕への信頼で患者に接する。
それはそれで一つの生き方だろう。

そうわたしは思って、片山さんを贔屓にしている。
贔屓じゃなければ、なんだこの医者はになるかもしれないが。

ラベル:

物語は隠される

われわれの眼に触れるものはすでに社会によって犯されている。
犯されているとはその解釈にははっきりとした道が引かれているということだ。

その道は随時変化はしていくのだが、肝心なことはそのような解釈の道がすでに開けているということとその道を知らず知らずに歩かされていることを意識することだろう。
意識することによって、その道意外にも解釈の道はあることを知ることが出来る。

この場合どちらの解釈が正しいかの問題設定には無理がある。
「正しいか」と問うた場合、そこには何某かの権力が介入してくる。
判断をするには別の目が必要となるからで、どちらが正しいかの判断はこの何某かのものを頼りにしてしまいがちだからだ。

どちらが正しいかではなくどちらの解釈を自分はとるかであり、どちらをとるかの思考過程には人間への理解がともなってくる。

自殺者は弱者であるという社会的解釈は徐々に破られつつある。
問題は自殺者一般でなくあなたの死が問題となるからで、事件とはもともときわめて個別的なのだ。

ある人が社会的には恥ずべき行為をしたとしよう。
そのまま批判されるべき人物もいるだろう。
けれどもそうせざるを得ないところまでその人物を追い込んでいるものがあったとするなら、その追い込んでいるものを見過ごすことの是非は問うてみたい。

われわれの眼に映るのは社会的な解釈も含んだ現象である。
そしてすべからく現象は背後にある物語を隠そうとする。

わたしが思っているのは、背後の物語に捨て置けないものがあるケースのことだ。
そういうことをトータルで語らなければ事件のもつ別の姿は見えてこないだろう。
それはその事件が法的にどうかというところから少し離れてしまう話なのだが、必要とされることでもある。

ラベル:

2009年12月2日水曜日

違うものだったのに


長い間たいした区別もつけずにぼんやりと過ごしてきたものに「蝋梅」と「老梅」がある。
上の黄色いほうが蝋梅、中国原産の唐梅で高さは3メートルと言ったところか。
老梅はそのまま老いた梅ということになる。
こんなしっかりとした違いをわたしはぼんやりと区別もつけずにいたのだった。
言ってしまえば、蝋梅の存在を軽視していて老梅みたいなものだろうか(ぜんぜん違うじゃん)と思っていた。
別に取り立てての話でもないが、この頃ある人のエッセイで気づかされた。
それでも少しものが見えてきたように思うのだから妙なものだ。
そういえば、三重県の四日市市には「老梅庵」という飛びぬけてうまい蕎麦屋があるが、あれは「蝋梅庵」では困るだろう。
風情がない。
蕎麦は観賞用ではないのだから。
ああまた、新蕎麦のころに食べてみたいな、あの蕎麦。

ラベル:

思考の行き着く先

実践的思考の行き着く先は、その実践者が真摯に対象に向かっている場合、共通性が生じる。

それは味覚において(本来味覚は個人的な嗜好でばらけてしまいそうなものだが)優れた趣味人の舌に一致が見られるがごとくだ。

こんなことを聞いた。

格闘技者にとって、
「筋肉は嘘をつかない」
また
「筋力トレーニングは(筋肉と言ってもよいだろう)嫉妬深く、ただひたすら筋トレをやるに限る」

将棋の森下卓に「駒得は嘘をつかない」というのがあって、かれは相手の駒を取るごとに勝利の感じが近づくらしい。

麻薬には次のような言葉もある。
「アヘンは麻薬の王者と言ってもよいのだが、きわめて嫉妬深い。
 酒などを飲んでアヘンをやるとその心地よさは減退する。
 やはりアヘンはアヘンだけを純粋に楽しむのに限る」

似ていると言えば似ている。

ただ面白いのはアヘンは別として将棋も格闘技も「駒得」や「筋肉」が絶対的な正解になるとはかぎらないことをどちらの発言者も知っているということだ。

絶対的な正解ではないが、かなり信用するに足る方針だというところが、まことにスマートに表現されているではないか。

ラベル:

さっきまで死のうとしていたのに

どのくらい本気に死のうとしていたのかは、ここで詳しく説明はしない。
どう説明したところで、わたしの中の問題でうまく伝わるにはこのような短い場所では難しいだろう。
ただただ、ナルシズムに向かうだけになってしまうかもしれない。

問題はその後のことなのだが、死ぬような状況ではなくなったときに心がうまく歩調を合わせて進んでくれないのだ。
ああそうか、それじゃあ生きようとはならないのだ。

確かに俺は死のうとしていたのだという感触が、心のなかに残っているのがわかる。
そいつがわたしの心に萌芽しようとする希望を刈り取っているのだろう。

生きる希望に身を寄せるには、ほかのものが風景になっていかなくてはならない。
生きる希望自身が風景ではどうしようもないのだ。

ちょいと前の若者は(今でもそうかな)電車のなかで平気にキスをしたものだ。
彼らには周りの乗客が風景になっていたらしい。

ただ、少なくとも目の前の恋人らしきものは風景ではなかった。
そこが、違うんだな。
ここに書いてきた希望の萌芽さえ風景になってしまった人間の生きる意欲のなさと。

どっちがどっちということもないのだけれど。
寒くなってきたね。

ラベル:

2009年12月1日火曜日

死の周辺

塩見鮮一郎「死の周辺」を再読する。

改めて死を思う。
大げさなことではない死をわれわれは大げさなものとして取り上げてきたのだなと思う。

安らかな死と言ったとたんにいろいろと浮かぶが、死に安らかも何もないだろう。
死はただそこに横臥しているに過ぎず、その姿にわれわれが思いを託しているに過ぎない。
その思いには知らずにまとってしまった死に対するいろいろな雑念が付きまとってくるのだろう。

もし死が自分のなかに入ってくるとすれば、ある人のその人だけの死であって、その死を語るには「わたし」に淫して語るしかあるまい。
それが死の持つ特殊性で一般的な死というものを語ることは難しいし、一般性のなかにある人の死を入れてしまうには抵抗がある。

もし抵抗がないとすれば、それはある人の死が一般的に流れてしまったからだろう。

この本を再び読んでみれば感じる。
こんなにも一人の死を追いかけて一人の死の個別性を謳いあげた作品はあるまい。

この世にあふれた死はあまりにも個別性から離れ過ぎており、死自体を見つめてはいない気がする。

ラベル:

神去なあなあ日常

人が我が物顔に生き出したのはそう前のことではない。
ちょっと前は自然のなかにわが身を置かしてもらっている感覚で生きていた。

その関係だからこそ築かれていく感覚というものもあった。

いまどきそんなことを小説にしようとする人がいたのかと驚く。
しかも主人公は生粋のいまどきの若者だ。

林業も農業もちょいとした感覚で入っていける場所ではなく、あの昔の自然との関係を改めて現代に持ち込む試みだ。
そういうわけだから現代感覚を維持しようとしていると無理がたたるという結果になる。

この小説の主人公は何とかそれをやってのけることになる。
主人公が立派だったからではない。
いい加減だったからだ。

すべからくこの世はいい加減に生きるに限る。
所々に真剣さが出ればいい。

そういう世界観がこの小説には横たわっている。

ラベル: