2009年12月1日火曜日

死の周辺

塩見鮮一郎「死の周辺」を再読する。

改めて死を思う。
大げさなことではない死をわれわれは大げさなものとして取り上げてきたのだなと思う。

安らかな死と言ったとたんにいろいろと浮かぶが、死に安らかも何もないだろう。
死はただそこに横臥しているに過ぎず、その姿にわれわれが思いを託しているに過ぎない。
その思いには知らずにまとってしまった死に対するいろいろな雑念が付きまとってくるのだろう。

もし死が自分のなかに入ってくるとすれば、ある人のその人だけの死であって、その死を語るには「わたし」に淫して語るしかあるまい。
それが死の持つ特殊性で一般的な死というものを語ることは難しいし、一般性のなかにある人の死を入れてしまうには抵抗がある。

もし抵抗がないとすれば、それはある人の死が一般的に流れてしまったからだろう。

この本を再び読んでみれば感じる。
こんなにも一人の死を追いかけて一人の死の個別性を謳いあげた作品はあるまい。

この世にあふれた死はあまりにも個別性から離れ過ぎており、死自体を見つめてはいない気がする。

ラベル:

1 件のコメント:

Anonymous わかけん さんは書きました...

私もあの作品読みました。表紙の絵が好きです。
私にとっての「死」も、やはり身近なところで語るしかなく、私にとってそれは、15年前に神戸の地震で死んだ一つ年上の姉の死でした。その個人的な想いを抱きながら、まるで小説を読むかのように、塩見さんの身近な「死の周辺」の出来事を読みました。作者の、とても身近である筈の死を「客観的な出来事」として書こうとしている姿勢を強く感じました。それでいて「私に淫している」ことも。ある種の感動が、読後湧き上がってきたことを覚えています。

2009年12月1日 12:28  

コメントを投稿

登録 コメントの投稿 [Atom]

<< ホーム