自分の前に現れるものしか見えない
たとえ、その地に何年住んでいようが、たった一週間の通過であろうが、その長さに関係なくわたしたちの前に現れるその場所は、出会ったそのものとしての形をとる。
長ければ正確にその地を知ることが出来るというのは単なる思い込みで、残念ながら何の保証もない。
ただ多くの雑多に情報が流れ込むに過ぎない。(選び取るのはあなたに任されている)
たとえば、長くこの日本に住んでいるあなたが日本をどれくらい知っているかといえば、それはあなたの前に現れた日本を知っているに過ぎない。
これを悲観的にとってもらっては困る。
ひとは自分の知るものとしてその対象物に出合うのであって、出合ったそのものが見間違いであったり、洞察力なき観察の結果なのは往々にしてあることで、それでもこれがわたしの出合ったものだ自信を持って語ってほしい。
わたしたちが出合えるのは、おのおのが出合ったそのものでしかなく、それ以外のものには出合えないというのが定めだからだ。
人だって、そうだろう。
長くつき合ったからといってその人の本当の全体像が浮かび上がってくるわけではない。
所詮、わたしと向き合うあなたしかこちらには見えてこないのである。
うまい具合にすれば、別人に成りすまし詐欺を働くことも出来る。
とにかく目の前に現れる現象を自分がどのような偏見をもって眺めているかよく知り、同じ場所、同じ人であっても会うたびに新しく驚きをもってその場所、その人を知っていけばいい。
いずれにしても目の前に立ち現れているその場所、その人こそがあなたにとってのすべてであり、そのことはたとえ間違って見えていたとしても覚悟してこれがわたしに見えるものだと語ってしまってかまわない。
たとえば、その国に三日いたとしても三ヶ月いたとしても三年いたとしても、同じようにあなたの前に立ち現れるその国があるだけで、その国の本当の姿かどうかはわからない。
そもそも、「ほんとうの」と語るだけでうそ臭いではないか。
見た人だけの知った人だけのその国がある。
マスードを知っている人と知らない人にアフガニスタンが大きく違って見えるのはそのようなことだ。
長ければ正確にその地を知ることが出来るというのは単なる思い込みで、残念ながら何の保証もない。
ただ多くの雑多に情報が流れ込むに過ぎない。(選び取るのはあなたに任されている)
たとえば、長くこの日本に住んでいるあなたが日本をどれくらい知っているかといえば、それはあなたの前に現れた日本を知っているに過ぎない。
これを悲観的にとってもらっては困る。
ひとは自分の知るものとしてその対象物に出合うのであって、出合ったそのものが見間違いであったり、洞察力なき観察の結果なのは往々にしてあることで、それでもこれがわたしの出合ったものだ自信を持って語ってほしい。
わたしたちが出合えるのは、おのおのが出合ったそのものでしかなく、それ以外のものには出合えないというのが定めだからだ。
人だって、そうだろう。
長くつき合ったからといってその人の本当の全体像が浮かび上がってくるわけではない。
所詮、わたしと向き合うあなたしかこちらには見えてこないのである。
うまい具合にすれば、別人に成りすまし詐欺を働くことも出来る。
とにかく目の前に現れる現象を自分がどのような偏見をもって眺めているかよく知り、同じ場所、同じ人であっても会うたびに新しく驚きをもってその場所、その人を知っていけばいい。
いずれにしても目の前に立ち現れているその場所、その人こそがあなたにとってのすべてであり、そのことはたとえ間違って見えていたとしても覚悟してこれがわたしに見えるものだと語ってしまってかまわない。
たとえば、その国に三日いたとしても三ヶ月いたとしても三年いたとしても、同じようにあなたの前に立ち現れるその国があるだけで、その国の本当の姿かどうかはわからない。
そもそも、「ほんとうの」と語るだけでうそ臭いではないか。
見た人だけの知った人だけのその国がある。
マスードを知っている人と知らない人にアフガニスタンが大きく違って見えるのはそのようなことだ。
ラベル: 日常 考察
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