2009年12月8日火曜日

当事者と傍観者

当事者と傍観者、この区別は大切だ。

けれども、区別するだけでなくその先となると、当事者になっていく道は思ったよりもずっと深い覚悟がいる。
それは前回紹介した本の中で、マスードと接しながら長倉洋美が自分に対して傍観者の姿が根強く残っていると感じ、指摘するときにもはっきりと現れる。

荒っぽく言えば、当事者であるなら何に対しての当事者でもかまわない。
とにかく当事者になっていく道は険しい。

その代わりといってはなんだが、選び取った場所で当事者になっていくときにわれわれは居場所を見つけられるかもしれない。
それがわれわれの当事者になっていくときの希望だ。

居場所なき存在で安住できるのは傍観者の特権だ。
その傍観者である自分に気づき、傍観者であり続けることに耐えられない気分を抱くのならば、あなたは当事者への道を選ぶべきだろう。
それがどのような居場所を提供してくれるかはわからないが、その場所が期待にこたえてくれることは想像できる。

くりかえすが、どのような対象にかかわるにしろ当事者たらんとするとき、その道はなだらかではない。
それは、当事者の対象が自分の人生である場合も同じだ。
自分の人生の当事者になる場合も当たり前に険しい。

だとしても、いま自分が当事者であるのか傍観者であるのかは意識していたい。
当事者への道の険しさにはじめて気づくわたしの思いです。

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