2009年12月5日土曜日

私の男


筆力(表現力のうまさではなく書き進む力と考えてほしい)のある作家だ。
その筆力が作品を仕上げていく圧倒的な速さにつながっているのだろう。
「赤朽葉家の伝説」出版後、一年も経たないうちに上梓したこの作品で直木賞をとる。
「赤朽葉家の伝説」と比較するとこちらのほうがずっとコンクになっている。
一組の男と女に絞り込んだからだろう。(「赤朽葉」は三代の女の人生だから)
その一組の男と女はお父さんと娘と呼び変えてもいい。
それがいかなる関係かをこの小説が明らかにしていく。
それは単なる種明かしではなく、まさにその関係を書き込むことだけでこの小説は成り立っている。
したがって、特殊なこの関係を書き込むために他の登場人物や住処や情景は描かれる。
狙い定めた小説だ。
これくらいの内容を書くにはこれくらいの量が必要なのだということも教えてくれた。
長く書けばなんとなく説得力も生じるものだ。
逆に説得力を生じさせるにはある程度書き込んでいかなければならない。
もちろんぼんやりとしたものにならぬような注意は肝心だが。
その着地の仕方をこの作家はよくご存知だ。
作品にはこれだけの手間隙をかけねばならないのだ。
そういうことを教えてくれる。
その手間隙を書けた作品を桜庭一樹というひとは次々と産み出す。
その世界はそれほど派手なものではないが(たとえば東野さんのように大向こう受けはしないが)丹念に書き込まれたものであるのは確かで、こういうものが作品なのだと教えてくれる。
この作品で言えば、一組の男女を書くのだが、最終的にはその関係性を抉り出していくことになる。
男がどうしたこうした、女がどうしたこうしたもあるが、行きつく先は男でも女でもなく「関係性」、人と人との特殊なありえない関係のあり方を差し出して見せる。
ほら、こんなふうにねと。
それから後は読み手側の問題だが、どうやらそれぞれの読者がそれぞれに自分のやり方で受け取っているようだ。
で、そのそれぞれの読者の総計だが、これが結構いるらしいのだ、うらやましいことに。

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