2009年12月3日木曜日

物語は隠される

われわれの眼に触れるものはすでに社会によって犯されている。
犯されているとはその解釈にははっきりとした道が引かれているということだ。

その道は随時変化はしていくのだが、肝心なことはそのような解釈の道がすでに開けているということとその道を知らず知らずに歩かされていることを意識することだろう。
意識することによって、その道意外にも解釈の道はあることを知ることが出来る。

この場合どちらの解釈が正しいかの問題設定には無理がある。
「正しいか」と問うた場合、そこには何某かの権力が介入してくる。
判断をするには別の目が必要となるからで、どちらが正しいかの判断はこの何某かのものを頼りにしてしまいがちだからだ。

どちらが正しいかではなくどちらの解釈を自分はとるかであり、どちらをとるかの思考過程には人間への理解がともなってくる。

自殺者は弱者であるという社会的解釈は徐々に破られつつある。
問題は自殺者一般でなくあなたの死が問題となるからで、事件とはもともときわめて個別的なのだ。

ある人が社会的には恥ずべき行為をしたとしよう。
そのまま批判されるべき人物もいるだろう。
けれどもそうせざるを得ないところまでその人物を追い込んでいるものがあったとするなら、その追い込んでいるものを見過ごすことの是非は問うてみたい。

われわれの眼に映るのは社会的な解釈も含んだ現象である。
そしてすべからく現象は背後にある物語を隠そうとする。

わたしが思っているのは、背後の物語に捨て置けないものがあるケースのことだ。
そういうことをトータルで語らなければ事件のもつ別の姿は見えてこないだろう。
それはその事件が法的にどうかというところから少し離れてしまう話なのだが、必要とされることでもある。

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