2009年12月6日日曜日

青い鳥の話

メーテルリンクの「青い鳥」のなかでは、青い鳥が家にいて、これを「幸せは身近なところにある」、もっと言えば「だから、その身近にある日々の幸せを大切にしよう」というメッセージと解釈するようになっています。 

けれどメーテルリンクの「青い鳥」の原作戯曲ではその話に続きがあり、家にいた青い鳥も結局逃げてどこかへ行ってしまうところで話が終わります。

これをどう解釈するかは自由で、みなさんにお任せしますが(意外と舞台ではそのような終わり方のほうがよかろうという趣向なのかもしれない)、わたしがここで書こうとしている話は別のところにあります。

身近にあるまではわかるけれど、今の段階のわたしにはその青い鳥はずいぶん貧相な姿をしているのではないかと思えるのです。
貧相な姿はそのまま貧相な日々の幸せと読み替えてもらってかまわない。

ああ自分の身近にこんなにステキな日々の幸せがあったではないかでなく、見つけた幸せはかなり貧相なものだったのではないかと思うのです。

ここでつかんでおきたいのは、わたしたちにとって幸せは貧相であってもかまわないということです。
幸せはいつもステキなベールをまとっているという都合のいいことはなく、多くの場合、そのベールは日々の幸せとさえ呼べないようなみすぼらしいものかもしれない、そういうことだ。

それを幸せとして育てていく過程(=多くの場合は家庭)に幸せが宿るのかもしれない。
宿るかもしれないが、取るに足らない姿であっても驚かないでいること。
幸せとはもともと自分がそこに幸せがあると見るだけで、他からもまた幸せと呼ばれるかと言えばそれは疑問で、もともと幸せに他の視線は関係していないからそれでいいのだ。

幸せに出会うのはひとえにそのみすぼらしさの中に(多くの場合みすぼらしい姿をしているのではないかと思う)幸せを見て取り、その幸せと思われるものを育んでいくことに日々を賭けてみる中に薄明かりのような頼りなさで浮かび上がり、いつしかそれが実感となっていくようなことだと思う。

くりかえしているのは、幸せというのは実はとてもつまらないもので、だからこそ多くの人には見えないのだが、そのつまらなさを大切に育ててみれば、その育てる中に幸せが宿るのだろうという思いです。

問題は「一見つまらなく見えるものを楽しむ心がもてるかどうか」と「どのつまらなさを選ぶかという自分に向けられた刃」です。
大切なものは他のだれでもなくあなたにとって大切なもので、それを多くのガラクタの中から選びつかんでともに生きていってもらいたいものです。

「青い鳥」で家に帰って見つけた幸せは、とても貧相な姿をしていて、それを見て「ああ、わたしの大切なもの」と思い、そして思い続けられるか、それとも「いや、やはりどう見ても貧相だ」と途中で思ってしまうか、初めから思えないか、そういうもののような気がします。

幸せというものは実はとても貧相なもので、それを育ててどうなるのでもないのですが、たぶん育てる中であなたにとってかけがえのないものになる可能性は十分にあると思うのです。

というのも、何しろこの話が、かけがえのないあなたなについての話だからです。

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