2008年10月27日月曜日

美しき女がその美しさを認識したとき…

美しい女がその美しさを認識しているとは限らない。
美しくもない女が美しいと自分を認識しているケースもある。
着飾り具合を見ていればそれはわかるだろう。

美しき女性が無防備に自分の美しさをさらしている姿は、ときには際立ってけなげだ。
そういう人をわたしは知っている。
そしてその女性を好もしくも思っている。

けれども美しき女がその美しさを知らないでいることは、その人にとってはどうなのだろう。
わたしには好もしく思えるのだが、現代においては、ミスかもしれない。


けれども、美しき人よ。

あちらこちらにのさばり歩く、美しくもない女たちを睥睨するかのように貴方は貴方のようであり、気高くけなげであり続けてほしい。

それが名もなきわたしの願望なのだ。

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2008年10月25日土曜日

わたしのような、か細いブログでも

このようなブログであっても何人かの人に見ていただいており、とても感謝しています。
そういう中の一人と昨夜話しました。

なんといっても発信者にとって受信者ほど力強いものはありません。
へこたれることなく、なるべくならば、わかりやすく書いていきたく思います。

通じなくては発信にもなりませんから。

ご意見ありがたく頂戴いたしました。

ブログだけでなく、さらなる媒体への一歩の糧といたします。
再度、お礼を申し上げます。

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2008年10月24日金曜日

なんかねえ…泰葉さん

歌手の泰葉が23日(木)、公式ブログ『革命プロジェクト』を閉鎖することを報道陣へFAXで発表した。

 泰葉は「昨日レコーディングが終わり、私は音楽という手段で自分を表現しようと決意しました。そして、その過激性だけが一人歩きしてしまったブログを、閉じる覚悟を決めました。私にとってブログは、叫びであり私自身でした。お別れは本当に辛い。断腸の思いです」といった決意を書こうとしたものの、アクセス過多でサーバーがダウン。復旧に10日以上かかるとのことでFAXでの発表に至った。

いろいろなところから手も回されたようだが、あんなもの(あの程度のブログいいじゃねえかと思う)。
閉鎖っていったって、別に誰が迷惑しているわけでもなし、本当に泰葉が小朝を最低だと思っていればそう書き続ければよかったのに。

あの程度の誹謗中傷はネット上ではよくあるし、それに何より記名ではなかったですか。

匿名でなかった誇りを旨にまたブログを書いてください。

まあ、無理かな。
今後ブログ上にもいろいろ茶々が入りそうなご時世だ。

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ロス疑惑、一事不再理について


事件は日々流れていくので、三浦氏が自殺であったかどうかという流れをたどっても、この事件はもはや過ぎ去ったものである。

しかもこの問題のもっとも大きなポイントは、「一事不再理」であったことは忘れられて。

「一事不再理」とは、ある刑事事件の裁判について、確定した判決がある場合には、その事件について再度、実体審理をすることは許さないとする刑事訴訟法上の原則である。

この原則は対外的な問題までに進むと、はなはだ複雑な要素が入り込んでくるので単純には論じられない。
たとえば、北朝鮮で拉致犯罪者を無罪としたとき、日本は放っておいてもいいのかという問題はどうするのかと単純に思い浮かぶ。

ところで、米国兵の沖縄等での暴行事件についてはもちろん、日本政府は墜落したヘリコプターでさえ見逃している。

これは、
日本にいる米軍は、日米間で取り決めた安保条約にもとづく日米地位協定や日本でつくった各種の特別法令によって、広範囲の特権が与えられていることによる。

基地の自由使用もその一つだが、米軍は、基地を自由に使用でき、基地内の管理・運営などに必要なすべての措置をとれることになっている(地位協定三条)。
米軍は、日本政府が特権擁護の態度をとっていることもあって、日本の国民の生活や権利などを度外視して使用してき、工事による山林や河川の破壊、大気汚染、有害物質流出、低空飛行訓練や夜間離着陸訓練による大騒音…数限りなくある。
これらは環境基準、騒音基準その他の国内法令さえ無視するもので、その傍若無人の使用は、世界の中でも日本の米軍基地がきわだっているようだ。

さらに基地外の活動についても、米軍には、地位協定とともに特別措置法、特例法等の各種の法令で特権があたえられていて、空港・港湾使用料の免除をはじめ、その範囲は、鉄道・電話・電力・港湾・空港・道路・物品調達など多岐にわたっていまる。

最初に戻り、裁判権にかかわる特権では米兵が日本国内で犯罪を犯した場合、事件が「公務中」のものなら第一次裁判権は米側にある(地位協定一七条)。
この「公務中」の事件・事故は、これまで四万五千件を超えますが、軍事裁判にかけられた米兵は一人もいない。
公務外の犯罪については、第一次裁判権は日本にありますが、日本が裁判権を放棄するケースが多く、日本が裁く例はほとんどあったためしはない。

というわけで米軍の特権は、大使館員などのもつ治外法権に等しいような広範な特権であるところから、治外法権的特権と呼ばれているわけです。

米軍のこのような特権とそのもとでの傍若無人な活動は、アメリカに従属させられている「基地国家」日本の屈辱的な姿を象徴的に示しているという見解もあり、「基地国家」からの脱却は、真に独立した平和な日本をつくる上で避けることのできない課題とする見方も出来ます。

ところで、今回の三浦問題「ロス疑惑」では、2008年2月22日にアメリカの自治領、サイパンにおいて三浦は、現地に出向いていたロサンゼルス市警に殺人容疑で逮捕された。
これは、「ロス疑惑」の捜査がアメリカでは未だ進行中(アメリカでは時効制度は存在するが殺人に関しては時効は存在しない)であり、それに基づいての被告人身柄確保とされる。
アメリカ当局は、ロサンゼルスへの移送を目指していたが、被告側は日本の最高裁での無罪判決の確定を根拠として、「一事不再理」の原則を盾にアメリカ当局の身柄拘束を不当なものと見なし、ロサンゼルスへの身柄移送の中止と身柄の解放を訴えて、法廷で争った。
9月26日に裁判所は殺人罪の逮捕状は日本で判決が確定した一事不再理にあたり無効とした上で、殺人の共謀罪については日本で裁かれていないとして有効とした。

この決定がきっかけとなって三浦はロスへの身柄移送に同意し10月10日にロス市警に身柄移送した。
しかし、同日にロス市警にて三浦は死亡。

日本とアメリカの現状を考えすぎればアメリカのやりすぎではなかろうか。

「推定無罪」という事項もかかわってくるだろう。
「殺人共謀罪」についての問題が残っているならば、それは日本の問題として処理できなかったのか。
三浦氏がいかような人物であってもいい。
明らかにアメリカに踏みにじられた日本の司法の状況がここにある。

この事件では大きくこういった視点で、今回の三浦問題を論じてもらいたい。
言っておくが、日本国内で暴行殺人を犯した米兵をどうとも出来ない立場に追いやられた日本の司法が、30年近く前の事件でまたアメリカに振り回されたのだ。

30分前に電話でテロ指定国家を解除する旨を受け取って、それでも尻尾を振っているのか。
何か伝える言葉くらい持っているのではないか。

北朝鮮への物資支援国という立場はヒル米国務次官補にはずしてもらったが、これについて丁寧にお礼でも公表したらどうか?

三浦和義が悪い奴だからどうでもいいと思ったのかもしれないが、これは三浦氏の問題ではなく日本の司法の問題だ。

アメリカが日本など相手にしていないことは、とうの昔に悟ったことだろうに。

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2008年10月23日木曜日

アクセスできないぜ

泰葉のブログにアクセスできないぜ。
あっという間の対応だが、誰がどのように対応したのか。

ブログぐらいすき放題やらせてあげればいいようにも思うが、それがわたしの勘違いなのだろうか。

とにかく泰葉のブログにアクセスできないぜ。

興味深い出来事だ。
なにが起こったのだろうか。
誰か教えてはくれまいか。

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過剰なる反応

もう少し人は静かに物事に対応していたように思うが、昨今ははっきりさせなければ伝わらないかのように過剰に反応してみせる。

私見ではあるが、あれはまさしくテレビの影響であろうと思う。
テレビでは過剰なる反応はわかりやすさにつながり、それをテレビ芸の基本としている。
笑うだけでは足らず、手を大きく叩くのはその代表的なテレビにおける演技の基本だ。
その基本が、テレビを浅くしているのは言うまでもないが、テレビの視聴者を教育しているのも間違いない。

ひとはもっと密やかに物事に接していたものだ。
道端の雑草に眼をやって眺めることも出来たはずだ。
そういう細やかな日常を失っていくのはテレビの生活への浸透と軌を一にしている。
ひとは知らぬ間に影響を受ける。
そして、知らぬ間に受けた影響は根深い。

語らねば、ジェスチャーを入れなければ何ものも伝わらないとするテレビの発想は、ひとつは当たっているが、一つは大きくずれている。

人は黙ったままの応対も出来る生き物で、喧騒ばかりほしがるものではない。
あまり自分を浅薄な生き物と思わないほうがいいのだろうと感じることがある。

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2008年10月21日火曜日

泰葉のブログ

泰葉のブログが好きでこのところ読んでいたが、あれはおかしいね。
あれはというのは、彼女はおかしいね。
おかしいというのは精神的におかしいね。
多分躁状態だと思う。
ああいう人と付き合うのは大変だ。

だからといって、小朝が立派だとは言わないが、泰葉はそろそろ空中分解。
ああいう女がいるほうが芸能界も楽しいのだが、あの世界にも予定調和はある。
その予定調和を壊すものには手ひどい仕打ちをする。

これをもって世間は生きにくいという。

泰葉は生きにくいだろう。
それは、ただしい正しくないの問題を置いて、世間の流儀に迎合しないからだ。
迎合しない人間は捨てられる。
それが太古から守られた世間のあり方だ。
大きくも小さくもそうだ。(この辺りは細かい検証がいるので、かなり乱暴に書いているとご承知おきください)

結果として泰葉はひどすぎるが(わたしは病人だと判断している)、それをつぶしにかかる世間も世間だ。

もともと人は病んでいたのではないか?

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ケータイ小説

「あたし彼女」というケータイ小説を読んでみた。
これがなかなかのものなのである。

小説というジャンルでは何でもやってもいいことになっているが、このケータイ小説は「小説」と名づけられているが、どうやら小説ではない。
それは、読者と作者をつなぐ媒体(携帯電話)の可能性を示している。

とにかくセンテンスはきわめて短く、行間は自由自在。
その意味では視覚を十二分に意識した作品で、マンガに近いものを感じる。

それに電車の中で聞いたりする若者コトバに対する反感が消えていく。
どの作品でもというのではないけれど、この作品に関しては若者コトバが魅力的だ。

こういうコトバを使って人との関係を作っていき、世の中を見ている人々に脅威を感じる。
その脅威は一種の憧れでもある。

瀬戸内寂聴がケータイ小説を書いたと聞くが、どれほどのものを書いたのだろうか。
機会があったら眺めてみたい気がする。

とにかくわたしの読んだ「あたし彼女」には作者の存在感がし、登場人物が生きていた。
恐れ入った次第である。

佐伯泰英という大流行の時代小説家がいて、毎月一本作品を仕上げている。
あれはおじさんおばさん用のケータイ小説だが、ケータイ小説ほどの斬新さはない。
ただ読み捨てる意味においてはあれほど軽佻浮薄で味わいのあるものもなかろう。
その味わいがごくごく浅いところが、たまらない魅力かもしれない。

ともに現代を象徴しているが、可能性としてはケータイ小説の深みが勝り、その深みは計り知れない。

付け加えておかなければならないが、個人的にわたしは佐伯泰英氏を敬愛している、作品は横に置いての話だが…、立派な生き方をしていると信頼している。

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2008年10月20日月曜日

歳を感じてしまった

最近本を読んでいる途中で、ああこの本は読んでいるなと気づくことが二三回続いた。
記憶が定かでなくなってしまったのだろう。

逆に「熊の敷石」(堀江敏幸著)がいい作品であったのは思い出すのだが、どこに感じ入ったのかが少しも浮かび来なかったのも哀しい出来事であった。
もともと「熊の敷石」というタイトルのうまさも「なるほど」と感じていたはずだったのに。

新しく読む本は、古典やあまり手に取ったことのない本にしようかなと思ったりもする。
それとも記憶に残っているかどうか自体があまりたいした出来事でもないのだろうか。

流れていく読書に身を浮かべているような、そんなふうであればよいのだろうか。

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2008年10月19日日曜日

記録がなければ人はいない

日々人は、日本の世界のあちらこちらで生きているわけで、この事実は動かしようがない。
けれども同時にそのように生きている人のことを知らなければわたしたちにとっては、その人たちの存在がないのも事実だ。

燃油の値上がりで漁業に携わる人々の存在が頭の隅に引っかかったが、これまでそれほど深く彼らを知らなかったこととこれからもさらに深くは知らないであろうことを思う。

宮本常一という巨人がいるが、彼の著作がなければわたしたちの知らないところで人々はそのまま消え去ってしまったのだろう。
宮本常一を通し彼らの生きた生活からわたしたちが何がしかを考え起こすことが出来ることは大きな財産だ。

現時点での報道を見ていると宮本さんの「忘れられた日本人」というタイトルそのままに多くの日本人が忘れ去られているように思う。

ひとはマスではとらえられない。

客観的な数字を論じることの重要性はよくわかるが、実際に生きている人々の具体的な生活を無視しては何も語ったことにはならない。
それぞれの人々の生活を採集せよといっているのではない。
全国から起こっている小さな人間たちの小さな声を救い上げるような方向を期待するといっている。

それは政治がやってくれるにこしたことはないが、そうでなければわたしたちから動かなければなるまい。
なぜなら、わたしたちがそもそもその小さな人間たちの一員だからだ。

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2008年10月18日土曜日

大衆の半歩先行け

大衆芸能は大衆の半歩先行くものだというのを語ったのは大阪のある芸人だが、それが誰だったかははっきりしない。
が、含蓄あるコトバとしてしばしば思い出す。

東野圭吾の作品を読んでいると、この人がきっちりと半歩先行く姿にエンターテイメントとして売れる正しい小説の姿を改めて見直させてくれる思いだ。

「最近話題になっている「流星の絆」も「容疑者Xへの献身」も、どきどきさせてくれるし、謎解きの後にさらにどんでん返しがあり、なるほどとうなずかせる。
そして人物描写も確かで「赤い指」を出すまでもなく、泣かせる状況も作り出している。
ヒットするはずだわい、と思う。

その点、宮部みゆきは違う。
「模倣犯」「楽園」とその技量は示すものの、読後感に妙な引っ掛かりが残るのは、彼女が半歩先以上を行っているからだ。
その半歩先というのはあからさまに言えば「人には他人のことは最終的にはわからないのだ」という意識を彼女が持ってしまったこと、そしてそれでも他者と向き合うにはどうしたらいいのかを作品のなか突きつけたところに因を発するのだろう。

こうなってしまえば、大衆芸能から一歩先を行くことになり、新しい世界に入っていく。
読者は「なるほど、なるほど」と頷けなくなる。

ここに東野圭吾との違いが生じてくる。
東野作品は読後に「なるほど、なるほど」と頷け、涙できるようなしかけがしてある。

どちらがどうとはいえないが、これが現代のエンターテイメントの代表的な二人の決定的な違いだ。

「容疑者Xへの献身」と「戻り川心中」が並べられたことがあるが、それほどトリックが似ているとは思えない。
それより何より連城三紀彦が東野より圧倒的な文章力を持っており、その結果、「戻り川心中」はトリックが明かされた後にもやりきれないようなあらたな茫漠とした世界が広がっており、そこに読者が残されるというところだ。
これはお分かりのようにエンターテイメントに要求されることではなく、連城にして出来る芸であり、技である。

トリック云々はどうでもよろしい。
そういうところで東野氏を批判するのはないものねだりであり、彼はわれわれにちょうどよいような作品を与え続けてくれているではないか。

賞賛に値する。 

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「相撲」をもう少し

「出来山」とは出来レースのことだから、ほぼ八百長と同じだろう。
「盆中」とは一方の力士が負けてやること。
こうなると「出来山」「盆中」の違いがはっきりしてき、相撲の奥深さを感じる。(感じませんか?)
「気負け」とは位負けのことで、はなから勝てないと下位力士が思ってしまうこと。

ここまでくると八百長のひと言にこれだけのバリエーションをもたす大相撲の奥深さを感じさせるではないですか。

そういえば、今朝のラジオで巡業では八百長はあるけれど、本場所ではありえないと訳知り顔で語った人がいたが、そういう理由もない相撲に対する信用はよくないし、格闘技はそれほど楽なものではない。

現在の6場所制となったのは1958年からのことで、それまではもっと場所の数が少ない。
興行が成り立つかどうかの問題が大きかったのだろうが、結果としての現在行われる6場所制プラス巡業は力士にとってかなりにきびしい。

したがって、いろいろな工夫がなされてきたわけだ。
それでも面白ければ興行としてよかったのであって、面白いかどうかがこの場合重要で多少の八百長がそこにあったとしてもあまり意味はなかろうというのが、相撲協会の立場だろう。
しかし、この立場がかなりいい加減な意志のもとに成り立っていたため今回のような事件と相成っている。

もちろん無粋者の出現もあるが、無粋である一点を押しての無粋者批判は、批判としてはゆるい。
デ、この泥仕合。

八百長は巡業だけで本場所は別などという認識は、幼稚なものということになる。
もちろん巡業と本場所は歴然と違うが、それは単に八百長に発している差ではない。

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2008年10月17日金曜日

「型にはめてしまう」行為


「型にはめてしまう」行為は受け継がれる。
「型にはめてしまう」親やそういう連中がたむろしている社会の中で育てば、適当に出来事を型にはめて見る習慣は刷り込まれていく。
そして、たいていの場合は、その「型」は誰かに提供してもらっている。(楽だし、怖くないからね)
このように誰かにとって都合のいい人間は再生産されていく。

個性的な人間がすくないのはこのためだ。

このことを書いた名作に「初秋」がある。
ロバート・B・パーカー著

気になれば、読んでみるといい。

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一年を十日で暮らすいい男

タイトルは昔の相撲取りがそのようであったと伝えらる生き方だった。
今は年に六場所、一場所15日間だから本場所だけで90日間も相撲をとる。
すべてガチンコでやっていたら、ケガも多くなり相撲寿命も短くなるだろう。
まあ、無理のある日程であるわけなのだ。

それが相撲の「神事⇒興行⇒スポーツ」と移行していく歴史なのだろう。
相撲をスポーツとみなしてからは、八百長はタブーとなる。
しかし相撲には歴史があり、(外国人力士を引き入れるなどの延命策でその歴史に汚点を残してきてはいるが…)そのなかに「出来山」「盆中」「中盆」「気負け」…というコトバが残ってきているように八百長に似たものの歴史はあった。

今回のテレビ放送、裁判騒ぎはいかにもザンナイ話です。
相撲とはもともとどうであったかを捨象してあの一番は八百長だったなどといって、なにが楽しいのだろうかとも思う。
ああいう部分は現代の相撲における灰色の部分で、それがあっての現代の相撲ではなかったのだろうか。

それをにぎやかしにマスコミが取り上げて、相撲界がのっかった。
間抜けな話でもある。

相撲はそれほどピュアな世界ではないが、それでも面白くはあるのではないか。
もし、面白くなければ、面白くないことに怒ればいいので、怒るのは八百長に対してではないだろう。

プロレスが八百長だからといって、一概に面白くないというのはプロレス見者としては底が浅い。

見ていて面白ければ、受け入ればいいのではないだろうか。

それにしてもこのマスコミの騒ぎ方は、いつもながらすごい。
ほかに取り上げるべき問題はないのだろうか。

民主党の前田議員と自民党の野田議員の違いを追いかけてみてはどうだろうか。
あるいはオバマ勝利後の日本への影響を教えてはいただけまいか。

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型にはめてしまう

人は型にはめてしまうことでいっときの安心を得る。
そして当てはめたことについての考察を放棄することでほぼ不安なくそれ以後を過ごしていく。

子供は幼くかわいいものであるというのはあたっているが、半分は間違っている。
彼らは十分に残酷だ。
障害者に悪人はいないかといえば、そんなことはない。

ニートというコトバを作ったはいいが、ニートにもいろいろいる。

あるコトバの中にそれを組み入れることで得る安心はしばしば危ない。
自然を愛する人間にも邪悪な魂は宿る。
それは、信頼できる山岳小説にいくつも登場してくる。
ただそのうちの何人かは自分に宿った邪悪さと向き合い乗り越えていこうとする。
そこが山登りを愛する者たちのよさかもしれない。
都会で無批判に自分を認め生きていればそうはいかないかもしれない。

見たもの聞いたものをそのまま自分の身のうちに取り入れていく行為は、コトバに邪魔されずにいるということが肝要だ。
見たものをああだこうだと解説せずにそのまま取り入れる。

言っておけば、何でもかんでも
「かわいい~!」
と言っている女の子は自分の見た対象物を「可愛い」と言っているのではない。

彼女たちは「かわいい~!」と言っているわたしを見て、見てと言っているのだ。

本当に何か揺すぶられるものに出会ったとき、人は早々声は出さない。

ただただ見、ただただ聞く、そんなことを試しにやってみるのはいいことだ。
わたしがそれをハッキリ意識してやってみたのは屋久島だった。

残念ながら都会の騒擾のなかでは、わたしにはできない。
しかし、都会の中でもできる人はいよう。

コトバの枠にはめ込まずに何かと相対していたいものだ。

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2008年10月16日木曜日

ひとは迷惑をかけるもの

ひとという生き物は迷惑をかける生き物で、絶えず何がしかの迷惑をかけながら生息している。
ただそのことに気づいている者はさほど多くはない。

「他人様に迷惑をかけぬように」

という年配者に引き継がれている教えは、その裏返しだ。

あのコトバをかたくなに守りすぎてはならない。
忘れることはなおさらだ。

そのように、生きていくことを守る。
生きていくことが辛いのはよくわかるし、生きていくのが正義だとは思わないが、もし生きていくなら他人様に迷惑をかけている自分を許し、そのまま迷惑はかけまいと思うがよかろう。

こう書いているわたしも、電話をするといつもかけなおしてくれる友人に尋ねた。

「あなたがこうやって電話をかけなおしてくれるのはわたしの金を思いやっているのですか?」
「…早く電話をかけなおさないようになってくれよ」

迷惑をかけているんだな、じつにもって…

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2008年10月14日火曜日

マンデラの名もなき看守 ( GOODBYE BAFANA)



久しぶりに映画を見る。

寡黙ないい映画だった。
たいていのいい作品は寡黙であり、過剰なものに佳品は少ない。

ところで原題のBafanaとは、グレゴリー(マンデラの看守)がまだ差別意識を植え込まれていなかった幼い頃に一緒に遊んでいた黒人少年の名前で、そのままタイトルにするとわかりにくいので「マンデラの名もなき看守」となった。
「マンデラと名もなき看守」としてもいいところだが、この看守、マンデラ専用の看守のように上から扱われていたためこのような邦題となった。

わたしの趣味としては「マンデラと名もなき看守」でいいと思う。
マンデラが日本語を解するならばそう思うのではなかろうか。

なぜか?

映画中、そのようにマンデラがグレゴリーに接していたからだ。

映画の中でマンデラが嘆願が届かなければ暴力に訴えるのも仕方がないだろう、というニュアンスの発言をするが、わたしもそういう側だ。
その規模にもよるが、支配者に対しての暴力はテロリズムと一概に言っていいものかどうか。
それしかないように仕向けたことは無かったのか。

人間の醜さを事を荒立てることなく静かに描いた佳品であった。

マンデラの刑務所内での生活は27年に及ぶ。
47歳が収監の始まり(ロベン島)であることを思えば、その精神のありようは奇跡だ。

いまではそのロベン島もユネスコの世界遺産になっている。

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自閉症

ある人に教えられ、少し調べてみたが、「自閉症」というコトバは、世の中でかなりぼんやりとした形で使われているようだ。
事実わたしにも「自閉症」にたいするクリアな概念規定はなかった。

あっさり言ってしまえば、「自閉症」とは、視覚、聴覚、その他の感覚から入ってくる情報を正しく理解することができず、このため、対人関係・コミュケーション・行動面で著しい問題が生じる状況のことらしい。
特に聴覚に問題がある場合が多いということだ。

要は、自閉症の人は、人のしゃべっていることが意味として解析され脳で把握されないわけで、単に音として聞こえたり雑音として聞こえているらしい。
それでは、自閉的にならずにはおられまい。

このようなこととなれば、自閉症は心の問題でもなんでもなく(鬱病がそうであるように)肉体的な問題となっていく。

もっと大きく問題をとらえれば、自分が聞こえるように他人も聞こえるとは限らない。
自分が見るように他人も見るとは限らないということだ。

自分を基準として考えるのは人生の陥穽だが(多くはそれを社会的に利用され、その基準を社会に提供されるのだが…、これを洗脳という)、どこかで放り出したほうがいい。

そうはおもうが、放り出した人をあまり見ない。
それに近い人は老人の中に見かける。
他人にあわせてしゃべれる人、そんな感じの老人だ。

さっきもそんなわたしの心を許す老婦人と話してきたところだ。

やさしいんだこの人が。

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拉致問題

米国による北朝鮮のテロ支援国家指定解除は12日、麻生政権に打撃を与えた。麻生太郎首相は日本人拉致問題が置き去りにされることはないと強調したが、政府・与党内では米国を批判する発言が相次いだ。拉致問題の「成果」が遅れれば、批判の矛先が麻生政権に向かう可能性もある。得意の外交でのつまずきは世界的な金融危機とともに、衆院解散・総選挙を左右する。

金融破たんが起こり、イラクの米兵は動かせず、北朝鮮へは手が回らない。
さらに放っておけば、北朝鮮の核開発が進むかもしれない。

ここまで要素がそろえば、テロ支援国家指定解除は当然の成り行きで、その決断を30分前に日本に連絡してきたことを考えれば、拉致問題についてアメリカがどう考えているのかも明らかだ。(日本に対しての位置関係もわかる)

それでも拉致問題解決は大丈夫と言わざるを得ないのはただただ選挙のためである。

もちろん私的に横田めぐみさんの問題がかわいそうだとは思うだろうが、それで国家が動くことはない。
アメリカもそうだが日本も十分に他国の民間人(あるいは自国の民間人に対してさえ)ひどいことをやってきている。

拉致問題は私情を離れれば埒もない問題なのだ。

拉致問題の解決には何か北朝鮮にお土産を渡すか、手ひどい仕打ちをして脅すかどうかだが、手ひどい仕打ちは戦争に極まるのでありえない。
お土産はすでにその効果的なチャンスを逸している。
(蓮池氏らの一時帰国やあの長男坊をそのまま北朝鮮に返したときに)

さらに経済的に圧迫しろと拉致被害者連は主張するだろうが、六カ国会議に入っている以上、日本だけ援助しないわけにはいかない。

本気で拉致問題に取り組むならさっさと六カ国会議から抜けるのがその第一歩だ。

それをそうしないのは、拉致問題が国際問題としてなんらの重要性もないと考えているからだ。
その判断はある程度正しい。(たとえば核問題と拉致問題と単純に比較すればわかる)
しかし、解決の方策はあっただろう。
今後あるかどうかは怪しいし、解決する意図があるかどうかも怪しいが…。

今できることといえば、もっと大騒ぎして選挙に影響があると判断させ政府を追い詰めることが肝要だろう。

けれど繰り返すが、政府は力なき民衆になんらの興味を持ってはいない。
ただひとつ支持率だけが気になっている。

今回の出来事を見ても、拉致問題は私情でいえば哀れな哀れすぎる出来事だと思う。

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2008年10月12日日曜日

蟹工船

「蟹工船」が売れている。

あの場合は本当の敵ではないのだが、浅川という監督がいてそいつを虐げられし連中が、何とかするという対立構造がある。

いまは仮想にしてもそういうダイレクトな敵がおらず、暴れようにも暴れられず、静かな反逆を夢見るしかないようです。
しかし、何度繰り返してみてもワーキングプアと過疎の農村とのネットワークを現実化することが時代の幕開けのように思えてならないのです。(力足らずで、論を詳しくは展開できないのが残念です)

テレビでは相変わらず金融不況の影響を語っていますが、それが重要だとしても画期的な意見ではなく、直接間接にマネーゲームで肥えぶとった連中の金は引き出すことは難しいでしょう。
それは権力の行使という問題も含むからですが、彼らが権力に近い人種であるということもあるのでしょう。

マスコミから少し離れていたい気分です。

日向ぼっこでもしたい気分です。
時が過ぎ行くまで、渋茶でも呑みながら…、ひとを包む相手とともに

ラベル:

2008年10月11日土曜日

ババをつかんだマネーゲーム者

詳しいことはともかく次のことは気にしていなくてはなるまい。

マネーゲームで狂奔した人間がいるのは事実だが、そのなかにもうけたまま去った人間もいたのは事実だろうし、そして今この時期多額の株式や債権を抱えているババをつかんだ者もいるだろう。
しかし、これはいたし方なるまい。

このことを「自己責任」と呼ぶ。

通常、政府が使う「自己責任」はかなり頓珍漢であり、「自己責任」は地道な人間に投げかけるものではない。

今まで政府がアメリカに追随し守ろうとしてきた「市場原理主義」=「自由放任」=「新自由主義」は、おそらく今回の金融危機とともに終焉するだろうし、そうならなければ未来というものが見えてこない。

そうしてうまくいったあとに、新しい時代が幕を開ければいいのだが、その前に「市場原理主義」の「負の遺産」を解決しなければならない。
そのときに「自己責任」を持ち出すべきだろう。
今回の公的資金投入等の目的は「罪なき国民(まあまあ、そこそこ地道な多くの人々)の生活を守ること」であって、「マネーゲームに興じた責任ある当事者の救済」ではないことを強調しておかねばならない。
でなければ、関係者の私財提供にまで責任追及が及ばないし、問題処理スキームは動き出さないだろう。

これはアメリカであろうが日本であろうが、同じことだ。
ババをつかんだマネーゲーム者は、失敗したのであり、そのときはむなしく引き下がるべきだろう。

それが、カジノから去り行くもののありようだ。

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金正日


金正日の容態がとやかく言われるこのごろ、だいぶ前にお世話になっていた方のコトバを思い出す。
すでにお亡くなりになった方だが、

「わたしの知る限り、今の金日成は偽者なんだ」

としばしば口にされた。

かれは、上海の租界へと日本から渡った人で、そのあたりの事情は自分の実人生と交錯していて間違うことはない人だ。
要は、このごろ問題になっている金正日の親父は本物の金日成ではないというのだ。

このことは長く気になっていたが、最近大体の事情はわかった。

金日成は個人名ではないのだ。
反日闘志のある象徴的な名前で何人かいたらしいのだ。
最終的に残った金日成(でかい像となっているあの人ね)がどの程度の男であるのかは知らないが、満州のことを読んでいるとそういう内容にぶつかった。

そこで、なるほどとかつての恩人の言に首肯したのでした。

ついでに書いておきますが、満州と沖縄をよく見ていくとこの世の仕組みがおぼろげながらわかります。
わかったつもりでいても別の本を繰るとまた新しい視点を示してくれる。

そういう意味で「沖縄だれにも書かれたくなかった戦後史」という佐野氏の本は沖縄に多少なりとも興味を持つまっとうな人ならば読んでおいていい本ではないかと思います。
「まっとう」というのは、「まじめに向き合おうとする」というほどの意味です。

趣味や道楽ならばそれほど気にすることはない。
おおいに沖縄を楽しめばいいのです。

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実体経済

実体経済というコトバが盛んに使われているが、あれはわれわれ(勝手に一緒にして申し訳ないですが)にとっては実際のものの売り買いなどにより成り立っている経済というくらいの理解でよいのではないでしょうか。
で、この実際のもののなかには「株」や「債権」や「先物」などは入っていないわけで、もっといろいろあるのでしょうが、そういうものたちのやり取りで面白おかしくしていたのがマネーゲームというわけです。

こんな理解でいいと思います。
詳しく知ってもあまりよくはわからない。

このマネーゲームでがばがば稼いでいた人が、最近の株の凋落などであたふたしているのですが、このあたふたが実体経済までも取り込んできだしたというのが問題なわけです。
つまり、資金調達をする上で株や債権は重要でこいつの値崩れで、買えるものも買えなくなるは売れるものも売れなくなるはというわけです。

たとえば、為替などが円高になると輸出産業は儲からなくなるわけで、クルマ屋さんは困るのです。
それに何かわからないけれどおかしいぞという消費者もクルマは買わなくなるし、もともとクルマは高級品のひとつで、ローンなどというものを組むのですが、マネー経済のほうがおかしいのでローンも組ませてくれません。

というわけで、クルマ屋さんが呑みにいっていた飲み屋も苦しくなるし、クルマが少なくなるのだからガソリンも売れません。

他にもいろいろありますが、こんどの株の凋落で実体経済も合わせてひどい状態になっているわけで、どうすべえかと政治家などはどの国でも考えているのですが、早々うまく立ち直れるものでもありません。

こういうときに田舎でせっせと農業をやって細々とでも暮らせる国であればいいのですが、日本はそうはなっていない。
ただ家でじっとして、本でも読んでいるしかないわけです。
そうしているうちに持っている金がなくなればどうすればいいのかというと、これはもう…

一巻の終わりです

まあ、末世ということです。

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2008年10月8日水曜日

もともと食に興味がないわけではない


「出雲神」という唐辛子があるが、これはすばらしい。
味はもちろん、値段も安い。
ぜひ日常生活に参加させてもらいたい。

わたしは、豆腐も好きでこの組み合わせでつくる中華料理のあの辛い豆腐などはいまだに、「ハフハフ」言いながら食べている。

高いものは買えないが、こういった安くて手ごろな高級品には手が出せる。

「だったら、わたしのルビーはどうするの?」

という声が聞こえてきそうだが、それは、そういう男に買ってもらって、後はベッドでオレといちゃいちゃすればいい。

そういうふうにこの世は出来上がっているのではなかったのか。

ほんと?!

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2008年10月7日火曜日

共通の土台

日々のことを書いているだけではなく、日々の思いを書いているこのブログでは重なった内容ももう何度も書いているのだろう。
ときどき、気になるがあまり気にしても仕方ないことなのだとも思う。

で、今日もいつか扱った話題であるかも…

人と人が語り合うためには共通の土台がいる。(SAME GROUND)
それがないと、語っていてもどこにも到着してはくれない。(もちろん、到着してくれないあなたとわたしを確認しあう会話があるわけだし、それはとても大切だが、今はその話ではない)

経済成長を守る前提で話をする人とわたしは話をできない。
人ががんばれば何とかなるというお気楽なオプティミストとわたしは話ができない。

とにかくまず二人の共通点を確保しなければ…、たとえばワインの話をしているときにもっと高い車がありますよ、といわれても困ってしまうもの。

そういう共通点が自然にできているときはいい。
できていなければ、意識をすることだ。
意識をしても共通点が生まれなければ、話をする楽しみは激減する。

その共通点なるものは、かなりあいまいでおおらかなものだが、それにしてもその共通点なしでは話にはならないだろう。

だって、彼女の心を語っているときに不ぞろいな彼女の顔の造作を言われても返しようがないではないではないすか。

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2008年10月6日月曜日

希望は戦争

昨年の初め「論座」に掲載された赤木智弘氏の論文がタイトルのような内容だった。

別に戦争を希望しているのではなく、今の日本が戦争における軍隊のようで上官に対しなんらの反抗もできない、しかも上官との位置関係を逆転できる可能性がほぼ絶無な状態ではないかと嘆いているのです。
正社員とフリーター、派遣との関係をそういうふうに嘆いて見せたわけです。

で、結局そういう固定的な関係性を壊すのは戦争ぐらいだろうといっているわけです。

ワーキング・プアの状況を示唆した論文として一事話題を呼んだものですが、わたしもまたその固定性は非常に堅固なものだと思います。

人食いライオンにでもならなければ、下に置かれたものは反逆できません。
その代わりに戦争を願ったとしても何ら不思議でもないでしょう。

けれども富める者が、その富める状態から「退却」できれば、ことは前に進みます。

そういう冒険抜きの戯言として、「みんなが幸せになるように経済成長しよう」という主張の中に解決策はあるのでしょうか。

国会中継を見て、別に解決など望んでもいないのかこの連中はと思うことがしばしばですが、どうしたもんでしょうね、赤木さん。

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人食いライオンの話

ふとつけたテレビからスワヒリ語が聞こえてきたので、あれまあ、と思ったのでした。

そのテレビではタンザニアのある村々のお話が流れていて、そのあたりの村では人食いライオンが出るのだそうです。
そこでは、もはや人間をエサとしてみるライオンがいるのです。

けれどもよく聞いていると、もともとはそこがライオンの住処でその住処のブッシュを刈り取り村にしたために起こったのがお話のはじまりのようです。
もとをただせば、人を食べるのは追い詰められたライオンの行動で100%ライオンに非があることではないのですが、こちら側から見れば人が殺されるというのは殺した側に全面的な責任があるとしたもので、ライオンが一方的に攻められているのでした。

何度も書かせていただいておりますが、共生とはきれい事ではなく「退却」の要素も大きくあります。
この地球人口によって蝕まれているのは野生動物だけではありません。
人々も人々同士で奪い合いを行っているようでもあります。

もし今現在の状況が異常ならば、それを支える政策を考え出そうとする発想自体に無理があります。

だとしたらわれわれは、

「退却」できるのでしょうか?
富める人は貧しくなれるのでしょうか?
開発した場所を自然に戻すことはできるのでしょうか?
ささやかな楽しみで満足できるのでしょうか?
過度な刺激は求めずにすませられるのでしょうか?
他者と違う個性を商品によって作り出そうとせずにすむのでしょうか?
   ………

どれもこれも難しそうです。

今のこの状態うを維持していけるかどうかの議論はまだ起こっていません(表立っては)。

けれどもいくつかの現象は現状を持続することの不可能性を暗示しているように思います。

久しぶりのスワヒリ語を聞きながらそんなことを思ってしまいました。

Simba hamli mwanawe

ライオンも自分の子は食わないといいますが、人は人を食い物にしているようです。

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清原和博についての訂正


清原和博選手についてさらに知る機会があって前のブログは訂正しておかねばならないと思います。
新たに知った甲子園で活躍していく清原とか、日本シリーズでの桑田との対決とか、一年目の恐るべき成績とか、その一年目の感触でプロをなめてしまったという清原の自戒を知り、愛すべき男の面が一部わかりました。
それならばあのように熱狂される選手であってもおかしくはないとも思いました。

それにその後の野球界に対する謙虚でない姿勢が入り混じり、才能を乱費していく姿は、わたしもまた自分に引き寄せ、せつなくもなります。

あれだけのファンに囲まれ幸せな野球人生であり、男であったのだなあとも思いました。
単なる批判の対象にだけしてはいけません。
訂正させてください。

もちろんそれでも清原ではなくもっとしっかりと見ておくべき選手がいるだろうという感慨には変わりませんが、一概に清原に熱狂するファンをなじるのは大人気なく思います。

他者と自分との違いを受け入れることを標榜するわたしとしては汗顔の至りです。
まことにもって、どうも…

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2008年10月5日日曜日

春風亭小朝の正体


泰葉という元小朝の女房が以下のようなことをブログに書いている。
彼女のブログを読むと少しわかるが(http://www.yasuha.me/index.php)、かなりクセのある女だから書いてある内容が完全に信用できるかどうかは難しいが、逆にそのようなことがまったくなかったらこんなことは書けないだろう。

読まれればわかるが、このギャップが(テレビ、舞台と私生活)小朝の演技力を示している。
だから、以下の内容を知っても落語家小朝の傷にはならない。

最も人間的に言うのであれば、別の話であるが…

これがあまり大事にならなかったのは、芸能的に小朝の価値があり、芸能マスコミが損得勘定であまり大きく動かなかっただけのことである。

その点泰葉には損得勘定がないので感情だけで動けるという無茶苦茶さがある。
彼女の人間性はとにかく、以下のブログは大変に面白い。
芸能ニュースもこうでなくてはいけません。
(あの一族郎党で清いのは泰葉だけなのかもしれない。)



噴火! 2008.09.28 UP

ここに来てから、私の火山は噴火した。

離婚の本当の理由の一つを書く!

元夫だった、金髪豚野郎は
私の母の事を20年間、
「ゲロ」と言っていた。

ゲロに電話して、ゲロ元気?

色々事情はあったけれど、私を生んでくれた人を
なぜゲロという。
私の心の中にたまった20年分のゲロは

会見の金屏風となり、ピースサインとなって
吹き出した。
美しく、楽しいゲロになっていた。

お前は国営放送で、もっともらしい事が言える人間ではない。

高座に帰れ!
真剣に落語をやれ!
お前に残された道はそれしかない!

お前の中の真実は落語の中にしかない。
お客様を楽しませて、償え!

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ハートがない~もう少し~

だから、誰かが何かをできないといって、それをハートの問題にもっていくのはきわめて危険なことであるとわたしは思う。
危険というのは、できないと思われるその人が気の毒にも危険な状態にさらされるという意味で、その人を攻撃する人を思っての言ではない。

世の中、たいていのことはわかったような気分で生きている人は多いもので、そういう人の世の中というのはよくよく聞いてみると限りなく限定された世の中であったりする。
もちろん限りなく限定された世の中に住んでいるのは何も悪いことではないが、そのなかで通用する考えをもって他者を批判するのは考えものだ。

その人はあなたと同じ世の中にいないことだってあるのだから。

よく会社という限定された世の中が、自分にとって大きな存在だからといって、大きな顔でその会社の仕事ができない人間を馬鹿にしたり、パートをや派遣を馬鹿にしたりする人がいたりするが(内心、知らず知らずであっても)、あれは見ていて心地よいものではない。

その批判の底に「ハートがない(=やる気がない)」という見方があるのだろうが、それは浅はかだ。

ひとは与えられた仕事に対し、ただ黙々と動くものではない。
黙々と動けばいいと思っている人間はいるが、働く側はそういうわけにはいかない。
その黙々と働かない人間をどう扱うかはなかなかに難しく、よく考え学んだほうがいいと思う。

ここで単純にいえるのは、その原因が単純なやる気のなさ(=ハートのなさ)に起因するとは限らないということだ。

もともと批判するあなたであっても操られている可能性は大きく、あなたの場合はそれに対する批判能力を持たずにいるだけかもしれない。

ひとは、いろいろであり、働くことが苦手な人もいる。
そういうことも含めて一緒に考えていく組織であってほしい。
もちろん、組織をチームと言い変えてもいい。

さらに、これが仲良しクラブの肯定でないことを付け加えておきたい。

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ハートがない

ラモスという元サッカー選手がたまにサッカー日本代表選手には「ハートがない」と強く主張することがあるが、素人ながらわたしには奇異に聞こえる。

なぜなら、重要なのはあらゆるスポーツにおいて基本的なテクニックで、そのテクニックの習得の動機にハートは必要だろうが、単なるハートが勝つために最も重要だとは思えないからだ。
勝つために重要なのがハートならば、203高地ももっと早く落とされていただろうし、気合でホームランも打てるだろう。

テクニックの後押しとしてハートは必要だろうが、ハートがテクニックを邪魔することも十分ありうる。
だからこそ、その精神性を説くものは、精神性を研ぎ澄ましテクニックと表裏一体となるようにする。

ハート重視の考えに納得できないのは、テクニックの軽視になるからだ。
テクニックを磨けば、それに前後してハートもついてくるだろうというのがわたしの考えで、精神性、たまには根性という言葉で言い換えられるが、それをいう人間の主張がときどきおかしいと思われるのはハートが直接的にスポーツあるいは広く戦いの勝利にかかわると言うときだ。

もしその勝利と何かの関係があるとしたら、それは勝利ではなくそれを邪魔する敗北にとっての邪悪な考えであるだろう。(サボろうとか騙してやろうとか怠けてやろうとか…)
上等な精神性が忽然と現れて、その精神性が肉体をスムーズに動かし、勝利に結びつける。

そんな馬鹿な話があるものか。

何かに勝利するために必要なものはたくまぬ努力(それは往々にして表向きには馬鹿げた努力に見えるものだが…)とそれを前後して支える精神性(=ハート)で、独立したハートが何かを生み出すことはありえないと思えるのだ。

あくまでも私見だが…

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2008年10月4日土曜日

顔の見える食品

日本の農業をないがしろにし、海外からの輸入でその食料を補ってきた日本に安全性の翳りが出てきたのはそう新しくない。
しかし、それをマスコミが大々的に取り上げるようになったのは、ついこのごろのことだ。

日本は生産者の顔が見える野菜や魚や豆腐を口にしてきていたから、その生産者と売り手が分業化し相対するのが単なる売り手でしかなくなっても生産者の顔が見えている食品であると幻想してきた。
売り手の顔の見える食品は安全だというのと生産者の顔が見える食べ物が安全だというのは別の話だ。(さらに言えば、生産者の努力なくして安全な食べ物は望めないというのが本当のところだ)

次第次第に食料自給率も落ち、いまや40%を維持できるかどうかのところであり、どうすればこれを増やせるかのまともな議論はなされていない。

農業の現場を知らないからだ。
わたしだとて、多くの現場にあたってはいないが、その現場にいる人々が平均65歳以上になっている話しやその高年齢化と国の政策で休耕田になっている田畑の多さは知っている。
これをどうして昔の日本のように戻していくかは、それでもその地域で何とかしていこうとしている若い世代の意見を十分に取り上げることでしか生まれてこないこともわかる。

上意下達では、農業の復活はないし、現にいったん減反された田を元に戻すのにどのようにしたらいいのか、どのくらいの時間がかかるのかわかっていないのがお偉方ではないのだろうか。
今でも食糧は外国から買えばいいという考えは根深く、それが中国の食料汚染の問題に端を発し、これはちょっとうまくないなと考えているくらいではないかと疑う。

農業の復活には地方を丹念に歩く必要があり、中央がそこでなにをお手伝いすればいいのかの教えを地方に請う必要がある。
そのなかに都会のよそ者であるワーク・プアも寄せてもらえないかという発想はないか、あるいは可能だろうかというわたしの思いもある。

大阪のビデオボックスで焼死するのも辛いではないか。

付け加えるならば、この国が安全性などまったく気にしていない例として2006年6月の小泉純一郎首相(当時)訪米があげられるだろう。
このとき彼はブッシュへの手土産として安全性がまだ確立していないBSE問題をそのままに米牛肉の輸入再再開を約束するのであった。
プレスリーがどうのこうのじゃないぜ、おっさん。

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2008年10月3日金曜日

清原引退

いろいろな出来事が日々流れていき、それをわたしたちはマスコミに教えてもらい、なにか大切なものが教えられていないのではないのかと思ってもそれを知る術は意識せねば得られない。
そのなかで清原引退も大騒ぎとなっている。
「天声人語」なぞには、「タイトルよりも大切なもの…美しい空振り」という一節があり清原賛辞に当てられていた。

清原はご存知のように野球人生というなかでタイトルに縁がなかった。
「無冠の帝王」と呼ばれることもある。
「帝王」かどうかは知らないが、「無冠」であったのは確かだ。
そして「人気」があったのも確かだ。

しかし、ここ五年ほどの彼の打撃成績を調べてみれば、たかりのような選手生活だったことがわかる。
もちろんケガもあったし、一生懸命やった練習もあるだろうが、そういうものはプロであれば当たり前のことで、清原だけを持ち上げる必要はない。
清原の生涯の打撃成績を見れば大選手の一人であるのは事実であるのはわかるが、あの「人気」はわからない。
振り返れば長島の「人気」もわからなかった。

王選手やイチロー選手には十分教えられたが、彼らに何かを教えてもらったこともないし、彼らになにがあったかもわたしには見えない。

もちろんわたしの見えない何かがあるのだろうが、それに騒ぐファンの多くは無様な姿だと思う。
そしてその無様さは日本が小泉純一郎に熱狂する無様さと同じように見える。

熱狂に理由はおそらく要らないのだろう。
最終的には熱狂する自分たちにさらに熱狂していくのだろう。

ただ、その熱狂する人々に媚びるマスコミはいくら商売といえども相変わらずに尻軽であると思い知らされる。

清原選手のことをきつく書いているが、イチローが実際に引退試合の球場に足を運んでいる事実を考えると、わたしの知らない凄みを持っている選手なのだろう。
その点はあらかじめ謝らねばならないだろう。

素人の視点では野球の細かいところまでは見られないことも知ってはいるのだから、ポイントはあの熱狂に対してしらけてしまったことと相も変らぬマスコミの尻軽にあると読んでください。

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屋久島~その1~

鈴本の上席に小三治があがっているが、行ってみてどうかはそれぞれに任されているのでお勧めはしないが、ご報告まで。(5,6,8日は休演のようだ)

このブログは嘆きが多く、それらを積み重ねていけばわたしが今の世を決して好んでいないのはよくお分かりだと思う。
しかしながら、世の中というのは多元的なものでダイレクトにその政治的圧力を受けるものでもない。

たとえば、羽生や森内にとっては将棋がその緩衝域になるだろうし、(もしかしたら彼らのこの世は将棋のなかにあるのかもしれない)イチローのそれは野球であるし、漆職人には世の中がわたしの嫌う世の中と同じようには見えていないはずだ。
この多元的というか多層的というかの見方はなかなかに厄介だが、この厄介さのために人は生きていけたりする。
そしてこの厄介な人それぞれの世の中は、なにをやっているかで決まるわけではなく、いろいろとバリエーションがあり、たとえば羽生将棋を見るところに位相を作る人もいれば、ある飲み屋に通うところに位相を作る人もいる。
位相を作ることを意識しているかどうかは別にして、そういうあちこちに逃げ場は存在するし、その逃げ場をつぶしに権力は動く。(結果として)
もちろん権力とともに商業主義も動くのは彼らの金と力によるもので、そういう乱暴者にささやかな逃げ場(世の中を別様に眺められる場所)をつぶされるのは癪に障るが、反逆するのは難しい。
それが、マスと個人の戦いの行き着く一般的なところだ。

屋久島であっても、そこに住めば、そこに行けば、屋久島の森のあの屋久杉のそばに行けば、あのウミガメの浜に行けば、…別様に世界が見えたりすることはあるのだが、世界遺産にしたり観光化を急かせれば、ひそやかな楽しみの場所ではなくなってしまうかもしれない。

わたしの場合は、こうやって屋久島のことを書いているのがひとつの逃げ場所なので、ときどき書かせてもらうことにしようと思った。(わがままだけれども)

屋久島の観光化がそれほど急激でないのは、沖縄のようにあっという間に飛行機に乗ればついてしまう場所ではないからだろう。

いまはどうだろう。

わたしの知る限り屋久島へは鹿児島空港から屋久島空港への飛行機が(約40分)5往復程度飛んでいるに過ぎない。
あとは鹿児島港からフェリーかジェットフォイルに乗るかの船便しかない。
いずれにしろ鹿児島まで船か鉄道か飛行機で行くというめんどくささがあり、沖縄までの盛り上がりは見られない。

しかし島の周囲132キロの小さな島であることを考えれば、シーズンである夏には多くの観光客が押し寄せ、観光客制限を考えているはずだ。(特に入山制限を。すでに始まっているかもしれない)

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2008年10月2日木曜日

ワーキング・プア

ワーキング・プアに関して下からの運動があるが、これを過疎の村に結び付けられないのだろうか。
もちろん国の援助を必要とするのは言うまでもないが、ネットカフェ難民やホームレスをしているより健全に思える。
ただし、ここには経済成長という視点はない。
むしろ経済成長の放棄とただ毎日を生きることへの挑戦だ。

そのためにいくつかの実験的な作業も必要だろうが、今よりもワーキング・プアの人々が苦しくなるとは思えない。
経済成長の放棄の中に田舎への流動ということへの可能性があると思えるのだが、どうだろうか。
ワーキング・プアの人たちへの働きかけをしているグループに話してみてその可能性のあるなしを確認してみようと思う。

近いうちに食料は戦略物質になることを考えれば、食糧増産は緊急の課題であるし、それぞれの村で生きていけるだけの食料を生産できればこれはすばらしいことだろう。
彼らが育てるのは商品作物に限ったことではないのだ。

少し考えてみたいことだ。

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キビナゴ


昨日はスーパーでキビナゴを見つけたものだから、しかも相当にいきがよかったので、軽くてんぷらをして食べた。
キビナゴを食べるのは久しぶりだがこのように日本では魚資源の中でもあまり食べられないものがある。
ブラックバスという外来魚はキャッチアンドリリースという野蛮な方法で釣りを楽しまれているが(人間の側から言えば)、あれだって工夫すれば食べられるのではないか。

話は違うが、カラスも何とか食えるのではないか。
美食と食料自給率は別なところにあるし、美食のなかにもいろいろとあり、金をかけなくともうまいものは食べられる。
食に関しては十分に考える必要がある。

「土を喰らう日々」という名著があるが、たまにはこんな本を座右に置いて、この国の風潮に踊らされない工夫をすることは必要だ。
金をかけて食事を楽しむのは金持ちの暇つぶしでつまらぬ矜持にしか過ぎない。(もちろんこういう言い切り方は本当は正しくなく辻静雄さんが泣いてしまうが、この時代はそれくらい言っておいたほうがいい)

わたしはそんな料理を食べる人々よりも、山菜やキノコに詳しい人々を敬愛する。

日々の食事が一汁一菜で悪いことなど何もないのだ。