2008年10月18日土曜日

大衆の半歩先行け

大衆芸能は大衆の半歩先行くものだというのを語ったのは大阪のある芸人だが、それが誰だったかははっきりしない。
が、含蓄あるコトバとしてしばしば思い出す。

東野圭吾の作品を読んでいると、この人がきっちりと半歩先行く姿にエンターテイメントとして売れる正しい小説の姿を改めて見直させてくれる思いだ。

「最近話題になっている「流星の絆」も「容疑者Xへの献身」も、どきどきさせてくれるし、謎解きの後にさらにどんでん返しがあり、なるほどとうなずかせる。
そして人物描写も確かで「赤い指」を出すまでもなく、泣かせる状況も作り出している。
ヒットするはずだわい、と思う。

その点、宮部みゆきは違う。
「模倣犯」「楽園」とその技量は示すものの、読後感に妙な引っ掛かりが残るのは、彼女が半歩先以上を行っているからだ。
その半歩先というのはあからさまに言えば「人には他人のことは最終的にはわからないのだ」という意識を彼女が持ってしまったこと、そしてそれでも他者と向き合うにはどうしたらいいのかを作品のなか突きつけたところに因を発するのだろう。

こうなってしまえば、大衆芸能から一歩先を行くことになり、新しい世界に入っていく。
読者は「なるほど、なるほど」と頷けなくなる。

ここに東野圭吾との違いが生じてくる。
東野作品は読後に「なるほど、なるほど」と頷け、涙できるようなしかけがしてある。

どちらがどうとはいえないが、これが現代のエンターテイメントの代表的な二人の決定的な違いだ。

「容疑者Xへの献身」と「戻り川心中」が並べられたことがあるが、それほどトリックが似ているとは思えない。
それより何より連城三紀彦が東野より圧倒的な文章力を持っており、その結果、「戻り川心中」はトリックが明かされた後にもやりきれないようなあらたな茫漠とした世界が広がっており、そこに読者が残されるというところだ。
これはお分かりのようにエンターテイメントに要求されることではなく、連城にして出来る芸であり、技である。

トリック云々はどうでもよろしい。
そういうところで東野氏を批判するのはないものねだりであり、彼はわれわれにちょうどよいような作品を与え続けてくれているではないか。

賞賛に値する。 

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