2011年8月31日水曜日

本格的な自分との出会い

仲間と愉快に時を過ごしていけるのならば、それほどいいことはない。
わたしには、そう思える。

できれば、本格的な自分との出会いなどないにこしたことはない。
致し方なく自分に出会う人はいるが、その人に共感は覚えるけれども、同時に不幸も感じる。

人が自分に出会うためには、高度に孤独である必要があるからだ。

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2011年8月28日日曜日

それでも空間

空間には本質的な意味はないと書いた。
けれども形骸化されたものほど尊ばれる世の中。

たとえ、そこに意味はなくとも恋人と呼ばれていたい、家庭と呼ばれていたい、愛と呼ばれていたい。
仲間という空間は、それほど単純なものではない。

そうでしょう?

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2011年8月27日土曜日

空間と家

家があれば空間が成立するかといえば、それは直結してはいない。
ただし、家は、広く居場所は、空間の礎だし、楔でもありうる。
人が関係性をもち空間を形成しはじめるとき、家をイメージするのはそのためである。

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2011年8月26日金曜日

仲間と空間

仲間に必要なものは空間だろう。
空間でわかりにくければ、居場所だ。
しかも、その居場所が深く根付いていればいるほど安心感は灯る。
そういった居場所に欠点もないわけではないが、いまは問題にしないでおきたい。

ある種の連中がKYと言うのは、この空間保持の重要性を意識してのことである。東北で津波が奪い去ったのはこの空間である。
静かに放射能が降り積むのは、この空間にである。

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2011年8月25日木曜日

アマリア・ロドリゲス

東京から離れた廃屋のような宿でアマリア・ロドリゲスを聞いている。
彼女がここに空間を作っていくのがわかる。

ここは、異国だ。

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2011年8月24日水曜日

しばらく東京を離れます

ブログが間遠になるかもしれませんが、よろしくお願いします。

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2011年8月23日火曜日

詩の礫


福島からの言葉です。
力のある言葉だと思います。

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風下50kmくらいまでは元の生活に戻れまい

福島原発事故のもともとわかっていたことが、いま露になりつつある。
福島原発の近辺の、ある範囲の人々はもう帰れない。
コレは、事実であり、そこで仲間関係を作っていた人々の世界は壊れる。
そのことはいかに批判されようともしっかりと伝えなければならないことだろう。

原発は一時期その周辺の人々の懐を潤沢にし、そして、いま、生活を破壊している。
おそらく目に見えない放射性物質で破壊されてしまった地域は広大なもので、その補償をこの国がまかなえるかどうかの判断はわたしには難しい。
ただ、マスコミのニュースバリューはひたすら逓減し続けるこの福島の問題は人々との頭のなかから消えていくであろう。
それとは関係なく、この汚染はこれからも広がり人間の人生レベルで考えれば一生消えることはない。

残念ながらこの国でそういった原発事故の問題が長く報道されることを期待することは難しい。
記憶からは消え、事実だけが残る。

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2011年8月22日月曜日

仲間

生きるためには仲間がいたほうが便利だろう。
ずっと前は、まさに生き抜くために仲間を形成していたと思う。
そういうグループが統合されたり分裂したりして事は成り立っていたのだろう。
出来れば話を大きくしたくはない。

一つの仲間があって、幸せに、生きる意味など考慮することもなく暮らしていた。
それでよかった。
なかなか仲間を作れない者もその仲間の端に加えてもらえたかもしれない。
けれども、そういう単調な毎日を嫌った奴もいたのだろう。
定常状態を好まぬやからはあちこちにいる。
その結果、温度差のあるグループが出来上がったとする。

となると生きにくさを避けるために集まった仲間をいやな風に感じ出す。
そういう人間も出てくる。

ここらあたりから個人的な問題が生じるのだろうとわたしは思う。

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2011年8月20日土曜日

町で生きる人々

「町で生きる人々」という表現は「田舎で生きる人々」としてもいいし、「日々生きる人々」としてもいい。
そういう人たちと交流させていただいていると生きる意味などということはどこ吹く風。
生きている人々は「生きる意味」などというつまらないことに拘泥しない。
ただ今日と同じ明日の来ることを信じきって笑っておられる。

そういうものなのだなあと思う。

生きやすくするために仲間を作り、それが徒党となり、…の結果人を生きにくくしているのだとしたらこの日本が持っているその問題は大きい。
そもそも「生きる意味」を俎上に上げなければならないこと事態、たまらなく不幸なことだと思える。

人は生きるために当然のように仲間を作り、日々を暮らしてきた。
それを何が妨害したかが問題になるのではないかとわたしは思う。

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2011年8月19日金曜日

仲間

一人でいるより仲間がいたほうが生きやすいけれど、それが、自分を生きることと重なるかどうかはわかりません。
少し前から「KY」などというくだらない言葉が蔓延ってきていますし、仲間を維持するために自分よりその場の空気を保つというやり方にわたしはあほらしさを感じます。
このあほらしさは原発村にもあるのでしょうねえ。

一人では生きにくいが、自分をなくしてまで仲間を作るのもねえ。
ややこしい話になっていきそうです。

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2011年8月17日水曜日

仮設住宅拒否

仮設住宅拒否にも一人では生きにくい人間の側面が出ているようでやるせないです。
もともと生きること自体にそれほど正義がないと言い切ってしまっては身も蓋もないので(最初から生きることがどうのこうのなど考えなければいいだけのことなので)ここは何とか生きるためにはということで、仲間を作ることをやはりお薦めしたい。
確かに、ネコや犬や…いやいやそれほどはっきりと動かなくても植物を育てていても十分仲間として機能してくれる。
実際わたしが初夏に買って庭先に植えたシソとバジルの元気のよさはわたしの生きる支えになってくれたりもしている。
庭先のシソやバジルがともに生きる仲間たちだと書けばなにやら頼りない気もするが、そのように感じることがあるのだからここに書きつけておきたい。

けれども、仲間とするならやはり人間のほうがいいかなと思うこともあり、人間の仲間をみつけようと思い立つこともあるが人間にはやっかいなところもあってあまり近づきたくない思いもある。
それでも一人では生きにくいのだから何とか仲間を探すことを考えてみたいのだが、さてどうしたものだろうか。

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2011年8月16日火曜日

一人では生きにくい

人間は何人か寄れば、それなりに愉快に過ごすことはできる。
一方、一人で生きるのは、なかなかに大変なもので出来れば仲間を造ったほうがいい。
このとき仲間と呼ぶのは、こと人間に限ったことではない。
何か好きなものを持ちなさいというのは、そういう生きるうえでの術だと今のわたしは思っています。

好きなものが映画であろうが、AKBであろうが、将棋であろうが、野球であろうが、…構いはしない。
また、その対象が社会的に見てどうであろうが、他の誰かが見てどうであろうが、それも構いはしない。
何かを好きであるということ、そしてその好きであることの周りに仲間がいることは随分生きるうえでの困難を取り除いてくれるだろう。
それは、一人で生きていくことを考えれば天と地の差がある。

しかし、この話はそれで終わりという話ではなく、さらに色々と考えなければならないことを呼び覚ます。

けれども、最もシンプルなところでは、その最初に人はそのように何かを頼って生きていくほうが生きやすいだろうということを納得しておきたい。

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2011年8月15日月曜日

お盆の日にあちこち歩いてみたのだが

歩いている人との出会いはまったくの他人であっても悪くない感じがすることがままあるものだが、どこかにとどまっている人、それは飲み屋であれやこれやしゃべりながら飲んでいてそのあれやこれやがつまらない話題だったりすると顕著なのだが、ほとんどこれといった人との出会いはない。

とどまっている人間にはとどまった自分を肯定しようとする意思が知らず知らずに働いていて、そういった人々の集まる場所自体の意思もそのまま自己停滞肯定に染まっているように感じる。

人は変わることのほうが健全だと思う今日この頃です。

変わるための原動力の大きなものに「不安」があり、この「不安」を解消するには今よりの変化と今の自分への自己肯定しかないだろうから、変化に向かう人間にとって自己肯定に流れる諸君は体に悪い。
体に悪いというのは一緒にいて実際に体が悪くなるという意味です。

変わりつつあるあなたの変わらない部分を信じてつき合ってくれる人がいるといいですね。

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2011年8月14日日曜日

沖縄での小出先生

http://www.ustream.tv/recorded/16610562

「安全な基準ない」 「原発のウソ」執筆の小出氏

 ベストセラー「原発のウソ」の著者で、東日本大震災以前から原子力発電所の危険性を訴え続けてきた京都大学原子炉実験所の小出裕章助教が13日、西原町立中央公民館で「放射能と子どもたち」との演題で講演した。西原町立図書館の主催。約700人が駆け付け、関心の高さをうかがわせた。
 小出氏は政府が放射能の汚染レベルの安全基準値を設けたことに対して「安全な基準などない。放射能は微量でも危険だ」と指摘した。
 放射能汚染への向き合い方については「汚染された食料が出回ることは避けられない。子どもには汚染の少ないものを与えよう。給食も地産地消のものでまかない、福島や関東産は避けるべきだ」と語った。
 その上で原発事故で第1次産業が危機的状況にあることを踏まえ「第1次産業を守るためにも、大人は原発を許してきた責任に応じて覚悟をもって食べてほしい」とも呼び掛けた。
 原発と米軍基地の問題を重ね合わせ「米軍に従うのが国益だという人々が日本を治めている。人間の価値は強いものに従うことではなく、生きることが困難なものに目を向けることができるかだ。反原発の闘いと沖縄の闘いは同じだ」と力を込めた。
=====
引用元:「安全な基準ない」 「原発のウソ」執筆の小出氏 – 琉球新報 – 沖縄の新聞、地域のニュース

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伊集院静氏のエッセイ

伊集院静氏のエッセイとして「大人の流儀」は取り立てるほどのものではなく、なにやら世間に対するご意見が網羅してあって、彼には似つかわしくない気配もある。
それは編集者の希望もあろうし、文章の長さ指定もあることだから致し方なく、だからそれらが大きく取り払われた最後の先妻との別れを書いた部分にわたしの目はひきつけられる。
本当のことを書けば、その他のところはさらりと眺めたに過ぎない。

彼のエッセイなら「あの子のカーネーション」や「神様は風来坊」などにまとめられている週刊文春に連載されていたものの方が数段上で、そのなかには自己否定の気配がはっきりと描き出されていて他者への批判は影をひそめる。
もともと誰かへの批判は、相手がよほどくだらなく当たり前のようにのさばっている場合にこそ発せられるもので、たいていの場合は、それこそそういう奴らはどうでもいい。

わたしなどであっても、あれはクソだなと思う人間を何人か知ってはいるが、どうでもいいと思っている。
クズのことなど頭の片隅に上らせる必要はないので、思うのは敬愛する人やその顔が浮かぶと微笑んでしまったりする人のほうがずっといに決まっている。
もちろんそのような心和ませたり、深々と敬意を示したくなるような人と出会うのはまれだが、そういう人を日々思っていることで、どこかでまた同じ匂いのするそんな人に出会えるかもしれないとその予感に心が疼いたりする。

伊集院氏には、だれかれとなく他者を否定するような感受性の荒いところはなく、むしろ自己否定が強烈に入った体育会系の男と考えたほうがいいだろう。
情に厚く、なぜかしら人に可愛がられ、そういう人たちから多くのものを受け取ったどうしようもない男である。

だから、自分を棚に上げてどうでもいいような他人を声高に批判するのをよしとしない。(そうなんじゃないかな)
だとすれば、「大人の流儀」では最後の吐露のような先妻への思いを綴った部分を読むだけでいいのではないかと思う。

以上のことは別にしてこのエッセイはわりと売れていると聞く。

売れる売れないは、作品の出来とは違う関数によって出来上がっていると考えていいのではないかな。

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2011年8月13日土曜日

大人の流儀


最後にある「愛する人との別れ」が滋味あふれる。
他のエッセーはといえば、いろいろな人に愛されている人だなあという感慨である。

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津波と原発


論ではなく、それでいて利権の形成されているところもしっかりと押さえてあって教えられた。
いいものも悪いものも含めて日本がさらけ出された震災であった。
今の時期なら落ち着いて読める。

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2011年8月12日金曜日

当事者は一様ではない

当たり前のことだが、当事者であるということとすべてを知りうることは切り離されている。

原爆の被災者だからといって原爆の影響がいかほどかを知っていることはない。
被災者のなかに原爆に対するいろいろな思いが渦巻いている、そんなところに被災者の当事者としての特徴はある。
したがって彼らは原爆の起こした悲惨な状況を目の当たりにしているだろうが、原爆の起こした人体への影響をそれほど詳細には知らない。

たとえば、以下が原爆症認定の政府見解だが、

被爆者は、原子爆弾による放射線が原因となって起こった病気やけがについて、医療をうける必要があるときは、全額国の負担で医療の給付がうけられますが、そのためには、その病気やけがが、原子爆弾の傷害作用によるものであり、現に治療を要する状態にあるという厚生労働大臣の認定(病気やけがが放射線以外の傷害作用によるものである場合には、その人の治ゆ能力が放射線の影響をうけているということについての認定)をうけなければなりません。

放射線の影響を要件に入れている。

日本は広島、長崎に続いて福島で三回目の被爆を受けたと安直に述べている人々がいるが、それはりんごとスイカとかぼちゃを並べて一個、二個、三個と数えているようなもので、同じものではないことを知らない。

今回の福島でこれから大きく問題になるのは内部被爆、低線量被爆の問題(直接放射線を浴びたものとはまったく異なる)だがこの影響に関する日本自身の資料をほとんど持っていない。
前述の原爆症にもはじかれる放射能汚染の影響だ。

このことに関しては広島長崎の原爆を落としたアメリカのほうがよほど詳しい。
なぜなら、あの二発の原爆は観察資料の役目もしていたからである。
そのために広島は原爆前に爆撃を受けなかったし、その市の中心部に向かって原爆を落とされた。
原爆の攻撃力調査のためである。

その落とした当事者は原爆の内部被爆の問題は公にしたくなかった。
その影響を世界に知らしめれば、原爆使用の非人間性が明らかになるからである。
けれども世に知らしめずにABCCによりアメリカは調査を続けているから原爆のもうひとつの当事者アメリカは日本よりも内部被爆についての詳しい資料を持っていると思われる。

というわけで、日本は世界優一の被爆国ではあるけれども、放射能の被害状況については実験としてみなしているアメリカにその情報は劣る。
いわば、福島は日本が始めて自由に調査できる被爆なのである。
そこで、今回の福島事故で自由に被災者のために情報が公開され続けているかといえば、そうではなく、原子力発電のもつ悪魔的破壊力を押し隠すためにあまり報道はされないでいる。
(福島第一原発は広島に落とされた原爆4000発分のセシウムを抱えている)

それでも今回の事故でわかったことは少しずつもれ出ていて内部被爆と低線量被爆の問題が次第に大きく取り上げられようとしている。
この二つは晩発性のもので発症するまでに随分と時間がかかる。
したがって、国や東電が知らぬふりをしようと思えばいくらでもできる。
だから、あやつらは平気で給食に内部被爆用の食べものを混ぜようとしたりする。

日本ははじめて福島原発事故で、その情報すべてを手にできる位置で被爆の当事者となった。
先の広島長崎では単なる実験材料に過ぎなかった。

当事者とは言っても先のものとは天と地の差がある。
それが他国への原子力発電の技術輸出をこそこそと画策する所以になっているのであろう。

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苦役列車


映画にしてもそうだけれど書籍もどこかで読んだ気分が必ず読んでいる自分の中に漂っている。
この作品に接したときもそうだったが、それは、藤澤清造作品の感触にどこか似ているからかもしれない。
この作品は、人間のつまらなさを描いている作品で、私小説の一種です。

信用できるかどうかが作品としての価値に関係するならもっとも基本的なところで信用できるかもしれない作品です。

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2011年8月11日木曜日

おだやかな児玉龍彦

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2011年8月10日水曜日

ほかならぬ人へ


というわけで(前ブログ参照)、小説を読んだりするのだが、こういう小説も読んでみた。
このところ、そうか、とどこかに響く作品に出会わない。
問題はわたしにあるのだろうな。

ただし、「ほかならぬ人へ」のなかで東海の匂いを作品に埋め込んだ作者の感覚には小説を感じた。
こういうところに振り回されていてはいかんかな。

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テレビ

わたしには小さなテレビを抱え込んで、そいつを寝転んで見る習慣があった。
ポータブルテレビというのだろうか新書が少し太ったようなテレビで、そいつが映し出す番組といえばたいていのものはそうして寝転がって見るのに心がなじんでいた。
それが、デジタルへの変換で見られなくなったものだからわたしは精神のバランスが少々崩れた。

こうなってはじめて、なんてくだらん番組だと思っていたものがときどきわたしの心を和らげてくれていたことに気がついた。
かといって、くだらない番組は前のままくだらない番組で一向に評価は上がらないのだけれど、わたしの心の中にそういうくだらないものになじんだところがあるのに気づかせてくれた。

もうひとつアナログが見られいシステムになったのがつらいのは、ラジオでテレビの音声が拾えなくなったことだ。
とにかく、テレビを見るときは、少々サイズの大きな画面をイスに座ってか胡坐をかいてか、どことなく正対する気分で見なければならなくなった。

そうなると、くだらない番組はただただくだらない番組に過ぎず、わたしを慰めてくれたりはしないのだった。
では、ラジオかというとラジオもあのくだらないテレビの番組たちに負っていたところがあって、ラジオだけを聞いていると、ラジオにも以前よりしっかりと向き合ってしまうところが出てきてしまう。

わたしの場合、たいていのものにはしっかりと向き合わないほうがいいようで、自分のことは棚に上げてこいつはしょうがないなあと人物にも番組にも音楽にもうなづき方にも言葉のやり取りにも気になるものが出現してくる。
昨夜、興味があってひねったDigというTBSラジオの竹内なんとかという女性アナウンサーには閉口した。
他のまともな話をする連中の雑音にしかなっていない声を入れてくる。

ーああ、それは……ということですね
とか
ー……ということですね
とか
ー…

思い出すのがやっかいだからもういいけれど、まったく必要のない、しかもとっちらかった「まとめ」をいちいち入れてくるものだから、本気でこの女は底抜けの阿呆だと思ってしまった。
実際、竹内香苗という女はどうしようもない女だろうが、それをここで取り上げているわたしもさらにどうしようもない。
暑さのせいかと思われるだろうが、さにあらず。
これは、まことにもってあのくだらぬテレビ番組と接することを強制的に拒否されたが故の中毒症状である。

つけ足しておけば、竹内アナは自分を立派だと思っておいでの方で、わたしはそういう間抜けに接すると狂犬化するところがあって、なんとおまえはつまらない奴だと八つ裂きにしたくなることがある。
けれども、その種の人物と真剣にかかわること自体が情けない様で、…いやあ、実にあのテレビのくだらない番組には精神の穏やかさを与えてもらっていたのだなあと思う。

ただ、それは一種の間の抜けた中毒のようなものだから国のわけのわからぬ利権によるアナログからデジタルへの強制変換がわたしにをどこか別のところに連れて行ってくれるかわからないとは思っている。

しかし、自分を利口だと思ってしゃべる人間というのは浅ましいものですね。
自戒をこめて。
ご同輩。

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2011年8月9日火曜日

ECRR科学事務局長クリス・バズビー博士



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首都圏の土壌汚染深刻

 「放射能雲が関東地方を襲った3月15日夕方以降、さいたま市、川口市では(外の)空気さえ吸ってはいけなかった」。こう語るのは埼玉県の中学校で理科教師をつとめる川根眞也さんだ。風が福島から関東方面に吹いたこの日、川根さんは放射能測定器で両市の放射線量を計った。

 「安全だ、心配ない」を繰り返す行政の発表やテレビの報道とは裏腹に関東地方は、やはり高濃度の放射性物質で汚染されていた。市民有志からなる「放射能防護プロジェクト」が首都圏150か所の土壌を測定したところ、35地点でチェルノブイリ原発事故の「一時移住区域」「希望移住区域」「放射線管理区域」と同じレベルのセシウム(合算値)が検出された。

 調査方法は表面から5cm、砂場は15cmを採取した。期間は6月初旬から7月中旬。市民150人が1人1カ所ずつ身近な場所の土壌を採取し、すべての検体を横浜市内の民間調査機関に持ち込んだ。

 調査地点のうちセシウム汚染が最高値を記録したのは埼玉県三郷市早稲田植え込みで91万9,100Bq/㎡。チェルノブイリ事故の「一時移住区域」(移住・立ち退きの義務がある)と同じレベルだ。
 
 次に高かったのが千葉県松戸市紙敷の園庭で45万5,845Bq/㎡。チェルノブイリ事故の「希望移住区域」(移住の権利が認められる)に匹敵する。松戸市はじめ首都圏の5ヵ所でこの「希望移住区域」と同レベルのセシウム(合算値)が検出された。

 チェルノブイリ事故の際設けられた「放射線管理区域」に相当するのは東京文京区小石川4丁目の植え込みをはじめ29ヵ所。
 
 チェルノブイリ事故では行政が住民を大量に避難させたが、それでも後にガンや白血病が多発した。首都圏では行政が「避難」の二文字を発する様子はない。事故を起こした福島第一原発間近の福島市においてさえ、政府の現地対策本部は「国が安全と認めた所には強制はしないが留まっていただく」と冷淡なのである。

 調査に加わった横浜市内のある母親は嘆息しながら語る。「私たちが暮らす場所にこんなに放射能が降り積もっていたのかと驚く。子供は泥んこになって遊ぶので心配です」。

 「放射能防護プロジェクト」のメンバーである内科医の土井里紗さんは、被害の拡大を警戒する。「チェルノブイリは地産地消だったが、日本は流通が発達しているので(汚染食品が)一気に広がる。チェルノブイリ以上に体内被曝が広がる可能性がある」。

 防護プロジェクトでは菅直人首相と関東1都6県の知事宛てに、行政が「土壌調査」を行うことなどを要望した。

 ところが行政が調査をすると低い数値しか出ない。前出の川根眞也氏は中学校校庭の土壌を毎日のように調査している。だが行政は川根氏が校庭から離れた時にこっそりやって来て調査をする。発表される数値は最低値だ。川根氏は「行政の調査には必ず市民が立ち合う必要がある」と強調する。

 行政とマスコミの「安全情報」を鵜呑みにしたら取り返しのつかない被曝をする。飯舘村の悲劇はあらためて言うまでもない。「放射能防護プロジェクト」の今後の活動について川根氏は「先ず情報公開」と力を込めた。

全データは http://www.radiationdefense.jp/

田中龍作ジャーナルから

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2011年8月8日月曜日

コメ先物72年ぶり復活 直後に中断、東穀取は値付かず

お米の放射能汚染問題が材料になっているだけにきな臭いにおいがします。(とんぼ)

 東京穀物商品取引所(東京・中央)と関西商品取引所(大阪市)は8日午前、コメ先物を試験上場した。国内のコメ先物の取引は72年ぶり。両取引所は「最後の大型商品」として流通業者などのヘッジ(保険つなぎ)や、新たな投資商品として資金の取り込みを図る。東穀取では取引開始直後から価格が付かず、波乱のスタートとなった。

 東穀取の渡辺好明社長らが午前9時に取引開始を告げる鐘を鳴らし業務を開始。上場したのは関東産コシヒカリ。取引開始直後に買い注文が売り注文を大きく上回り、一時的に取引を中断するサーキットブレーカー/async/async.do/ae=P_LK_ILTERM;g=96958A90889DE2E6E3EBE0E4E4E2E3E5E2E1E0E2E3E29BE0E2E2E2E2;dv=pc;sv=NXが発動された。2012年1月物には1俵(60キログラム)1万8500円の買い注文が入った。東穀取が事前に示した基準値(1万3500円)が安いとの見方が多く、売買は成立していない。

 渡辺社長は記者会見で買い注文が多かったことについて福島第1原子力発電所の事故の影響で流通検査などが徹底されることから「11年産の出回り量がタイトになる」と説明した。

 関西商取は北陸産コシヒカリが対象で初値は1万9210円(12年1月物)だった。午前10時30分時点の売買高は4632枚(枚は最低取引単位)。関西商取の岡本安明理事長は「コメは日本から価格を世界に発信できる唯一の商品。関西の金融界の活性化につなげたい」などと話した。

 コメ先物は江戸時代の大阪・堂島で始まり明治以降も続いたが戦時下の1939年に全廃。戦後は食糧管理制度のもと国がコメの流通を管理。04年の法改正で流通がほぼ自由化され、取引所でも先物の上場準備を進めていた。日本で主食にしている「短粒種」の先物市場は欧米・アジアにも存在しない。

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8月6日の反原発デモでのこと

「こちらは丸の内警察署である。5列行進は認めない。もっと左側に寄りなさい。さもなければ検挙する」。警察は指揮車から警告を重ねた。

東電前への反原発デモへ激しい警察の介入があった。
当たり前の話ですが、東電と国は同じ穴のむじなです。
原発利権大好きなむじなです。
これからの子どもたちを見捨てることに躊躇ないむじなです。

福島原発の被害は、まだ端緒にすぎません。
もちろん、その総被害額はとんでもない数字になることでしょう。
とてもこの国が補償できる額ではありませんし、この国も補償をする気はありません。
というより、この国にはまだこの原発事故の全体が見えていないのかもしれません。

人というものはいやなものは見ない、見えないようになっていますから。

ワタシタチハ意識シテ、見ツメテイキタイデスネ。

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2011年8月6日土曜日

英国王のスピーチ


池袋演芸場昼の部と新宿末廣亭夜の部の八月上席のトリは小三治師匠が取ることになっていました。
もう随分になるんでしょう。
とくに、池袋には開場の二時間くらい前から小三治のトリを目当てに噺好きが押しかけたもんです。
師匠も暑いさなかよく熱演をしてくれました。
それほど丈夫なお体でもないのに。

この恒例の小三治の夏が今年はありません。
どうしたんでしょうね。
ご存命ですし、何より高座に上がってらっしゃるのに…
さすがに真夏の十日間は難しいとお考えになったのだろうとそのお体のことを考えて、心配しております。

で、といってはなんですが、「英国王のスピーチ」を見てまいりました。
映画のことは詳しくはわかりませんが、落ち着いた造りになっておりました。
これといった盛り上がりもなく(イエイエ、あるにあるんですがね)大事に絵を取っている映画でした。

問題は、そのラストシーン。
これが、「間」を中心に据えた英国王のスピーチだったんですね。

「間」。

ひとつにはわたしは小三治師匠の「間」を味わいたくて毎年夏の池袋に通っていたのですね。
これからは、独演会ですか。
少し変わっちまいますかねえ、小三治師匠が。

この「間」を取ることが最近の芸人さんにはできませんね。
それは、聞き手が急いているからでしょうか。
時代が急いているからでしょうか。

「英国王のスピーチ」ではたまたまそのように「間」を取ってスピーチせざるを得なかったのですが、英国が戦争に突入するあの時期、あれは、絶品のスピーチだったんでしょうねえ。

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2011年8月5日金曜日

解放令の明治維新


われわれに知らされている歴史はある一面から照射されたものに過ぎないのだが、その照らし方にある意思が働いていたりする。
ここにあげた本に照らし出される歴史はわれわれの知らない面から歴史を映し出したもので、たとえ入門書と著者が注解を与えようともその見たことのない風景は驚くに値する。

このようにわれわれの知る歴史は見えないものを作り出し続けていて、そういう環境を熟成する学校教育や世間に出回るいわゆる歴史本や歴史小説から脱却することは難しい。

「解放令の明治維新」に出会ったりするとはっとしてしまう所以である。

ラベル:

2011年8月4日木曜日

民宿雪国


よくできたエンターテイメントなれどわたしの心、大きくは揺れず。
知らぬ間にわたし自身の生命力が失われているのかもしれない。

原発事故を追いすぎたせいか。

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2011年8月3日水曜日

小出先生です

ラベル:

どうなる放射能汚染物の処理“原発並み”の放射能抱える東京の下水道施設

http://eco.nikkeibp.co.jp/article/report/20110729/107086/?P=1

報道の濃淡は聞きしに勝りますね。
最近は、牛ばかり責めて酪農農家を悲嘆にくれさせていますね。
肝心なことを報道してもらいたいものです。

食物は、すべて汚染されているくらいの気分でこちらは覚悟しています。

ラベル:

中国の新幹線事故

中国の事故は中国の中での問題として扱うのが本当で、日本では考えられない事故だなどといっているのは、何の足しにもならない感想以下のものとしか言いようがない。

中国のあの事故は中国の中の問題として取り扱うならば、その取り扱い方には大きな興味が生じるだろう。
報道のあり様を見ていけば、そこに中国の現在の姿が見て取れそうなところがあるからだ。

とにかく、中国の鉄道事故を日本では考えられないという感想がいかにものを考えていない人間の発言かくらいは知っておいてほしい。

これは小さな問題からしてそうであって、知り合いの誰かの問題にしたり顔で意見する人間はおおむね自分の問題としてその問題を捉えなおし語っているに過ぎず、結局はもともとの問題とは違うことを語っていることになっている。

身を寄せて当事者の問題を思うことができる人間はみなさんの思っているよりずっと少ない。
というわけだから、親切なアドバイスも思いつきで言われていることのほうが圧倒的に多い。
なかには参考になる意見もあるにはあるが、それはそれ、たまたまというものである。

ラベル:

2011年8月2日火曜日

これが放射線の確定的影響です

ラベル:

この国では、まず空気が作られる

組織といっては大きすぎれば集団と言い換えてもいいのだが、そういう人の集まりはまず空気を作る。
そういう傾向があるとわたしは思っている。
もっともコレは日本のことで他国のことはよくわからない。

で、この空気を熟成するやいなや空気に殉ぜない人間を組織は奇矯の目を持って見始める。
そこには何の自己内省もなく、ただただ正しさが横行する。

そういう習癖を集団が持っているために空気が読めないなどという言葉も生まれる。
あれは言ってしまえば粛清の言語版である。
それでも人は集団に入りたがるもので、そもそものところ集団の一員をもってして正しい姿とこの国では考えている。
この点に関しては他国も同じようなものだろう。

くりかえしになるが、集団には空気がある。
いったん集団に属してしまえばこの空気に合わせることは至上の命令となる。
何、至上とまで言い切らなくとも、異質な自分らしさを出していればあれやこれやと非難にさらされるからなんとなくいやな気分になる。
挙句の果てはその集団にいづらくなりすたこらさっさと逃げ出すか、自分が自分であることを忘れてしまうかのどちらかになるのがおちである。

集団というのはかように醜悪なものであるが、それでも孤独を嫌がる人間は集団にあこがれる。
集団ではほんの二三人の集まりからでも空気は発生するのでこのことを知っておくのは肝要なことなのだ。

それぞれ個別の集団に対する分析はみなさんにお任せするとして(いやいや大切なことですぞ、お仲間や会社の持つ空気を知っておくということは。その空気は必ずしも正しくはなく、たまたま持ったに過ぎないものですからね)この国のいまやだれでもが知っている原子力発電所に対する態度もおよそ空気の熟成を持って発展を遂げました。
したがって、原発に関してどうのこうのの議論よりも原発を取り巻く空気を変えることの方がずっと脱原発に近づくのに効果的であることは知っておいたほうがいい。

小出裕章先生があの境遇でがんばり続けた功績は、この空気を(原発を推進しようという空気)読めないバカ学者として扱われ続けた中で空気を読まずに己を通したことにある。
そういえば、ついさきごろ会社を辞められたF君の心意気のなかにも会社の空気を読まない自分を信じたところにキリリとしたものが見える。
国や地方レベルまで行かなくても東電からさらに小さな会社にいたるまでさまざまな空気が漂う。
たいていはその組織の中でだけで通用するような薄汚れた空気であるのは経験した聡明なみなさんならよくおわかりのことだろう。

さて、ふたたび原発に話を戻せば、この国が困っているのは、もともと推進するはずの原発を包み込む空気を作り(それは東電や東電の買ったマスコミや学者やはたまた保安院に代表される政府自身がなした所業だが)ここまできたものが、福島の事故で無知蒙昧(おそらくやつらはそう思っていたのだろう)な人々が悲しいかな原発の被災者になることで、脱原発の空気を作り始めたことにある。

この脱原発の空気は日本国だけでなく世界に蔓延し、日本だけを見ても右翼の諸君もデモを起こすほどになってしまった。
最初に述べたが、ことをうまく進行させるためには何より空気作りが大切なのがこの国のあり方であり、今やその空気が変わりつつあるわけで、これは止めようがない。
それでもあれやこれやと手を打ってくるところがやつらの狡猾なところで行き先はまだ確定はしていない。

原発がよろしくないことは理屈の上ではもはや歴然としているのだが、事実を動かすのは理論的な正しさではなく何やらわけのわからぬ空気であって、以上は、ゆめゆめこの空気なるものに油断なさるなということをしたためただけの文章です。

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2011年8月1日月曜日

セミの声

いま、セミの鳴き声がしたように思います。

ほんとうに今年はセミが鳴きませんね。
天変地異との関連を軽はずみに論じないほうがいいでしょうね。

およそ、この日本には「無常」という考えがあって、それがひとつの文化の核になっているようですが、それはあくまでも静かな自然の成り行きの中でのことで、荒々しい手で地球を引っ掻き回して元通りにならないだろうでは決してないのです。

無常観がこの震災の被災者を支える何ものかであるのなら、そいつはどういっていいのかわからないです。
生きていっていいのやら、悪いのやら、孤独の身にはなかなかにきびしい日本の風情です。

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この日本全土を静かに放射性物質が覆う

タイトルのような諦観とも取れる(実はそうではないはずだろう)日本人の姿(日本人といっても一様ではないはずだ)を書いていく文章が、文章のジャンルを越えて重要な役割を持つ可能性があることを確認しておきたい。

ただし、それが映像や他のものに取って代わられようともいささかの問題もないことも知っておきたい。

とにかく、3・11以前と以後で世界が変わったことをまだこの国では十全に理解していないのではないか。

「福島を返せ!」

とシュプレヒコールの声をあげたところで、福島は戻ってくるのだろうか。
国が、東電が正確な情報を流さないからもちろんわからないのですが、今も放出を続ける放射性物質はチェルノブイリの3分の1程度で留まるわけはないだろう。

被害者の言動の中にも何かが微妙に狂っている日本を感じています。

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