2009年9月30日水曜日

一ヶ月に30本

一ヶ月に30本を目標に書いているので、それを越してしまうと体調の悪さなどにかまけて、ついつい書きそびれてしまいます。

いつも読んでくださっている皆さんには本当にご迷惑をかけています。

ラベル:

2009年9月26日土曜日

「砂漠」 伊坂幸太郎

伊坂幸太郎の作品には、ときとして志を感じる。
その志にわたしは、彼の可能性を見るし、信頼感を芽生えさせる。

ストーリーについては多くを語らなくていいだろう。
それはスポーツ選手の記録を語るようなもので、ほんとうの作者には近づけない。

伊坂氏はこの小説の中で、坂口安吾と二人のパンクロッカーとサン・テグジュペリを持ち出す。
そうしておいて、人が生きているということについて語ってみようとする。
エンターテイメントの枠をはずさぬようにだ。

なかなかいい若者なのだ。
たまに志に出合えるというのは幸せなものだ。

どうでもいいものを守るこの時代にあって。

ラベル:

王座戦 18連覇

25日朝から山形県天童市の松伯亭あづま荘で指されていた第57期将棋王座戦(日本経済新聞社主催)の五番勝負第3局は同日夜、78手で羽生善治王座(38)が挑戦者の山崎隆之七段(28)を下し、3連勝でタイトルを防衛した。
羽生王座は自身が持つ同一タイトル連覇記録を更新する王座戦18連覇を達成。3連勝のストレート勝ちも5期連続で、将棋界初の記録だ。

王座戦の羽生の強さは特別だ。
今回もまた 、5年連続ストレート勝ち、16連勝(3連勝×5+1)のおまけも続けた。
こちらも、ものすごい記録だ。

その記録を片手に、昨夜、前人未到の18連覇を山崎相手に達成した。
ここで山崎に対しては格付けが決まったと思われる。

しかし、嘆くな山崎、キミは天才山崎と呼ばれた男だ。
虎視眈々と捲土重来を期したまえ。
周章狼狽することなかれ。

こういうこともある。
あるいは、こういうことだらけだ。

明日だけ見ていけばいい。
それが将棋指しとなれたキミの特権だ。

羽生の力が衰えぬうちにこの借りは返せばいい。

山崎、キミの天才はまだ死んでいない。

ラベル:

2009年9月25日金曜日

さくらの唄

なかにし礼が、「さくらの唄」をテレビで絶賛していた。
彼の自作の詩に三木たかしが曲をつけ、美空ひばりが歌ったものだ。

http://www.youtube.com/watch?v=760UQEcenk0

いい歌はいい歌なのだろうが、絶賛するほどのものだろうか。
おそらくそこには、歌に対する思い入れと歌を聞き込んでいる耳と生で美空ひばりを聞いた感動の違いだろう。

いや、二番まで聴いていくといい歌のように思えてくる。
ここにも発信者と受信者の問題が横たわっている。

作品とは厄介なもので、生き物なのだ。

ラベル:

MAX 路上詩人




MAX という路上詩人がいる。

路上で、即席の詩を客に書いて贈るという仕事だ。

今では、路上詩人は何人かいるが彼はそのうちの一人、サイコロを振って行き先を決めながら旅をしている。


立派なもんだ。


三重県の四日市になじみがあって、このMAX氏は、四日市の串揚げ屋一軒のなかにくまなく自分の詩を書き込んだ。

一階と二階だからかなりの量である。


もちろんここでいう詩とは現代詩ではない。

もっとたやすく人の心に入り込んでくる詩である。

たやすく入り込むために自分の顔を見せ、相手の顔を見て、目の前で字を書いてみせる。


それは明らかに現代詩ではないが、力として身近な人に向けては現代詩よりはっきりと強力に飛ぶ。


たいしたもんだ。

ラベル:

作品の中に生きる

作品と現実は別個のものであるが、まったく関係がないわけではない。
だが、どちらの要素に重きを置くかと問われれば、いまのわたしは作品と現実が別個であることを重要視したい。

別個であるがゆえに作品の世界に現実以上の安堵感を得るということはあるだろう。
この安堵感はただ心地よいだけではなく、その手ごたえの限りは苦悩もまとわりつく。
まとわりつくがこの苦悩は理解者とともにの苦悩であって、現実に多く散在するまったく他者でありながら必要以上に声高なあの場違いなさんざめきとは違う。

もっと身近で、きびしい。
厳しいがゆえに耐えられる、あるいは許すことの出来る種類のものだ。

作品の中に生きる人々にある共感を持つときに立ち表れる哀しみは、現実にこうではないと思いながら生きている自分と共通する哀しみではあるが、やはり作品の中の哀しみのほうが純粋だろう。

登場人物の次の姿が浮かばずに苦悩する作者は、作品と現実の違いを知り、さらに作品を現実と等価以上のものとみなしているものの所業の結果だ。
作品の存在価値をそこまであげてしまったとき、登場人物はすでにわが手を離れている。
わが手を離れていながらわが手で書かなければならない矛盾が登場人物の次の行動を生み出す苦しみの源だ。

作品の中でしか生きられない登場人物に作品の外にいる作者が主となってその行動規範を定めることは出来ない。

では、どうするのか?

悩むのである。
すぐれた作品はすべからく悩んだ末の産物だと思われる。

登場人物が作品の中で生きているという言葉は以上のような意味もまたもっている。

ラベル:

またやってしまった

「獣の奏者」には続編があるというのであわてて読んでみたら、もうすでに読んでおった。
それを途中まで気づかなんだ。

やっぱりぼけておるんだろうな。

それでもよかったこともある。
この作品がストーリーをどうこうすることに終始せず、エリンの生きる姿にすべてを託しているところにあらためて感じました。

もちろん、エリンは主人公ですし、作品の中だけでしか生きていないわけですから、エリンを追いかけることが作品を作るということと同値になっています。

登場人物は作品の中でしか生きられません。
そのことが、ときに作品を現実以上に重くしていきます。

エリンが生命について考えるときの胸の苦しさは読者へと移っていきます。
作品が息づいているという意味でこの本は本当にいい本でした。

登場人物が造詣できれば勝手にとことこと歩き始めるようなことを書いているものもありますが、いえいえどうして作品の中で登場人物が真に生きることは、とても厄介なことなのです。

作者の得手勝手にいくらでも出来るのですから。
けれども得手勝手にすれば、その登場人物は作品の中からはみ出し死んでしまいます。
このあたりにどこまで真摯に向かい合っているかというところが作品の質につながるのではないかと思っています、私見では。

ラベル:

2009年9月22日火曜日

ヒュー・ジャックマン


テレビで「Xメン2」をやっていたが、ヒュー・ジャックマンはやはりクリント・イーストウッドの小型版に見えてしまう。

それでも煙草嫌いの彼が頑張って葉巻を吸っているのには微苦笑したのだったが…


「ソードフィッシュ」でもそうだが、ここでもやはりハル・ベリーに喰われている。

もっとも「ソード・フィッシュ」はトラボルタの怪演が恐ろしくいい作品だったので、ハル・ベリーなしでも彼はなかなかに厳しい状況だったが、存在感で言えばこちらのハッカー役のヒュー・ジャックマンのほうがよかったな。


でも、頑張り屋さんだから次の「ウルヴァリン:X-MEN ZERO」がいい作品であることは願っております、もちろん。

ラベル:

下川博 「弩」

脚本家出身の小説家として時代小説を書いたのは隆慶一郎が有名だが、ここに
下川博「 弩」の登場を見た。
脚本家としてのよさも若干の荒さもあるが立派なエンターテイメントだった。
資料のこなし方も申し分なく、また、わたしの知らなかった歴史を教えてくれた。
丹念に本など読んでいれば、しだい次第に自分が真っ暗闇の中に立っていることがわかってきて、自分の知っていることなどほんの少しで、そのわずかな明かりの中で生きているのだと実感するような時間が訪れることがある。
今回もそんな気分の読後感もあった。
何も知らずにいるのだと感じたし、何も知らないことを知らないままでよかったのにとも感じた。

ラベル:

2009年9月19日土曜日

夢をよく見る

いいのも悪いのも含めて夢をよく見る。

古いローカル電車に乗って恐竜や巨大人間の世界を通り過ぎていく夢や、(ときどき奴らは襲い掛かってきたり、優雅に水浴びをしていたりするのであったが)ある娘と長い時間見詰め合っていたりしたりする夢、それは交感に他ならないのだが、そういった現実よりは数倍スリリングな夢が多い。

ところで、これはどうなるかわからないが、山奥の温泉場に隠遁するという話がある。
隠遁と言ってはみたが、実際のところはそこでした働きをする話なのだが、そうなればこのブログもどうなるかわからないし、みなさんとの連絡もどうすればいいのかわからなくなる。

いわば、出世間。

最近物取りがはびこっている。
生きていくうえには仕方がないことで、わたしは無銭飲食の増加を思ったが、実際には物取りの増加とあいなった。

わたしはといえば、出世間というわけだ。

おさらばの仕方とすれば、自殺よりは少しましだろうか。

ラベル:

2009年9月18日金曜日

第57期王座戦第2局


山崎が羽生に届かない。

第57期王座戦は羽生山崎間で行われているが、山崎が勝てない。


かつて山崎が羽生に勝利したのはNHK杯決勝と大和證券杯の二つで、どちらも短時間戦。

長い戦いでは、山崎は羽生に勝てないのだ。


最も羽生の王座戦は現在15連勝とぶっちぎっており、この負けをとやかくいうのも気が引けるが、それにしても勝負には彩があり、山崎と羽生の格付けのいくらかはこの戦いで決まる。

その後に格付けを覆すには大変な努力が要り、それを羽生に対し成し遂げた男を森内俊之しかしらない。


羽生恐るべしというべきか。


その森内は捲土重来を期して、渡辺に今期の竜王戦を挑む。

渡辺は、羽生に3連敗のあと4連勝を返した男である。


羽生の強さはいまだ衰えず、渡辺もその隅にがんと居座る。


山崎よ、一勝を返してほしい。

ラベル:

イチローの記録

イチローの記録は日常が非日常へと昇華していくプロセスで、そのことが、はっきりと映し出されえいるところに特徴がある。

だれも、シューズを磨いたり、グラブを磨いたり、驚くほどに長い柔軟体操や、朝食にカレーを食べることによって始まる毎日のあり方にまったく変化をもたせないことが、それは一種のメンタルタフネスの強力な効果をよぶことなのだが、それらの一体が彼の非日常的な毎日を呼んでいることを知らない。

要は、毎日、一生懸命生きようといっているに過ぎず、そのことで到達した地点がイチローだ。
それは、いわば、修行僧にも似て、耐えて忍んでいく過程だ。

誰でもができることはないし、生きることにある種の信頼感を置いている人の出来ることで、あるいはそういう日常の中で生きることへの信頼感を生み出した人の生活であって、最後の非日常化された野球選手としての記録にばかり目をやっていても彼は見えてこない。

言ってしまえば、彼は、在野の修行僧だ。
それもかなり胡散臭い修行僧だ。

ラベル:

2009年9月17日木曜日

たとえば離婚

離婚というものがこの世にはあり、それが近場で生じることもある。
わが身も含めてだが…

離婚の処理には法的な介入があるものだが、この際に行われる事実の積み重ねは往々にして、実際に進行してきた事実とは異なっている。

事実は最終的に起こった事件ではなく、それまでに積み重なった精神的なもの、感情的なもの、あるときは風情といったものでさえ関係している。

ところで、法というものはこういった揺れ動くものには興味がなく、相手にいくらの預金があるとか、資産としての持ち家の評価額はいくらだとか、あるとき殴ったそうだが、その被害度は医者の証明によってはこれこれだとか、動かぬものが大変にお好きだ。

けれどもだ。
けれどもわれわれの生活は日々動くものによっておおよそ支配されている。
その日々の総括のような人生もまた流動的なものの中に浮かぶ。

あの時どうしたこうしたと並べ立てられても何の実感もわかないものは、確かにそのような事実はあったかもしれないが、その事実は確固たるものとしてそこにあったのではなく、浮遊物としてそこにあったからだ。

そういったことに反して、法律というものに話が及んだとき、事実の持つ浮力に対する言及は何の意味ももたなくなり、ただ事実がそこにあったとしか見えない愚弄すべき人々の主張のみが通っていく。

当たり前といえば当たり前だが、少し腹が立つ。

もちろん、立ててみても法の前には何の効果もなく、ただ泥仕合を呼び込むに過ぎないのだが。

ラベル:

ある焼き鳥屋

東京の場末のとある横丁の話だ。

駅からまっすぐに歩き、目印の電信柱を左に曲がるとその焼き鳥屋がある。
この店は店員として若者たちが仕切っている店であるが、明るく好感が持てる。

さて、問題はこの店に一人の娘がいて、圧倒的に魅力的なことだ。
そしてこの魅力的であるという要素には、自分自身がその魅力を知らないという部分がはいっている。

だから彼女は素足にぞうりを履いて焼き場に立つが、何の違和感もない。
むしろ清楚で美しい。(ほめすぎかもしれない)

ときにあどけなく、ときに優れた無防備のなかに笑顔が美しく、いまや、わたしが贔屓に引き倒している娘だ。
かといって、ストーカーではないからそれ以上のことは知らない。
また、ある程度以上の距離が近づいてもその魅力は崩れるかもしれない。

一瞬の間、咲いている花かもしれない。
そして、そこに花が咲いていることを誰も知らない。

おそらくそういった娘だ。

しかしながら、いい女なんだ、この娘が。

ラベル:

福のや


近所に「福のや」というおでん屋があって、かなりのものを出してくる。
けれどもおでんはおでんで、一個300円もすると、感動も少し消える。
貧乏人の悲哀かもしれない。
一度くらいは出かけてもいい店で、ご主人も素敵ならば店のたたずまいも申し分ない。
ただし、おでんというものに対するわたしの感覚が邪魔をする。
焼き鳥にもこのようなことがある。
ああ、秋であることよなあ。

ラベル:

2009年9月11日金曜日

人の人生に意味はない

これはもともとわたしが何度も語ってきたことだ。

人生に意味がないから、その意味を自分で作り出す。
それが、人生に一貫した人の姿勢だ。
その姿勢が大きな幸福に向かうな、小さな幸福を願えというのがわたしの思いだ。

その標語として「貧乏の共有」がある。

いつだって、幸せは小さなもので、大きさを比較するものではない。
もし、大きさが気になるのならば、それはこの社会が作り出してしまったもので、その因はマスコミや政治を含めたこの国にある。
幸せを銭の高で決めていくようなこの国のあり方に

イチローのインタビューでおもしろい記事を読んだ。
イチローは、自分の動体視力が落ちないために本や映画を見ないそうだ、もちろんテレビも。

人の持つそれぞれの価値観がよくわかるだろう。
それでいいのだよ。

朝起きて、愛する子供と接し、愛する妻がいて食事をする、わずかだが、何とか食っていける畑や田んぼもある。
そういう生き方も選べるということだ。
その生活が不安定ならば、そういう生活を中心にもう少し大きな組織を作ればいい。

とここまでは書けるが、ここからは難しい。
「キブツ」にかかわる集産主義的共同体の問題が生じるからだ。

けれども考えてみてもいいのではないか、少しでも若者の自殺者が減るのならば、いままで幻想で覆ってきた生産から考える経済のあり方を。

それが政治のあり方だ。
今回の自民から民主の転換が革命的なのは、このような重い問題に取り組み始めて時からだと思う。

期待はしないほうがいい。
うまくいけば、お互いに喜び合おう。

ラベル:

うその効用

「国家から身を守るため上での人民の権利だ」
とかつて武谷三男は嘘について語ったというが、それに対し鶴見俊輔は全面的な同意を留保した。
そういうことが言われている。

おそらく事実だろう。

その理由は、一度嘘をついてしまうと自分がその嘘を信じ始めてしまう。
そうして、どこまでが嘘でどこまでが嘘でないかの境界が溶けてしまう。
そこに、自分自身への偽善が生じ不分明になってしまうのではないかというのだ。

厳密といえば厳密だが、ある種病的な香りのする思考方法だと感じる。

恋愛もよく似たところがある。
一度、誰かを愛していると信じてしまえば、それが嘘でも本当でもいずれ不分明になる。

確かなものはそんなにたくさんないのだな。
けれどもその不分明を恐れる人は多くはいない。
というよりは、気にもならないのだろう。

それが、嘘でも本当でも。

ところで、オレはどれだけの嘘をつき、その嘘を自分の思ったことと思ってしまったのだろうか。
それは、オレへの冒涜であったかもしれない。

ラベル:

隠されていた願望

久しぶりに腎臓と肝臓に背中から灸を当ててみた。
そのせいで深い眠りが訪れた。

そのときの夢は、事細かに書くようなものではないが、わたしにとっての肝心なことが映し出されていた。
愛娘と愛息子が誘拐されるという夢だった。
まだ、2,3歳の娘と6歳ほどの息子だった。

どういう目的で誘拐されたとか犯人がだれだったかなどは夢の中であるだけに論理だったものではない。
どこに二人のわが子が発見されたか、そこをどうやって目指したのかも苦労はしない。
わたしに深い彷徨もなくその場所を誰かが教えてくれた。

ただただ、胸の中だけが妙に熱ぼったかった。

問題は、二人を発見したときの様子だ。
それとわたしの心の中。
二人は拘束されていたわけではなく、そのマンションのなかにいた。
何かして二人で遊びながら、話していた。

その二人の目がこちらに向けられたとき、彼らに言いようのない安心感が走った。

無防備な信頼という。あるいは無防備な愛という、そういうものだったろう。
その顔にはそのようなまれにしか観られないものが映っていた。

そして、わたしは震えるほど二人を抱きかかえた。
それだけの夢だったが、目が覚めてもその幸福感はしばらく去らないでいた。

もし、わたしにいまだに誰かを何の脈絡もなくその存在だけに対し、直線的に思いを投げかけていたい心があるとするならば、そして残念なことにその対象がいないのならば、生きていくのは難しいと思う。

わたしの心の貧困さは、そのような単純な感情を深く持ってしまい、それを自らに隠し続けたせいかも知れない。
何の変哲もない夢かと思われるようなことだろうが、無防備に信頼し合い、無防備に愛し合う関係性がいまや、ほとんどこの世の中から途絶えてしまったことを考えれば、この夢は、なんと切ないのだろう。

わたしが、物語を綴るとすれば、その底にはこの切なさが横たわるのだろう。

ラベル:

2009年9月8日火曜日

白洲信哉

この人を見たのはテレビの画像を通して一回きりだ。
そのときは、茂木健一郎とのおしゃべりだった。

どちらもあまりいい感じはしない男たちだが、その著書には触発されることがある。
白洲は知らないが、茂木はその人間としての軽さが彼の思考の大きな支えになっていることを今は知っている。
知ってはいるが、軽薄であると感じる。

致し方あるまい。

その軽薄さが弱点かどうかは難しいところだが、わたしの好みではない。
けれども、わたしの好みなどこの世で何の作用もしないことはさらによく知っている。

さて、白洲氏だが、白洲氏はこの人自体よりも、祖父母によって名高い。

白洲次郎、白洲正子、小林秀雄と並べればなるほどと思われるだろう。
評価はともかく、どの人も見落としてはならない人だろう。

そして、こういう連中の中で育ったことが白洲信哉を育てた。
環境とは、ときにこのような差別を行う。

前述の三人に共通なのは見切りの早さだ。
見切りの早さとは何か、それはつまるところバカとはつきあわないということだ。(バカとは彼らの判断によるもので、社会的な地位とか身分はなんら関係はない。こういうところは少しえらい。少しだけだが…、当たり前のことだからねえ)
バカとつきあっても何にもならないからだ。
それが、彼らを形作った。

そうではないことで自分を形作った素敵な人々たちもいる。
列挙はしないが、たとえば色川武大と書けば、わかってくれるだろう。

さはさりながら、見切りの早さはある種の人間を造形するのには必要なことではあるだろう。

かつて、白洲正子は、アンナ・パヴロヴァと友枝喜久夫を美の真髄を見せてくれた二人としてあげるが、正子に限らず彼らにはこういう冷たさがある。
冷たさといったのは、この二人を挙げたときに「あとにも先にもこの二人しかいない」と言い切ったからだ。

これはいいものを見続けた人の言である。
どう響くかは、あなたの耳にお任せするとしよう。

松岡正剛の下地にも白洲信哉的なものがあるが、彼の父親はもう少し下世話な人だった。
そこが松岡氏と白洲氏の違いである。

このまま書いていると長くなってしまいそうだ。
唐突で申し訳ないが、冒頭の本、通読の価値ありとお勧めして今回は終わりとさせてもらいたい。

ラベル:

ショーシャンク再び

再びショーシャンクを見る。

アンディ・デュフレーン(ティム・ロビンス)とレッド(モーガン・フリーマン)の物語として見る。

いい作品というのは、映画に限らずそういうものなのだが、見るたびに見えなかった部分が見えてくる。今度しみじみ思うのは、人が希望によって生かさせてもらっていることであり、その希望の抱き方はいろいろとあるだろうが、信頼できる誰かとともに抱くことがとても素敵な希望のあり方なのだと感じた。

その意味でのアンディーとレッドであった。

ラストシーンのロングショットをアップにしなかったのには必然があり、そういえばこの映画はアップを極力避けていたと思い返してもみる。

アップは往々にしてお仕着せになり、作品の幅を抑えてしまう。
(もちろん強引に感動を呼び寄せる効果もあるが、その際の感動はよほど注意していないと陳腐なものになる)
それは、昨今の邦画における死に落ち(主人公が死ぬことが初めから設定されている映画)を見ればストーリーとアップの多用(多くの場合だが)にその安直さが見えようというものだろう。

良質のものは決して無理強いをしない。

同じように良質の人間も、また、そうだ。

物静かな「The Shawshank Redemption」は、モーガン・フリーマンのナレーションも心落ち着かせてくれ、劇中を流れる激しいストーリーがまるでうそのようだ。

いつもいつも、この映画はわたしにはありがたい。

ラベル:

2009年9月6日日曜日

恋の運行

わかってもいないのに、わかったように書いてしまう。
それが、麻薬にも似て快感だったのだろうか。

恋の運行を仕切るのは、イメージであって実体ではない。
それが、恋の秘訣だし、その秘訣を元に言い切るコトバが、誰かにほれられたいのなら、その人を愛さないことが秘訣だ、までは引き出せる。

さて、その後にどうするのだろうか。

ほれないままに引き出したその人の恋心は、ほれていないあなたを前にして、どこに行ってよいのやら。
まことに、失礼千万。
哀しき恋心であることよ。

愛さないことが唯一の技術ならば、オレはどこに行けばいいのだろうと思う。
それならば、いっそほれてそこにうずくまったままでいればよかったのに。

なんともややこしい形態をとる恋愛というものの姿であることだろうか。

けれども、人が恋するはじめがイメージだとすれば、やはり恋するその初めから誤りは始まっていたのかもしれない。

愛さないことで、愛されて何の意味があるのだろうか。
そう思う瞬間が、あなたにはないのだろうか?

ラベル:

2009年9月5日土曜日

片岡義男について


今年になって、早川書房から「片岡義男コレクション」が文庫で出ている。
いずれもアンソロジーなのだが、編者が堀江敏幸、北上次郎、都筑道夫とくれば、片岡義男は只者ではないというのがわかろうというものだ。
で、事実、只者ではないのだが、困ったことにこの片岡義男という人はただの人のような書き方をするので、そのテクニックというか、彼の小説世界の深みがなかなかわからない。
ここで、どのようにすばらしいかを書きたてる愚はしないが、要は読者を試すような作家なのである。
もともと作品は発信者と受信者の共同作業のようなところがあり、片岡作品にもその傾向が色濃い。
たとえば、コレクション2は恋愛小説のアンソロジーだが、見事にハードボイルドの手法をそこに導入している。
ハードボイルドでは、登場人物の内面描写を排除する手法をとるが、そのことが作品全体の深みになるという結実に向かわせる。(うまくいけばの話なのだが)
それを恋愛小説で行おうとする無謀は最初から最後まで両者の感情を一切描かないということを考えれば、ほぉぅ、そりゃあ大変だわいと思ってもらえるかな。
片岡氏の恋愛小説の深みは、最終的な勘所を読者に任せ、読者おのおのに果実の甘みを静かに聞いてくるところである。
だとすれば、恋愛経験の多寡によって果実の味が変わるのかといえば、まさにそうなのではあるが、ここで恋愛を実際に行われたものだと限定してもらってはとても困るのである。
恋愛はとりわけ精神的な作業で、それが想像の産物であっても何の不思議ではないからだ。
見知らぬあの娘への思いが、人生の大半の恋愛経験だとしても何を恥じることがあろう。
もともと恋愛は、空から舞い降りる風花のように、手のひらでそっと受ければ消えてしまうのではなかったか。
それでいて、いつまでもその感じが手のひらに刻み込まれたように残るものではなかったのか。
そこにあなたの恋した女がいたのではなかったのか。

ラベル:

暇つぶし!?

人生が暇つぶしかどうかは知らないし、もしかしたら不謹慎なコトバかもしれない。
わたしがそういう風に何かを揶揄してみたかっただけのような気もする。

生きる意味をその人生を生きている本人が決めるのだと思えるのはとてもいい状況だと思う。
多くの場合、生きる意味はその人が生きている時代やその場所が決める。
もっと細かく言えば、生きている社会環境とどの社会層で生きているかが決める。

そういう自分とは別のものが自分の人生を深刻にしていくのであって、そういう心配が一切なく自分の手に人生そのものがあるという状況を手にしているとしたら、それは幸福か不幸かのどっちかだ。

そうでない状況に生れ落ちてしまった人間にとっては人生はのっぴきならないものとして登場する。
のっぴきならない人生はそれを越えていくしかないわけで、それをどのように越えて行こうが、その人生は「暇つぶし」とは程遠いものだろう。

わたしが、人生が暇つぶしだといったのは、それが仮定であっても、いまだにこの国には「暇つぶし」のように生きていける人生を我が手にしている人々が多いからだ。

そのことを恥じることはない。
「暇つぶし」できるとは、もっとも素敵な状況かもしれないではないか。

そういった意味で、揶揄してみただけで、それがいやなら嘲弄すればいい。
そして、娯楽として読む小説は、誰かの言ったように「飢えた子供の前で文学は有効か?」という種類のものではない。(文学そのものがそんなたいそれた発問をするようなものではないのではないか)

大体がこの手の問題を立てる自体が貧困なる発想のような気がする。
そんなことは飢えた子供が決めることで、発問者には何の関係もないからだ。

とにかく、「暇つぶし」と書いたことが気になってここに書き足すことにしました。

幸せなる好事家の諸君へ

ラベル:

本を読むという行為

読書というのは娯楽であって、それ以上のものではない。
特にエンターテイメントに限れば間違いなくそうである。

時に思わぬ拾い物もするが、それは行幸であって所期の目的とは遠く離れる。
そんな行幸に会えばありがたくそれを受け取り、少し幸せな気分になればいいだけの話で、そんな行幸を期待して本を読むのは、動機として少し違うような気がする。

そんな読書にあってもただひとつご褒美はある。
本を読む目が確かになることだ。
これだとて個人差があるから、ただ読んでいれば本を読む目が身につくものでもない。
しかも、よくよく考えてみると見巧者になることは幸せなことかというと裏腹な部分がある。

それは、片岡義男なんかを読んでぶっ飛ぶようなことは起こるが、今まで楽しかった本が急につまらなく思えたりもする。
それぞれをそれぞれに楽しむ境地は、単に見巧者になるだけでは不足のようだ。

それでも本を読みたいというのは、それは好みの問題で、人生が暇つぶしと思うなら、どんな暇つぶしが好きなのかというだけのことだ。

このところ、2,3、本のことを書いてきたので、こんなことを書いてみた。

ラベル:

2009年9月4日金曜日

なんかいいよな、こういうあざとさは

元タレント、田代まさし(53)が3日、都内で学生や社会人を対象に「薬物汚染とのりピー騒動」と題した公開討論会を行った。覚せい剤所持などの罪で約3年半の刑務所生活を送り、昨年6月に出所。覚せい剤取締法違反(所持)の罪で起訴された酒井法子被告(38)について「周囲の人に恵まれなければ、また元に戻る」と心配していた。

(詳しくはhttp://sankei.jp.msn.com/entertainments/entertainers/090904/tnr0909041103005-n1.htm

田代さんは先輩としていろいろ話したんだそうだけど、3年6ヶ月の実刑から復帰して約1年。
とにかく、何とかしようという、あの時々台所を徘徊する、みんなに嫌がられる、黒光りというか茶色光りというか、殺虫剤や虫捕り器を仕掛けられる、あの虫のような生命力を感じます。
なんともたくましや。

頭、下がります。
こういう人が生き抜いていけるんだろうなと、ちょっとびっくりして感激。

多分もうすぐテレビにもコメンテーターとして登場するかもね。
すごいもんだ。

ラベル:

宮崎あおい

あの「招き猫ダック」のCMの女の子、宮崎あおいなんだってねえ、うまいわけだ。
名前は知っていてもあんまり見たことないから知らなかったよ。
彼女の仲のいい蒼井優は、見分けつくんだけどね。

もっと見分けがつくのが上戸彩だけど、コマーシャルでこれだけ力量が違うとつらいものがあるな。
もちろんわたしの贔屓は上戸だけど、早く引退してほしいと思う。
何のせいかわからないけど、いまは売れてるわけだからさ。
(たぶん性格のせいだと思うけど、実際のところ、性格で売れるのかねえ)

しかし、何回出会ってもあのコマーシャルの宮崎あおいはいいねえ。
ありゃあ、大物になるわ。
あれがだめなら、しばらくは邦画も沈没したままだね。

もちろん蒼井優もいるんだけどさ。

しかし、知らなかったけど、あれが評判の宮崎あおいでしたか。

ラベル:

チームバチスタの栄光

「チームバチスタの栄光」は編集者が改題したもので、もともとのタイトルは「
チームバチスタの崩壊」だった。
この改題のセンスはなかなかのものだ。
コトバにはこのような働きがあって、「チームバチスタの栄光」には崩壊が内在されているというわけだ。
一つの言葉がそれとは真逆の何ものかを持っているというのは、生と死を考えてみればわかるだろうが、それでもわからなければうっちゃっておいてもいい。
いつかわかるだろうし、いつまでたってもわからなければ、それはそのことがあなたにとってあまり重要なことではないということだ。
とにかく、この小説は栄光と崩壊の二つをその内容にもち、その移行していく様相がストーリーのほぼすべてだ。
そのストーリーに読者をうまく乗せれるかどうかが勝負なのだが、この小説ではかなりうまくいっている。
それはキャラが恐ろしいくらい立っているからだ。
その代表が途中から登場する白鳥圭輔。
この白鳥、医学という分野では伊良部一郎と並び立つ。(キャラの立ち方がね)
だが、短編で白鳥は十分機能するだろうか。
ま、それはいいではないか。
これは、海堂尊の処女作なのだから。
その後の海堂の活躍はご存知の通りだ。
さて、あえてこの作品を取り上げたのは、一つのことが気になったからだ。
この作品の終末で活躍するのは「Ai」という技術だ。
日本語では、死亡時画像診断というそうな。
このことをずいぶんと海堂氏は主張したかったらしい。
以後の海堂氏の著作を読めばわかる。
彼によれば、日本では、あまりにも死後の処理が甘いらしい。
そのため医療事故だとか殺人だとかが多く見逃されているらしい。
そして、一番大きな問題は、死因究明をおろそかにしているために医療の進歩が止まっているのだという。
本職の医者がそう嘆くのだからそうなのだろう。
医者不足がここ数年で来ること。
医療の技術として重要な「Ai」の導入が十分になされていないこと。
それが、海堂氏の大きな悩みだ。
わたしにはもう一つ実感がわかない話だが、待っていればいつか実感としてわかるかもしれない。
そういえば、この作品、専門用語が飛び交うがあまり気にならないようになっている。
それは処理の仕方もそうだが、小説には疎い作者の技量にも拠る。
それにしては、エンターテイナーとしてうますぎるではないか、さらに書けば、底に大きな問題を持たせている志の高さもいいではないか。
この小説、医療の問題がわれわれの思っているより遠く深くなっていることを教えようとしている作品だとしみじみ思い、感謝する。

ラベル:

2009年9月3日木曜日

ガリレオの苦悩

「ガリレオの苦悩」は短編集なのだが、先に読んだ「聖女の救済」に比べて落ちるのだ。
ガリレオと呼ばれる湯川学準教授のキャラが立っているからこその短編集で、もちろん内海薫という女性刑事も十分魅力的なのだが、それ以上特筆するものはない。
特筆するものはないと書いても、標準レベルは越えているのではあったが…

さて、ここでそのようなことを取り上げたのは、この前「聖女の救済」について書いたことへの訂正のためであった。
東野圭吾の卓抜さは短編の技術を長編の中でも開花させてみたことだと書いたが、実はそうではない。

東野圭吾は短編の中では十全に短編の技術を開花できないのであった。
端的に書けば、短編を書けないのだ。

したがって、短編を書くためにあれほどまでに長い小説が必要となり、それが読み手には長編と映ってしまったのだ。
あくまでも東野は短編を書いていたのだった。
だから「聖女の救済」もまた短編であったのだ。
だからこそ、主題は一つに絞り込んであったのだし、読後感がよき短編を読んだときのような心地よさと酷似していたのだった。

少し詳しく書けば、彼には短編を書くほどの硬質な感じが彼には出せないのだ。
それを文章が下手だとけなしてもいいのだが、ここではそれをしない。

なぜなら、その欠点により東野作品はとても読みやすいものに仕上がっているし、楽しんで読むとしたらこれほど信頼でき、お値打ちのものもないからだ。

くりかえすが、ここで指摘しておきたかったのは、東野圭吾は長編に短編の技法を持ち込んではいないということ。
その内実は、東野圭吾の質の高い短編はその作品の長さにおいては長編であるということだ。

イヤ、考えてみればそれもすばらしいことではないか、なにしろ短編はその分量で決定されるのではないことを教えてくれたのだから。
そう思って読んでみるとなるほど東野作品の多くの長編(分量的)は、短編の要素で満たされていることがよくわかると思う。

だとしたら、「白夜行」は?

イヤなことをお聞きになる。

もちろん、あれは長編だ。
東野作品にあっては、長編(分量的に)として長編(質的に)が成功した稀有な例だ。

ラベル:

2009年9月2日水曜日

草薙くんのこと

そういえばとふと思うのですが、一時報道をにぎわした草薙君は覚せい剤をやっていたわけではないのでしょうね。

権力も捕まえる相手を選び、そこから複数の常習者を手繰れる有名人だけを対象にしたいために草薙君は見逃したりしてはいないでしょうか。

ところで、押尾被告はやはり司法取引をしたのでしょうな。

よくわかりませんが、この国で唯一合法的な暴力を使える警察権力は怖いものです。
皆さん注意して、立ち上がるときはともに立ち上がりましょう。

ラベル:

新型インフルエンザ

北海道は31日、新型インフルエンザに感染した40代の女性保健師が8月30日に死亡したと発表した。死因は急性心不全。女性は健康診断で高血圧症とされていたという。新型インフルエンザ感染が疑われる死亡例は全国で8例目。

しっかりとしたニュース報道ではないか。
毎度書くように出はなぜ自殺報道が懇切丁寧ではないか。
もちろん、少年少女の話題性のあるいじめによる自殺、有名人の自殺などの報道はあるものの、そのほとんどは報道されない。

おそらく、それがこの国の実態だからだ。
一日に百人あまりの自殺者ということは、もうこれは戦争と同じ状態に入っているわけで、公に百人あまりというのは、おそらくそれ以上の自殺があるのだろうし、自殺に踏み切って死ねなかった例も信じられないほどあるのだろう。

交通事故死は事故後一日以内の死でなければ事故死の範疇に入れない。
自殺ではどうなのか?

とにかく、インフルエンザにワクチンを早急に用意しなければとマスコミも政府も躍起になっているが、自殺のほうに対する緊急の対策はどうなっているのか。

まさか自殺のほうは自己責任だと高をくくっているのではあるまいな。
自殺もまた追い込まれて死んでいく現象で、その現象が少し変われば犯罪へと向かう。
それが日本における妙な犯罪の形態をとっていることも一面の真実だ。

しっかりとしたデイリーの自殺報道を続ければ、この国が何をしなければならないか、そしてすでに何が手遅れになっているかわかってくるだろう。
この国にはすでに手遅れの部分がある。

そのこともまた、国民にしっかりと知らせなければならないのではないか。
そのためにパニックになったとしても。

インフルエンザ程度であれば(亡くなった人には申し訳ないが)、報道しても差し支えないのかい?

ラベル:

2009年9月1日火曜日

酒井法子の生い立ち

酒井法子の生い立ちは内緒ごとだったんだよね。

芸能界では都合の悪いことはそうすることになっていて、イメージが傷つくからという理由で、ずっと隠していたのに、日刊スポーツ、週刊新潮と相次いで載せた。

もはや、彼女は芸能人ではないわけだ。
たとえば在日朝鮮人、韓国人である芸能人はあまり取りざたされない。
野村進著「コリアン世界の旅」に詳しいが、なかにはカミングアウトした芸能人もいるが、表ざたにすることは早々簡単ではない。

芸能人というのは一種のイメージ戦略の賜物だから、そういうことになる。
同じように部落民やアイヌ出身者もあまり取り上げられない。

どうってことはないと思えば思えるけれど、世間というのは意外に肝要ではないのだ。
でなければ、酒井法子報道があんなにマスコミをにぎわすわけはない。
マスコミをにぎわす=視聴率が稼げる、というわけで、皆さんお好きなわけだ。

そういうわけだから、和田アキ子や矢沢や都はるみや西城秀樹やその他もろもろの大物も取りざたされてこなかった。
かれらは、この国では被差別者だから成り上がる道はあまり多くなく、それで芸能界やスポーツ界に流れたわけだ。
いまはずいぶん軽くなった。

東大の姜 尚中なんかがあんなに高く評価され取りざたされる時代だものね。

だから、酒井があれほどマスコミにいじられるのは久しぶりだ。
ま、これもやくざがらみだからいじられただけで、在日や部落民であれば文句が怖くて、マスコミも動かなかったのだろうね。

覚せい剤とやくざはなんとなくつながりがいいから。

でも、覚せい剤が禁止されてなかったころは、この国もばんばんヒロポン飲んでいたんだけどね。
これは国家権力の規制で、国家権力は恣意的に動けるという印でもある。

現に禁酒法を国家権力が採用すれば、覚せい剤と酒は同罪だ。
犯罪に至る可能性はどちらが大きいかは微妙ではないだろうか。

もちろん禁酒法は出来ない。
酒造会社との関係の問題だ。

覚せい剤は、北朝鮮のお得意だものな。

ラベル:

民主大勝でしたね

選挙期間中は、貧困の共有なんて言えはしないけれど。(投票されなくなっちゃうからね)

満足に介護もされず、老老介護で共倒れしたり、親の介護で身動き取れなくなったり、それより何より、もう5年以内には圧倒的な医者不足が来ると言うし、自殺者は今年度は3万4千人へとひた走り、インフルエンザにはあんな大騒ぎをしても自殺者の深刻な状況には無関心を装う。

この国がほぼ破綻間違いなしなのは、現在の破綻状況でよくわかる。
それを避けるためには、破綻しない一部のシェルター入りの特権階級を作るしかなく、選挙で民主党に何とかしてもらおうと投票した人たちはその中に入っていない、

もし、彼らが、何とかなるためには貧困の共有が必要で、貧困の共有には特権階級の妥協が必要なのだ。

それを彼らがいやがるための格差社会であり、格差をなくすためには上のものを引き摺り下ろすしかない。
それが、グローバルな資本主義の運動の中にある格差社会で、貧しさが貧しさを呼ぶだけのことだ。

世界で一番住みやすい国として名高いのはデンマークだが、そのデンマークにしても医療問題を抱えている。
医者や看護婦が少ないのだ。
けれども、あの国が悪くない、と彼らが思うのは、格差が異常に少ないからだ。
デンマークでは公務員の給料はかなり低く、その意味で税金の無駄遣いが問題にされることはない。

貧困の共有の中には、公務員の生活レベルを落としてしまえという意思が潜んでいる。
そういった激しい考えがこの国に通るとは思えないが、通らなければ通らないでこの国の貧困層は別のどこかに作らなければならないし、自殺者の数はさらに増える。

いつまで増えるかといえば、この国がうまく運営できるようになるまでだ。
もちろん貧困を共有できれば別なのだが。

人は、貧困でも幸せになれる。
幸せとはそういったものだ。

格差とは貧困を共有しないところに生まれてくるというのも一方からの見方なのだ。

民主党が少しでも頑張ってくれることを求める。
この場合の頑張るは、パイが大きくならないとしたらどうするかまでの視野を持ってほしいということだ。

ラベル: